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狭義の花岡事件(はなおかじけん)、花岡暴動事件は、1945年6月30日または7月1日の深夜に、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の華人労務者が、同出張所の輔導員(監視員)ら5人を殺害し、約800人で集団脱走した事件。逮捕時の「山狩り」や逮捕後の警察による暴行・虐待により、華人労務者のうち数十人が殺害されたり、死亡したりした。日本の敗戦後も暴動の首謀者とされた華人労務者の幹部13人の裁判手続きが続けられ、1945年9月11日に秋田地方裁判所で無期懲役以下の判決が下されたが、受刑者は数日後に秋田に進駐してきた米軍によって保護された。
目次
暴動前の状況[編集]
1944年に、各県警察は、華人労務者を使役する事業所に対して、中国人を厳格に管理し、待遇を良くしないように指示していた[1]。花岡鉱山も、1944年6月末日および同年10月4日付で秋田県警察部長から華人の取締・管理について指示を受けており、鹿島組花岡出張所には派出所が置かれて警官1人が常駐し、大館警察署の後藤健三巡査部長や花岡警部補派出所の警官が毎日のように華人労務者が居住していた同出張所の「中山寮」や作業現場を巡視していた[2]。
1944年7月13日には内務省・厚生省の官僚や警察関係者など20数名が花岡鉱山を訪問し、その際に内務省の本間嘱託は、宿舎の設備や布団、食糧の配給などが多すぎ、贅沢すぎる、華人を放任しており、言うことを聞き過ぎ、甘やかしすぎている、作業効率が低いのでもっと働かせるように、などの指示をした[3]。花岡出張所の作業現場では、中国戦線から帰還した傷痍軍人5人が「輔導員」として警察的な管理・監督を行い、ほか3人が輔導員に類した仕事をしていた[4]。
鹿島組花岡出張所の華人労務者は、中山寮の伊勢寮長代理や、現場で華人労務者の監督・監視にあたっていた輔導員による食糧の横領によって配給予定量の食糧を与えられず、休日なしで毎日長時間の重労働に従事し、何か気に入らないことがあったときや作業が滞ったときなど日常的に輔導員からの暴行を受け、病欠者が多くなると食糧の配給が減らされ、衣料品の支給も少なく中山寮の建物・設備が粗末で冬場の寒さがしのげないなど、劣悪な生活・労働環境に置かれていた[5]。
- 藤田組・花岡鉱山の「東亜寮」の華人労務者に比して、鹿島組花岡出張所の中山寮の華人労務者は身体や栄養の状態が悪く、病人も多かったが、警察は華人労務者を病院に入院させないように通達しており、鹿島組は医師(免許のない人物もいた)を中山寮に派遣していたが、満足な治療はなされず、仮病による労務放棄の防止に重点が置かれていた[6]。
- 中山寮には食糧が豊富にあり、鹿島組花岡出張所の職員は豊かな暮らしをしていたとの証言がいくつかあるため、鹿島組花岡出張所に対しては配給品は支給されていたが、華人労務者には配給されずに、出張所の関係者や輔導員たちによって物資のピンハネ・横流しが行なわれていたとみられている[7]。
- 華人労務者の中でも、軍需長として食糧の分配を担当していた任鳳岐は、中山寮の寮長代理だった伊勢や輔導員の小畑惣之介と親しくし、寮関係者による華人労務者用の物資の横流しに協力し、配給品を輔導員に渡していたため、華人労務者の仲間から恨まれていた[8]。書記として任と同じ内勤事務を担当していた劉玉卿は、食糧の出納も記録しており、任による食糧の横流しを咎めたため、小畑から暴行を受け机を片付けられるなどの嫌がらせに遭い、書記の仕事ができなくなっていたという[9]。
1944年8月に連行されてきた第1次の華人労務者300人弱のうち、8ヶ月後までに約90人が死亡した[10]。工事に必要な人数が不足したため、1945年5月に第2次約590人、同年6月に鹿島組玉川出張所から第3次98人の華人労務者が連行されてきた[11]。
新たに到着した華人労務者は悪待遇に馴れていなかったため、病気に罹患したり、監督にあたっていた輔導員から見せしめの場合を含めて暴行を受けて負傷・死亡したりする人が多く、待遇改善を要求したところ却って苛酷な労働を課されるなどして、状況は悪化していた[12]。
1944年8月から1945年6月までの間に、花岡出張所に連行されてきた華人労務者の人数は、第1次-第3次の合計で986人-979人とされている[13]。うち約700人は元農民、約140人は元軍人、約100人は元商人だった[14]。
このうち、暴動事件までに、殺害されたり、病死するなどして、第1次297人のうち113人、第2次587人のうち23人、第3次98人のうち4人が死亡していた[15]。死者のほかにも、約50人が病気や怪我で病室に入っており、怪我で後遺症を負っていた人が生存者の約1/4に及んでいた[16]。
暴動事件[編集]
蜂起のきっかけ[編集]
華人労務者隊の大隊長・耿諄ら華人労務者の幹部は、「このままではいずれ全員が殺されるから、蜂起して輔導員に報復し、失敗して死んだ方がいい」と考えて、蜂起を計画した[17]。
- 1985年11月の石飛仁による耿諄へのインタビューによると、耿諄は、1945年4月下旬には幹部に蜂起の意思を伝えていたという[18]。
- 華人労務者たちが蜂起を決意したきっかけとして、1945年6月20日以降に、華人労務者の仲間の1人・薛同道が、飢えのため規律違反をしたことを咎められ、輔導員から暴行を受けたこと
- 戦犯裁判における華人労務者隊の中隊長・李克金の宣誓供述書によると、1945年6月20日以降、暴動事件発生前に、薛は食糧を要求しに鹿島組の事務所に行き、そこで暴行を受けた。李のほか耿諄、羅世英、王成林、張金亭ら華人労務者隊の幹部もその場に呼び出され、輔導員の小畑や福田が牛革の笞や棍棒で薛を殴打するのを見ていた。薛は翌日中山寮に戻されたが、暴動事件の発生後、7月中に死亡した。[19]
- 野添(1993,p.39)によると、耿諄は1987年の「感謝のことば」の中で、薛は、道端に捨てられていたリンゴの芯を拾って食べようとしたところを輔導員に見つかって殴打され、その場で死亡した、と説明していた。
- 劉(1995,pp.127-130)によると、薛は、山で草を食べていて夜の点呼の際に行方不明になっており、捜索により発見された後、輔導員から殴打などの暴行を繰り返し受け、一晩中苦しんでいたが、翌朝には死亡していた。
- 野添(1975,p.98)は、李振平の証言として、薛は仕事中に裏山で草を食べていて寮に帰るため点呼をとった際に行方不明になっており、見つかった後で暴行を受け、3日後に死亡した、としている。
- や、精神に異常をきたして現場から行方不明になった華人労務者の1人・劉沢玉[20]が、花岡出張所に連れ戻された後で、輔導員から虐待を受けたこと
- 戦犯裁判における華人労務者隊の中隊長・李克金の宣誓供述書によると、劉は「少し頭がおかしくなっていて」6月に鉱山から逃亡し、捜索に出た李と輔導員の石川・清水によって連れ戻された後、清水が劉の両手を縛ったまま地面に腹這いにさせ、水桶を運ぶ天秤棒で10回以上殴打し、その後、竃から取り出した薪を劉の両足に何度も押当て、鉄道の線路の継ぎ目板を竃で熱して劉の足に押当てた。劉は一度寮に戻された後、再び清水に呼び出され、複数の輔導員から暴行を受けた。[21]
- 劉(1995,131-132)および元井英資「清水正夫が焼火箸を華人労務者中逃亡したる者に押付けたるの件」[22]によると、1945年6月に、劉沢玉は、寮を抜け出して草を食べていたことを咎められ、輔導員補佐の清水正夫が鉄の棒(鉱山の小軌道の断片)を炊事場の竈で焼いてから劉の両股の間に挟ませ、他の輔導員に手足を押さえ付けさせて、更に尻や股に押しあてる虐待をした[23]。
- 劉智渠の証言によると、1945年6月初めに連行されてきた華人労務者で、空腹で「頭おかしくなった」人が、他の現場に食べ物をもらいに行き、輔導員に見つかって焼いたレールを股にあてるなどの虐待を受けた。その後、傷が悪化して重態になったが、日本の敗戦が判明して米国のペニシリンが入手できたため助かった。[24]
- 野添(1975,pp.101-102)は、李振平および林樹森の証言として、劉沢玉は夜中に寮の前の川で蟹を取って食べているところを見つかり、輔導員による虐待を受けて殺され、華人労務者たちは指示を受けて劉の死体を埋葬した、としている。
- が挙げられている。
- 朝倉喬二が記録した宮耀栄の証言によると、1945年6月頃、輔導員の殴打や栄養失調による死者が増加し、それを山へ運んで火葬する際に、作業を志願する者が多くなったため、耿諄が不思議に思い、何をしているのか調べると、運んでいった者が死体の肉を缶詰の蓋で切り取って食べていた[25]。また上海在住の事件の生存者・張海萍も、死体を焼く仕事をしていた華人労務者が人肉を食べていたことを証言している[26]。耿諄は人肉食のことを知り、耐え難い状況だと考えて、蜂起を決意したという[27]。
- 野添(1993,p.22)は、1945年6月27日に、秋田県労務報国会が計画した「工事突貫期間」により、華人労務者の作業時間が毎日朝晩2時間延長されることになり、この「工事突貫期間」4日目に華人労務者による暴動事件が起きた、と指摘している。
- 華人労務者の幹部たちは、1945年5-6月に花岡出張所に連行されてきた華人労務者たちから、日本がかなり追い詰められた戦況にあることを聞いていたが、あと1ヵ月半で敗戦になるほど日本が追い詰められているとは分からなかったという[28]。
蜂起計画[編集]
中山寮の監視は厳しく、また軍需係の任鳳岐が輔導員に通じていたため、耿諄は大勢の幹部や華人労務者を集めることを避け、個別に幹部と相談して4人程度で計画を立てた[29]。蜂起の直前まで、計画を知っていたのは8人の幹部だけだった[30]。
- 劉智渠の戦後の回顧録によると、計画では、最初に、任鳳岐と輔導員を報復的に殺害して外部の警察や軍隊への連絡を阻止し、全員で食事を取った後、米国人俘虜収容所と花岡町駐在所を襲撃して警備にあたっている日本兵から武器を奪い、山中に入って遊撃戦をして連合軍の上陸を待つことになっていた[31]。また決起予定の6月30日夜には下記の分担が伝えられたという[32]。
- 李克金は20人で事務室の窓口を守る
- 劉玉卿は30人で四方の要地に伏兵を置き、輔導員の脱出と逃亡を防ぐ
- 李黒成は電話線の切断を担当する
- 張金亭は20人で室内に入って敵を殺す
- 張賛武は比較的強壮な80人で、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する
- 劉錫方は20人で花岡警察局を襲撃する
- 看護班は外で全員が決起してから、病人を山の上に移す
- 最後に羅士英の監督の下に放火して中山寮を焼き払う
- 1985年11月の石飛仁による耿諄へのインタビューによると、耿諄は、蜂起が鎮圧され、殺害されることも覚悟していたが、極力抵抗して、山伝いに北上して青森から北海道へ渡り、北海道からソ連国境ないし満州へ渡ることを考えていたという[33]。また耿諄は、軍需係の任鳳岐が殺害の標的とされたほかにも、副隊長の羅世英、第三中隊長の王(または大)成林や炊事班長の某人は任と親しかったため、蜂起計画から外した、としており[34]、副隊長の羅世(士)英に関する証言が劉智渠の記録と食い違っている。
- 計画は綿密に立てられていたとの証言もあるが、直前まで限られた幹部しか計画を知らされていなかったため、暴動参加者の中には「アメリカ人も連れて山の中に逃げ、山を越えて海に出ると舟を奪い、アメリカ人に運転させて祖国に帰る」という「夢のような話」だったと認識していた人もいた[35]。
- 耿諄らは蜂起がうまくいかないと考え、幹部に蜂起後に自殺するよう指示していたとの証言もある[36]。
決起予定日の変更[編集]
- 劉(1995,pp.137-140)は、当初は6月26日夜に決起を予定していたが、報復の対象と考えていた輔導員のうち、小畑、福田、清水らが宿直しないことが分かったため、決起日を6月30日夜に変更した、としている。
- 野添(1992,pp.147-149)は、李振平の話として、もともと決起予定日は6月26日だったが、同日は「輔導員の中でもいちばん悪い」小畑、福田、清水が宿直せず、中国人に同情的だった越後谷と石川が宿直予定となっていたため、2人に害が及ばないように決起日を遅らせ、6月30日夜(7月1日午前1時)に蜂起が決行されることになった、としている。
- 耿諄は、1985年11月に石飛仁のインタビューを受けたとき、日本人に同情的だった越後谷と石川が宿直しない日を選んで決起したとしており[37]、1987年6月30日に大館市役所で記者会見したときには、最初は6月27日の決起を予定していたが、中国人に同情的だった「19歳と45歳の2人」が宿直予定だったため、同月30日に決起した、としているが[38]、石川は決起当日宿直していた[39]。
蜂起と集団脱走[編集]
1945年6月30日夜9時頃、幹部から決起の計画が全員に伝えられ、華人労務者たちは、翌7月1日午前1時の決起を予定して持ち場に着こうとしていたが、同日夜10時過ぎに、輔導員らを殺害する担当だった20人のうちの2人が早まって「漢奸(裏切り者)」として殺害予定だった任鳳岐を殺害し、物音で目を覚ました輔導員らのうち猪俣と桧森の2人をツルハシで殺害したが、他の輔導員は中山寮から逃走した[40]。悲鳴を聞いた華人労務者たちが慌てて行動を始め、長崎と小畑の2人が逃走中に殺害されたが、他の輔導員4人はそれぞれ逃げ延び、伊勢は鹿島組の事務所にたどり着いて蜂起を伝え、助けを呼んだ[41]。
逃げ延びた輔導員が中国人の蜂起を伝え、警報や半鐘が鳴らされた[42]。華人労務者たちには襲撃を中止して、山に逃げるよう命令が伝えられた[43]。
耿諄ら幹部や元軍人らは主力集団を形成して、スコップやツルハシなど武器になるものを持って逃げたが[44]、他の華人労務者は食糧が隠匿されていると目されていた中山寮の倉庫を破って小麦粉を食べたりポケットに入れたり粉袋を担いだりして、衣服や布団を持って逃走した[45]。病気や怪我で看護棟にいた華人労務者たちも逃走したが、遠くまでは移動できなかった[46]。
主力集団は、計画が失敗したため、暗い中で目印になった高い山へ向かって逃げ、花岡から見て東南にある釈迦内村の獅子ケ森[地図 1]の山中に立てこもった[47]。
鎮圧と報復[編集]
翌7月1日未明から、警察官、消防団員、警防団員、在郷軍人、青年学校の生徒など多数の地元住民が動員されて「山狩り」が行なわれ、神山[地図 2]付近や旧松峰[地図 3]付近にいた病弱者らは蜂起から数時間ほどで逮捕され[48]、その後、疲れて路上を歩いていた2-300人が逮捕された[49]。
同日朝には秋田市や弘前市から憲兵隊が到着し、獅子ヶ森山中に籠っていた約300人の主力集団を武装して包囲し、華人労務者たちは散発的に石を投げるなどして抵抗したが、発砲を受けるなどして殺害・逮捕された[50]。
この他にも数人で逃走し、山を越えたり隣村に出たりした人もいたが、一帯の村々では蜂起から7月6日頃まで厳重な捜索・警戒態勢が敷かれ、逃走した華人労務者も逮捕され、逮捕後に暴行を受けて殺害された人もいた[52]。
同日朝から、逮捕された華人労務者たちは、共楽館[地図 4]前の広場に集められた[53]。全員が、2人ずつ後ろ手に縛られた状態で、広場の砂利の上に目隠しをして正座させられ、食事や水を与えられないまま、同日から3日まで広場に止め置かれた[54]。
憲兵や警察は、共楽館前に連行された中国人の中から事件の首謀者や、輔導員らを殺害した実行者を探し出すため、中から数人ずつを共楽館の劇場内に連れて行き、尋問した[55]。その際、平手打ちなどの暴行を加え、椅子に縛って水責めにしたり、指を針金で縛って宙吊りにして棍棒で殴打するなどの拷問を加え、これによって殺害された人がいた[56]。
蜂起を計画した8人は自分たちが首謀者だと名乗り出たが計画の詳細については黙秘し、13人が首謀者とみなされて繰返し拷問を受けた[57]。警察は首謀者は拷問しても殺害するつもりはなく、裁判で死刑になるまで殺さないと言っていた[58]。共楽館の中で死亡した人の遺体は、建物の脇に積まれていた[59]。また広場に座らされていた人の中にも、衰弱して死亡したり、姿勢を崩したことを咎められて警官に殴打されて殺害されたりした人が出たが、遺体はそのまま放置された[60]。
- 劉智渠は秋田県衛生局による広場の遺体の検屍に立ち会った[61]。
事件から5日後に、主謀者として耿諄ら13人が秋田市の刑務所に運ばれ、生き残った人たちは中山寮に戻され、寮の周囲には有刺鉄線が廻らされ、武装警官が巡回・警備にあたった[62]。1945年7月7日に、耿諄ら13人は、国防保安法の「戦時騒擾殺人罪」で送局された[63]。
共楽館前の華人労務者の遺体は事件後しばらく放置され、10日ほど経ってから、生き残った華人労務者によって姥沢山の中腹に大きな穴(「大穴」)が2つ掘られ、花岡鉱業所の朝鮮人労務者によって共楽館前から遺体が運び込まれ、穴に埋められた[64]。
暴動後の状況[編集]
使役の継続[編集]
暴動事件の後、伊勢寮長代理は中山寮の看護係になり、花岡出張所の河野所長が中山寮の寮長になった[65]。その他の生き残った輔導員たちは別の職務に移され、新任の大久保寮長代理や、赤塚輔導員らが配置された[66]。華人労務者隊の大隊長には李介生が指名され、副大隊長は以前と同じ羅世(士)英だった[67]。
暴動事件後、秋田県警察部特高課の指示により、警察による鹿島組花岡出張所の管理が強化された[68]。
暴動後も華人労務者の食糧事情には変化がなく、また衛生状態はむしろ悪化しており、病死者や栄養失調による死者も減らなかった[69]。輔導員は以前のように度の過ぎた虐待はしなくなったが、「打たれたり、罵られたり」することは続けられていた[70]。
1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後、同月17日に内務省主管の防諜委員会から、敗戦に伴う華人労務者の取扱いについて、労務を中止し、賃金を支払い、衣料品・食糧を支給し、留置者を釈放し、死者の遺骨を整理して送還の準備をするよう関係者に通達が出された[71]。しかし、鹿島組花岡出張所では通達は破棄され、華人労務者に敗戦の事実は伝えられず、使役が継続された[72]。
同月28日に、米軍機B29が花岡町の上空から花岡鉱山の米軍捕虜収容所に慰問品を投下し、このとき華人労務者たちは戦争が終わったことに気付いた[73]。直後に大館警察署の三浦署長が中山寮を訪れて「大東亜戦争が終った」ことを伝え、日本の兵隊が帰国し、仕事を引き継いだら中国に送還するとの話があり、華人労務者たちは、終戦の条件が分からないまま、引き続き働かされた[74]。
その後、中山寮にやって来た通訳から日本の敗戦を伝えられ、華人労務者たちは労務を放棄したが、食糧などの待遇は改善されなかった[75]。
鹿島組花岡出張所では、終戦以降も、1945年8月に49人、9月に68人、10月に51人、11月に9人と米軍が介入する同年10月まで、死者の多い状況が続いた[76]。
同年10月に米軍の調査隊が花岡に入った後、食糧が十分に支給されるようになり、病人が花岡鉱山病院に収容され治療を受けるようになると、華人労務者の栄養状況・健康状態は眼に見えて改善した[77]。
秋田裁判[編集]
暴動事件により逮捕された耿諄ら13人の幹部のうち12人ないし11人は、8月17日の通達発出後も釈放されず、日本の敗戦などの状況を知らないまま起訴され、同年9月11日に秋田地方裁判所で「戦時騒擾殺人罪」により耿諄は無期懲役、ほか11人は懲役3-10年の有罪判決を受け、同日13日に秋田刑務所に護送された[78]。
- 西成田(2002,p.401)によると、このとき判決を受け、秋田刑務所へ護送された12人は、耿諄、李光栄、李彦紳、劉玉林、劉玉郷、張金亭、楮万彬、張書森、張賛武、劉錫財、孫道敦および宮耀完。石飛(1973,p.156)によると、秋田刑務所に送られた13人は、耿諄、李光栄、李秀深、劉玉林、劉玉卿、張金亭、趙樹林、張賛武、劉錫才、孫徳泉、宮耀栄、馮輔延および李克金。
- 罪状について、石飛(1975,p.156)によれば『秋田県警察史』に「(…)13人を国防保安法第16条第2項適用の戦時騒擾殺人罪として送局した」との記述があり、新美(2006,p.304)は「『国防保安法』の戦時騒擾殺人罪で送局(起訴は刑法)」と記しているが、「戦時騒擾の罪」は戦時刑事特別法第9条[79]にある[80]。西成田(2002,p.401)は「戦時騒擾殺人罪」、田中(1995,p.174)は「殺人罪」と記している。
- 判決文は、暴動事件の背景について、「昭和20年(1945年)6月25日より突貫期間と称し、労働時間を延長し工事を促進し来りたる関係等より、下痢患者其の他の病者続出し死亡する者亦少なからざる状況にあり、他面輔導員中其の素質悪く、往々にして華人労務者を殴打する者ありて、労務者管理の方法拙劣なりし為、被告人耿諄は大隊長としての責任上、之を打開せんと苦慮し、度々鹿島組花岡出張所長及所管警察当局等に対し、之が改善方を願出でたるも実現を見るに至らず、却って輔導員等の反感を招き虐遇を受くる有様なりしを以て、同人は華人労務者等を右窮状より脱せしむるに、寮長、輔導員等を殺害して逃走するの外方途なしと思考し、又、他方軍需たりし任鳳岐は食糧の配給等に付不正を為し、同胞なる華人労務者等を苦しめたるところより、日本人輔導員等殺害と同時に、同人に対しても制裁を加へんとし(…)」と認定した[81]。
判決の数日後、秋田に進駐してきた米軍は、秋田刑務所にいた受刑者を保護し、待遇は改善されたが、受刑者たちは戦犯裁判の証人として引き続き留置された[82]。
補遺[編集]
暴動発生日の記載揺れ[編集]
暴動事件の発生日は、文献により、1945年6月30日または同年7月1日とされている。
- (1945年)7月3日付、鹿島組本社(渡辺専務)宛て、(花岡出張所)河野所長発出電報では、事件発生を同月1日午後10時半としている[83]。
- 「秋田県警特高警察資料」の中の、「特高秘557号」昭和20年7月8日付、内務大臣安部源基殿あて、秋田県知事久安博忠(警察部長)発出文書に、1日午後10時20分との記載がある[84]
- 1945年9月の「秋田裁判記録」の中では、暴動事件の発生は7月1日夜(10時20分)とされている[85]。
- 1946年3月14日付で鹿島組から外務省に提出された「華人労務者就労顛末報告書(事業場報告)」には、「騒擾事件」の発生日について7月1日との記載が3ヵ所あり、6月30日との記載が1ヵ所ある[86]。同報告書附表2の関係者名簿によると、暴動事件で殺害された4人の輔導員は、6月30日付で退職し、7月1日の「騒擾事件」で殺害された、とされている[87]。
- 鹿島組の事業場報告をもとに作成された『外務省報告書』では、暴動発生日は6月30日とされている[88]、
- 1946年に出版された、高橋実「一つの事実-花岡鉱山の中国人労働者に関する一医師の報告」(『社会評論』7月号、再建第4号)には、7月1日に蜂起した、との記述がある[89]。
- BC級戦犯裁判では、花岡事件の発生日は6月30日とされていた[90]。
- 1950年に、花岡町の山本常松町長、信正寺住職の蔦谷達道らが同寺の「華人死没者追善供養塔」の前で初めて有志で慰霊式を行った際には、7月1日に行っていた[91]。
- 1951年に刊行された劉智渠の回顧録(劉,1995,pp.137-140)では、当初の決起予定日は6月26日夜で、輔導員の宿直予定を考慮して6月30日夜に変更になった、としている。
- 耿諄は、1985年11月に石飛仁のインタビューを受けたときと1987年6月30日に大館市役所で記者会見したときに、当初6月27日の決起を予定していたが、同月30日に予定を変更した、としている[92]。
- 野添(1992,pp.147-149)は、李振平の話として、もともと決起予定日は6月26日だったが、6月30日夜(7月1日午前1時)に決行されることになった、としている。
考察もいくつかある。
- 田中(1995,p.175)は、劉(1995,p.140)に暴動発生日は6月30日夜との言及があり、『外務省報告書』も6月30日としているが、「秋田裁判」における秋田地裁の判決文では暴動発生日を「7月1日午後10時頃」と認定しており、『秋田県警察史(下)』(1971年)も7月1日としていて、『外務省報告書』の元となった鹿島組の「事業場報告」では花岡事件に関する記述4箇所のうち、3ヶ所で7月1日、1ヶ箇所で6月30日と記していることから、『外務省報告書』が「事業場報告書」の情報を集約する際に、7月1日とすべきところを誤って6月30日を採用した、と推測した。石飛(2010,pp.327,340-341)は、事件直後の鹿島組の内部資料や警察関係の資料でも発生日は7月1日とされているとして田中の見方を支持し、事件発生日を6月30日とする見方は誤りとしている[93]。
- 牛越国昭は、1996年6月29日付『秋田魁新報』に、事件の生存者の1人・李紹海が事件翌日から共楽館前広場に拘留され「2日目の午後に雨が降った」と証言していたことから、当時の「秋田測候所区内気象月表」の大館の気象データと照合して6月30日から2日目の7月2日に降雨があったとして事件発生日は6月30日との見方を支持した[94]。金子(2010,pp.403-404)は、牛越の「気象観測所月表原簿」の解釈は誤っており、降雨は7月3日の午前中にあった(従って暴動発生日は7月1日である)と主張した。なお降雨があった時間帯は李紹海の証言では「午後」とされており、劉(1995,p.148)は「夜雨」があった、としている。
- 杉原(2002,pp.78-79)は、「事業場報告書」附表2における、4人の輔導員が6月30日付で退職し、7月1日の暴動で殺害されたとの注記は、鹿島組が、暴動の発生は会社の待遇に起因するものではなく、輔導員にへの私怨に起因するとの意味付けを試みたことを示しており、鹿島組やそれに近かった警察関係者の証言や資料では発生日が7月1日とされているが、鹿島組の影響が少ないと考えられる警察関係者からは6月30日との証言もあり、牛越による気象データに関する裏付けもあることから、6月30日が本当の発生日だとしている。
逮捕時・逮捕後の被殺者数[編集]
蜂起の際に殺害されたり死亡したりした華人労務者の人数は、数十人とみられている。
- 1946年の「華人労務者就労顛末報告書」によると、1945年7月の1ヵ月間に、鹿島組花岡出張所では、華人労務者100人が死亡した[95]。
- 特高警察の記録では、暴動発生直後の死者は、華人労務者に関しては1人が縊死、鎮圧隊との戦闘で抵抗して1人が刺殺され、合計2人とされている[96]。
- 大館市に残っていた死亡診断書は、暴動事件から1週間後までの期間について、8人分で、そのほとんどが病死とされている[97]。
- BC級戦犯裁判では、
- 中山寮の輔導員の補佐をしていた越後谷義勇は、自分が死者数の報告を担当しており、事件の取調べが終るまでの1週間に「空腹になって倒れたり、日射病にかかったりして」共楽館前の広場で死亡した華人労務者の人数は57人だったとしている[100]。
- 暴動事件後の1945年7月4日朝に中山寮の新たな通訳兼輔導員として赴任し、死体の確認に立ち会っていた津志田均によると、死体は80体あった[101]。
- 戦後、姥沢の大穴から発掘された遺体の数について、野添(1993,p.27)、野添(1992,p.191)および劉(1995,p.153)は2つの穴にそれぞれ64体と33体あったとしており、石飛(2010,p.333)は59体だった、としている。
付録[編集]
関連文献[編集]
- 野添憲治「中国人強制連行の記録-花岡事件」『ドキュメント日本人』第8巻、学芸書林、1969年。NDLJP:2974493 (閉)[102]
- 〈現代教養文庫1581〉として社会思想社から1995年に再版
- 〈教養ワイドコレクション〉として文元社から2004年に再版
- 秋田県警察史編纂委員会『秋田県警察史』下巻、秋田県警察本部、1971年、NDLJP:9768822 (閉)
- 赤津益造『花岡暴動-中国人強制連行の記録』〈三省堂新書〉三省堂、1973年、全国書誌番号:71002241
- 金子博文(編)石飛仁(監修)『花岡事件 秋田裁判記録』彩流社、2010年、9784779115059
地図[編集]
- ↑ Google Maps 獅子ケ森 2017年12月30日閲覧
- ↑ Google Maps 神山 2017年12月30日閲覧
- ↑ Google Maps 松峰 2017年12月30日閲覧
- ↑ Google Maps 共楽館址(現市立体育館) 2017年12月30日閲覧
脚注[編集]
- ↑ 西成田(2002)pp.287-297
- ↑ 西成田(2002)pp.367-368
- ↑ 西成田(2002)pp.368-370
- ↑ 西成田(2002)p.370
- ↑ 野添(1993)pp.19-23
- ↑ 西成田(2002)pp.370-372
- ↑ 西成田(2002)pp.372-381
- ↑ 石飛(2010)p.236、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
- ↑ 石飛(2010)pp.251-252、1985年11月の劉玉卿へのインタビューによる。
- ↑ 野添(1993)pp.19-23
- ↑ 新美(2006)p.304、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.22
- ↑ 野添(1993)p.22
- ↑ 新美(2006)p.304、大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.23、野添(1992)pp.221-223。新美(2006,p.304)では、出発時人数合計は299+589+98=986人、到着時人数合計は975人で内訳の合計294+587+98=979人と不一致。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は合計992人を「移入」したとしており、内訳の合計297+587+98=982人と不一致。大館郷土博物館(2014)は出発時人数986人で連行中の死亡数を7人としており、到着時人数合計は979人となる。野添(1993,p.23)は被連行者合計は297+587+98=982人、野添(1992,p.139)は、295+587+98=980人としている。1945年4月15日の鹿島組と華北労工協会の契約書の中では「契約数」は600人とされており、差分は連行途中での死亡・逃亡数とみられる(杉原,2002,pp.67-69)
- ↑ 西成田(2002)p.365
- ↑ 野添(1975)p.89、野添(1993)p.23。大館郷土博物館(2014)は、「中山寮」に連行された979人のうち暴動事件までに137人が亡くなっていた、としている。
- ↑ 野添(1993)p.23、野添(1975)p.89
- ↑ 野添(1993)pp.23-24
- ↑ 石飛(2010)p.234
- ↑ シンプソン(1998)p.199
- ↑ liu2 ze2yu4、劉在雨;liu2 zai2yu3とも(シンプソン,1998,p.200)。
- ↑ シンプソン(1998)p.200
- ↑ 昭和22年8月13日(IPS文書、リール15)
- ↑ 西成田(2002,pp.385-386)
- ↑ 野添(1975)p.99
- ↑ 石飛(1973)p.118
- ↑ 石飛(1997)p.123
- ↑ 石飛(1997)p.123、石飛(1973)p.118
- ↑ 野添(1993)pp.23-24、野添(1992)p.144
- ↑ 野添(1992)pp.142-148
- ↑ 野添(1992)pp.142-148
- ↑ 野添(1993)pp.23-24、劉(1995)p.138
- ↑ 劉(1995)pp.140-141
- ↑ 石飛(2010)p.237。耿諄は、1987年に訪日した際に、「北海道へ逃げてそこで戦い、囲まれたら海へ飛び込もうと思っていた」とも話している(野添,1992,p.246)
- ↑ 石飛(2010)p.236
- ↑ 野添(1992)pp.145,157
- ↑ 野添(1992)p.148
- ↑ 石飛(2010)p.235
- ↑ 野添(1992)pp.245-246
- ↑ 石飛(2010)p.235
- ↑ 野添(1993)p.24、野添(1992)p.154、劉(1995)pp.142-143
- ↑ 野添(1992)pp.154-155
- ↑ 野添(1993)p.24、野添(1992)p.156
- ↑ 野添(1993)p.24、野添(1992)pp.156-157、劉(1995)p.143
- ↑ 石飛(2010)p.237
- ↑ 西成田(2002)p.386、野添(1993)p.24、野添(1992)pp.156-157
- ↑ 野添(1992)pp.157-159
- ↑ 野添(1992)p.156
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)p.24
- ↑ 野添(1992)p.168
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)pp.24-25、野添(1992)pp.168-170、李(2010)p.98
- ↑ 石飛(2010)p.238
- ↑ 野添(1993)p.25、野添(1992)pp.170-174
- ↑ 野添(1993)p.25、野添(1992)pp.166-168
- ↑ 野添(1993)p.25、野添(1992)pp.167,174-177、大館郷土博物館(2014)
- ↑ 野添(1993)pp.25-26、野添(1992)pp.177-183
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)p.26、野添(1992)pp.177-183
- ↑ 野添(1992)pp.178-180
- ↑ 野添(1992)pp.178-180
- ↑ 野添(1992)p.177
- ↑ 野添(1993)p.26、野添(1992)pp.177,182
- ↑ 劉(1995)pp.150-151
- ↑ 野添(1993)p.26
- ↑ 新美(2006)p.304
- ↑ 野添(1993)p.27、野添(1992)pp.189-190、大館郷土博物館(2014)
- ↑ シンプソン(1998)pp.204,210
- ↑ 劉(1995)p.155
- ↑ 劉(1995)p.155、林(2008)p.299。戦後の戦犯裁判での劉智渠の宣誓供述書(シンプソン,1998,p.206)では、羅世英が華人労務者隊の大隊長になったとされている。
- ↑ 西成田(2002)pp.393-395
- ↑ 劉(1995)p156。衛生状態については、花岡病院の大内正医師の証言がある(西成田,2002,pp.393-394)
- ↑ 劉(1995)p156、野添(1992)pp.189-190
- ↑ 西成田(2002)p.395、野添(1993)p.27、野添(1992)p.195
- ↑ 野添(1993)p.27、野添(1992)pp.195-196
- ↑ 野添(1992)pp.196-198,199-200、劉(1995)pp.156-157
- ↑ 野添(1992)pp.198-199。劉(1995)pp.157-158では、三浦の話の中で「工作」を停止するよう指示があり、翌日に通訳の于傑臣が釈放されてきて日本が敗戦したとの事情が分かった、としている。
- ↑ 野添(1992)p.199。越後谷義勇「中山寮の事務員」(野添,1993,p.235)では、強制労働が中止されたのは10月にアメリカ兵が花岡鉱山を訪れ、中国人の労働禁止が命令されてからのこととされている。
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.395-396、野添(1993)p.27、野添(1992)p.195。西成田(2002)pp.395-396によると、1945年12月の死者は3人、1946年1月の死者は1人。
- ↑ 野添(1992)pp.210-211、野添(1975)pp.141-142-林樹森の証言による。
- ↑ 新美(2006)p.304、西成田(2002)p.401、野添(1992)pp.201-202、田中(1995)p.174、野添(1975)p.97、石飛(1973)pp.156-157。
- ↑ 司法省編『戦時刑事特別法・戦時民事特別法・裁判所構成法戦時特例 解説』1942年、NDLJP:1439114/20
- ↑ 編注)国防保安法第16条第2項と「戦時騒擾(殺人)罪」との関係は必ずしも明らかでない。
- ↑ 田中(1995)pp.174-175
- ↑ 野添(1992)pp.213-214
- ↑ 石飛(2010)pp.325-326
- ↑ 石飛(2010)p.323。秋田県警察史編纂委員会編『秋田県警察史』秋田県警察本部、上巻 (閉) 1969年、下巻 (閉) 1971年はこの資料を基にして書かれている(同)。石飛は秋田県庁から資料を入手した(同)。
- ↑ 田中(1995)p.175、石飛(2010)pp.321-322。
- ↑ 田中(1995)p.175、石飛(2010)p.327。
- ↑ 杉原(2002)p.78
- ↑ 田中(1995)p.175、金子(2010)p.402
- ↑ 石飛(2010)p.324
- ↑ 金子(2010)p.402
- ↑ 金子(2010)p.405
- ↑ 石飛(2010)p.235、野添(1992)pp.245-246
- ↑ 石飛(2010,p.327)では、事件直後に捜査にあたった当局の資料は非公表で、事件から暫く経ってから作成された「華人労務者就労顛末報告書」では伝聞が混じったため事件発生が6月30日と誤って伝えられた、と推測しており、石飛(2010,pp.340-341)は、もともと信正寺や花岡町の山本常松町長の時代の慰霊行事は7月1日に挙行されていたが、たまたま6月30日が日曜日だったときに休日に行事を催したことがあり、それ以来6月30日の開催が定着した、としている
- ↑ 金子(2010)pp.403-404
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)p.27、林(2005)p.10
- ↑ 石飛(2010)p.332
- ↑ 石飛(2010)pp.334-335
- ↑ 石飛(2010)p.333
- ↑ 石飛(2010)p.334
- ↑ 越後谷義勇「中山寮の事務員」(野添,1993,p.234)
- ↑ 石飛(2010)p.333
- ↑ 野添(1993)p.35
参考文献[編集]
- 大館郷土博物館(2014) 大館郷土博物館 > バーチャル博物館 > 展示館2F > 花岡事件 2017年7月31日閲覧
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
- 林(2008) 林伯耀「大事な他者を見失わないために」『世界』2008年7月号、岩波書店、pp.296-305
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- 林(2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波新書〉岩波書店、2005年、4-00-430952-2
- 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
- 西成田(2002) 西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002年、4-13-026603-9
- シンプソン(1998) ウィリアム・B・シンプソン(著)古賀林幸(訳)『特殊諜報員』現代書館、1998年、4768467369
- 石飛(1997) 石飛仁『中国人強制連行の記録-日本人は中国人に何をしたか』〈三一新書1164〉三一書房、1997年、4-380-97008-6
- 田中(1995) 田中宏「解説」(劉,1995,pp.173-198)
- 劉(1995) 劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)『花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記』岩波書店、1995年、4002602257
- 初版『花岡事件-日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善役委員会、1951
- 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
- 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8
- 野添(1975) 野添憲治『花岡事件の人たち-中国人強制連行の記録』〈「人間の権利」叢書16〉評論社、1975年
- 石飛(1973) 石飛仁『中国人強制連行の記録-花岡暴動を中心とする報告』太平出版社、1973年、全国書誌番号:71002177