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アラン・ドロン(Alain Fabien Maurice Marcel Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優である。1960年代のヨーロッパで最も目だっていた俳優である。
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'''アラン・ドロン'''(Alain Delon/Alain Fabien Maurice Marcel Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優、映画監督、プロデユーサー、歌手、ビジネスマンである。1960年代から1970年台に掛けてヨーロッパで最も著名な俳優であった。[[ルキノ・ヴィスコンティ]]、[[ジャン・リュック・ゴダール]]、[[ジャン・ピエール・メルヴィル]]、[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]、[[ルイ・マル]]など多くの著名映画監督の映画に出演した。フランスではギャング映画の出演で知られている。米国では人気はあまりでなかったが、日本と欧州では大きな成功を収めた。
  
== 経歴 ==
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==概要==
1935年11月8日、パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソー(Sceaux)で生まれる。父は小さな映画館を経営するファビアン・ドロン (1904—1977)、母は薬剤師のエディット・ドロンであった。4歳で両親が離婚し母方に預けられた。ローマカトリックの学校に入れられたが、素行が悪く寄宿学校を転々とした。14歳の時、義父の経営する豚肉加工品専門の食品店で働き始める。17歳でフランス海軍に入隊する。マルセイユより貨物船に乗り、第一次インドシナ戦争のため、1953年から1954年に掛けてインドネシアで従軍する。休戦協定により、20歳で除隊しフランスに戻り、ウェイター、秘書、営業サポート、レ・ザールのポーターとして働く。この間、1957年の夏、女優の[[ブリジット・オーベール]]と親しくなり、カンヌで映画祭に誘われる。
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===初期キャリア===
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[[1935年]]11月8日、パリ郊外の高級住宅街であるオー・ド・セーヌ県(現[[セーヌサンドニ県]](Saint-Denis))ソー(Sceaux) で生まれるは小さな映画館を経営するファビアン・ドロンでフランス人と半分コルシカ人/イタリア人の祖先がある。母親は薬剤師のエディット・ドロンでドイツ人とフランス人の先祖を持つ。4歳で両親が離婚してから母方に預けられた。どちらも再婚したため、ドロンは両方に義兄弟がある。ローマカトリックの学校に入れられたが、素行が悪く寄宿学校を転々とした。14歳の時に卒業し、義父の経営する豚肉加工品専門の食品店で働き始める。17歳でフランス海軍に入隊する。[[マルセイユ]]から貨物船に乗り、第一次インドシナ戦争のため、1953年から1954年に掛けてインドネシアで海軍に従軍する。海軍ではばかなことをして首になったと語る。除隊しフランスに戻り、ウェイター、秘書、営業サポート、レ・ザールのポーターとして働く。フランスに帰国後は「ちんぴら」のように暮らしていたと後年に回想する。1957年の夏、女優の[[ブリジット・オーベール]]と親しくなり、カンヌで映画祭に誘われる。
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===映画界へ===
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カンヌで映画『武器よさらば』を撮影していた[[デヴィッド・O・セルズニック]]のスクリーンテストを受けて合格し、英語の習得を条件に7年間のオファーを提供した。
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その後、女優[[エステラ・ブラン]]の紹介で、[[イヴ・アレグレ]]監督と会ったとき、俳優のキャリアを始めるためにはフランスに留まる方がよいとアドバイスされた。セルズニックは契約のキャンセルを了承し、イヴ・アレグレ監督により『女が事件にからむ時』(1957年、日本未公開) でスクリーンデビューする。ピエール・ガスパール=ユイ『恋ひとすじに』(1958年)で主演となった。次作のマルク・アレグレ監督『黙って抱いて』(1958)ではジャン・ポール・ベルモンドと共演した。
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===世界的スターへ===
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1959年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに!』はフランスで大ヒットした。1961年の『アラビアのロレンス』では、ハリト族のリーダー、アリ役にフランス人のアラン・ドロンらやモーリス・ロネらが考慮されたが、無名のアラブ人俳優オマー・シャリフが抜擢された。
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1960年の『太陽がいっぱい』([[ルネ・クレマン]]監督、原題:Plein soleil,英語:Purple Noon)に出演し、この一作で一躍世界的スターになった。
  
カンヌで映画『武器よさらば』を撮影していた[[デヴィッド・O・セルズニック]]のスクリーンテストを受けて合格し、英語の習得を条件に7年間のオファーを提供された。女優[[エステラ・ブラン]]の紹介で、[[イヴ・アレグレ]]監督と会ったとき、映画でキャリアを始めるにはフランスに留まるべきであると確信した。セルズニックは契約のキャンセルを了承し、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(1957年) スクリーンデビューする。『恋ひとすじに』(1058年)で初主演を務め、マルク・アレグレ監督『黙って抱いて』(1958)で[[ジャン=ポール・ベルモンド]]と共演した。
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===ヴィスコンティ監督の映画へ===
 
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同年[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『若者のすべて』(原題:Rocco e i suoi fratelli)でパロンディ家の三男ロッコ・パロンディとして出演した。1961年にはルネ・クレマン監督の『生きる歓び』(原題:Che gioia vivere)、ミシェル・ボワロン監督『素晴らしき恋人たち』に出演し、ジャン・ポール・ベルモンド、ブリジット・バルドーと共演した。1963年にはアンリ・ヴェルヌイユ監督『地下室のメロディー』で[[ジャン・ギャバン]]と共演し、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『山猫』(原題]Il Gattopardo)では、[[バート・ランカスター]]と共演した。しかし、それまで親密な関係だったアラン・ドロンとヴィスコンティは、ドロンがバート・ランカスターよりギャラが安いことに不平を言ったため、本作以降は絶縁状態となった。
1959年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに!』はフランスで大ヒットした。1961年の『アラビアのロレンス』では、ハリト族のリーダー、アリ役にフランス人のアラン・ドロンらやモーリス・ロネらが考慮されたが、無名のアラブ人俳優オマー・シャリフが抜擢された。
+
===二枚目から渋みのある俳優に===
1960年の『太陽がいっぱい』([[ルネ・クレマン]]監督、原題:Plein soleil,英語:Purple Noon)に出演し、この一作で一躍世界的スターになった。次に同年[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『若者のすべて』(原題:Rocco e i suoi fratelli)でパロンディ家の三男ロッコ・パロンディとして出演した。1961年にはるルネクレマン監督の『生きる歓び』(原題:Che gioia vivere)、[[ミシェル・ボワロン]]監督『素晴らしき恋人たち』に出演し、ジャン・ポール・ベルモンド、ブリジット・バルドーと共演した。1963年には[[アンリ・ヴェルヌイユ]]監督『地下室のメロディー』で[[ジャン・ギャバン]]と共演し、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『山猫』(原題]Il Gattopardo)では、[[バート・ランカスター]]と共演した。バート・ランカスターからは映画スターとしてのふるまいを教えられた。ところが、それまで親密な関係だったアラン・ドロンとヴィスコンティは本作以降は絶縁状態となった。
+
 
1966年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、1967年には[[ジャン=ピエール・メルヴィル]]監督の[[サムライ]](原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。1969年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。「パリの灯は遠く」(1976年)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(1981年)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(1984年・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞した。2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。
 
1966年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、1967年には[[ジャン=ピエール・メルヴィル]]監督の[[サムライ]](原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。1969年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。「パリの灯は遠く」(1976年)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(1981年)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(1984年・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞した。2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。
 
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===引退===
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2017年5月9日、「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と述べ、映画俳優からの引退を表明した。
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==受賞歴==
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*1972年 [[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] 特別賞 受賞
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*1984年 第10回 [[セザール賞]]  主演男優賞(真夜中のミラージュ)
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*1995年 [[ベルリン国際映画祭]] 名誉金熊賞  受賞
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*1995年 [[フランス国家功労勲章]] 
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*2019年 第72回[[カンヌ国際映画祭]] 「パルムドールドヌール(Honorary Palme d'or)」受賞
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==結婚==
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1959年『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの[[ロミー・シュナイダー]]と同棲し婚約した。婚約中にモデルでドイツ人女優のニコ(Nico,Christa Päffgen,1938-1988)と関係を持ち、1962年に息子の[[クリスチャン・アーロン・ブロング]](Christian Aaron Boulogne)が生まれた。ニコは子供を育てることができず、ドロンは認知しなかったため、ドロンの両親が育てた。1963年、ドロンと[[ロミー・シュナイダー]]は婚約解消を決めた。
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1963年、ナタリー・バルテルミー(のちの[[ナタリー・ドロン]])と出会い、1964年にナタリーと結婚した。1964年9月30日に長男のアントニー・ドロンが生まれる。
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ナタリー・ドロンとは1969年に離婚した。女優を続けたいと願うナタリーと対立したためと言われる。オランダ人モデルのロザリー・ファン・ブリーメンと出会い、関係を持った。間に2人の子供アヌーシュカ・ドロン(1990年11月25日)とアラン・ファビアン・ドロン(1994年3月18日)が生まれた。ロザリーとは籍は入れなかった。
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最初の妻ナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との間に生まれた息子アントニー・ドロン、ロザリーとの息子のアラン・ファビアン・ドロンは俳優となった。
 
== 人物 ==
 
== 人物 ==
*1959年『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの[[ロミー・シュナイダー]]と同棲し婚約した。婚約中にモデルでドイツ人女優のニコ(Nico,Christa Päffgen,1938-1988)と出合い、1962年に息子の[[クリスチャン・アーロン・ブロング]](Christian Aaron Boulogne)が生まれた。ニコは子供を育てることができず、ドロンは父親であることを否定したため、ドロンの両親が育てた。1963年、ドロンと[[ロミー・シュナイダー]]は婚約解消を決めた。
 
*1963年、ナタリー・バルテルミー(のちの[[ナタリー・ドロン]])と出会い、1964年にナタリーと結婚した。1964年9月30日に長男のアントニー・ドロンが生まれる。
 
*ナタリー・ドロンとは1969年に離婚した。女優を続けたいと願うナタリーと対立したためと言われる。
 
*2017年5月9日、「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と述べ、映画俳優の引退を表明した。
 
 
*2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。
 
*2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。
*海軍ではばかなことをして首になったと語り、フランスに帰国後は「ちんぴら」として暮らしていたと回想する。
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== フルモグラフィー ==
*最初の妻ナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との間に生まれた息子アントニー・ドロン、2番目の妻との息子のアラン=ファビアン・ドロンも俳優となった。
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{| class="wikitable"
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|+ アランドロンのフルモグラフィー
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! 製作年 !! タイトル !! 監督 !! 共演者!!備考
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| 1949年 ||Le rapt || Olivier Bourguignon|| ||短編
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| 1957年 ||女が事件にからむ時 || イヴ・アレグレ||エドヴィージュ・フィエール||日本未公開
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| 1958年 ||恋ひとすじに || ピエール・ガスパール=ユイ||ロミー・シュナイダー||
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| 1959年 ||学生たちの道 || ミシェル・ボワロン||フランソワーズ・アルヌール ||
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| 1959年 ||お嬢さん、お手やわらかに! || ミシェル・ボワロン||パスカル・プティ ||
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|-
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| 1960年 ||太陽がいっぱい|| ルネ・クレマン|| マリー・ラフォレ ||
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|-
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| 1960年 ||生きる歓び|| ルネ・クレマン|| バルバラ・ラス  ||
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|-
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| 1960年 ||若者のすべて|| ルキノ・ヴィスコンティ||クラウディア・カルディナーレ ||
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| 1961年 ||素晴らしき恋人たち||ミシェル・ボワロン ||ジャン=ポール・ベルモンド ||
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|1962年||太陽はひとりぼっち||ミケランジェロ・アントニオーニ||モニカ・ビッティ ||
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|-
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|1962年||フランス式十戒||ジュリアン・デュビビエ||ミシェル・シモン||
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|1962年||地下室のメロディー||アンリ・ヴェルヌイユ||ジャン・ギャバン||
 +
|-
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|1963年||黒いチューリップ||クリスチャン=ジャック|| ヴィルナ・リージ||
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|-
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|1963年||山猫||ルキノ・ヴィスコンティ|| [[バート・ランカスター]]||
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|-
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|1963年||黄色いロールスロイス||アンソニー・アスキス|| ジャンヌ・モロー||
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|-
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|1964年||危険がいっぱい||ルネ・クレマン|| ジェーン・フォンダ||
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|-
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|1964年||さすらいの狼||アラン・カヴァリエ||  ||
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|1964年||さすらいの狼||ラルフ・ネルソン||  ||
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 +
|1966年||名誉と栄光のためでなく||マーク・ロブソン||  ||
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|1966年||名誉と栄光のためでなく||マイケル・ゴードン||  ||
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|1966年||パリは燃えているか||ルネ・クレマン||  ||
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|1967年||悪魔のようなあなた||ジュリアン・デュヴィヴィエ||  ||
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|1967年||冒険者たち||ロベール・アンリコ||  ||
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|1967年||サムライ||ジャン=ピエール・メルヴィル||  ||
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|1967年||世にも怪奇な物語||ルイ・マル||  ||
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|-
 +
|1967年||あの胸にもう一度||ジャック・カーディフ||  ||
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|-
 +
|1968年||太陽が知っている||ジャック・ドレー || ロミー・シュナイダー ||
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 +
|1968年||さらば友よ||ジャン・エルマン|| チャールズ・ブロンソン ||
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|1969年||ジェフ||ジャン・エルマン || ミレーユ・ダルク ||
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 +
|1969年||シシリアン||アンリ・ヴェルヌイユ || ジャン・ギャバン ||
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|1970年||ボルサリーノ||ジャック・ドレー ||ジャン=ポール・ベルモンド ||
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|1970年||仁義||ジャン=ピエール・メルヴィル ||イヴ・モンタン ||
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|1971年||レッド・サン||テレンス・ヤング ||チャールズ・ブロンソン||
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|1971年||栗色のマッドレー||ロジェ・カーヌ || ミレーユ・ダルク||
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|-
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|1971年||もういちど愛して||ジャック・ドレー ||ナタリー・ドロン||
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|-
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|1971年||帰らざる夜明け||ピエール・グラニエ=ドフェール ||シモーヌ・シニョレ||
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|-
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|}
  
== フルモグラフィー ==
 
*1956年、『女が事件にからむ時』(イヴ・アレグレ監督)
 
*1958年、『黙って抱いて』(マルク・アレグレ監督)
 
*1958年、『恋ひとすじに』(ピエール・ガスパール=ユイ監督)
 
*1959年、『学生たちの道』(ミシェル・ボワロン監督)
 
*1959年、『お嬢さん、お手やわらかに!』(ミシェル・ボワロン監督)
 
*1960年、『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)
 
*1960年、『生きる歓び』(ルネ・クレマン監督)
 
*1960年、『若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)
 
*1961年、『素晴らしき恋人たち』(ミシェル・ボワロン監督)
 
*1962年、『太陽はひとりぼっち』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)
 
*1962年、『フランス式十戒』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)
 
*1963年、『地下室のメロディー』(アンリ・ヴェルヌイユ監督)
 
*1963年、『黒いチューリップ』(クリスチャン=ジャック監督)
 
*1963年、『山猫』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)
 
*1963年、『黄色いロールスロイス』(アンソニー・アスキス監督)
 
*1964年、『危険がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)
 
*1964年、『さすらいの狼』(アラン・カヴァリエ監督)
 
*1964年、『泥棒を消せ』(ラルフ・ネルソン監督)
 
*1966年、『名誉と栄光のためでなく』(マーク・ロブソン監督)
 
*1966年、『テキサス』(マイケル・ゴードン監督)
 
*1966年、『パリは燃えているか』(ルネ・クレマン監督)
 
*1967年、『悪魔のようなあなた』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)
 
*1967年、『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督)
 
*1967年、『サムライ』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督)
 
*1967年、『世にも怪奇な物語』(ルイ・マル監督)
 
*1967年、『あの胸にもう一度』(ジャック・カーディフ監督)
 
*1968年、『太陽が知っている』
 
*1968年、『さらば友よ』
 
*1969年、『ジェフ』
 
*1969年、『シシリアン』
 
*1970年、『ボルサリーノ』
 
*1970年、『仁義』
 
*1971年、『レッド・サン』
 
*1971年、『栗色のマッドレー』
 
*1971年、『もういちど愛して』
 
*1971年、『帰らざる夜明け』
 
*1972年、『暗殺者のメロディ』
 
*1972年、『高校教師』
 
*1972年、『ショック療法』
 
*1972年、『リスボン特急』
 
*1972年、『スコルピオ』
 
*1973年、『燃えつきた納屋』
 
*1973年、『ビッグ・ガン』
 
*1973年、『暗黒街のふたり』
 
*1974年、『愛人関係』
 
*1974年、『個人生活』
 
*1975年、『ル・ジタン』
 
*1975年、『アラン・ドロンのゾロ』
 
*1975年、『フリックストーリー』
 
*1976年、『ブーメランのように』
 
*1976年、『プレステージ』
 
*1976年、『友よ静かに死ね』
 
*1976年、『パリの灯は遠く』
 
*1977年、『チェイサー』
 
*1977年、『プレステージ』
 
*1978年、『ナイトヒート』
 
*1979年、『エアポート’80』
 
*1979年、『未知の戦場』
 
*1980年、『ポーカー・フェイス』
 
*1981年、『テヘラン 43』
 
*1981年、『危険なささやき』
 
*1982年、『最後の標的』
 
*1983年、『鷹』
 
*1983年、『スワンの恋』
 
*1985年、『復讐のビッグガン』
 
*1985年、『真夜中のミラージュ』
 
*1986年、『デーモン・ワールド』
 
*1988年、『アラン・ドロン 私刑警察』
 
*1990年、『ヌーヴェルヴァーグ』
 
*1992年、『カサノヴァ最後の恋』
 
*1994年、『百一夜「俳優たち」』
 
*1995年、『リュミエールの子供たち』
 
*1998年、『ハーフ・ア・チャンス』
 
*2002年、『アラン・ドロンの 刑事物語』
 
*2008年、『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』
 
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
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2021年10月26日 (火) 12:37時点における版

アラン・ドロン(Alain Delon/Alain Fabien Maurice Marcel Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優、映画監督、プロデユーサー、歌手、ビジネスマンである。1960年代から1970年台に掛けてヨーロッパで最も著名な俳優であった。ルキノ・ヴィスコンティジャン・リュック・ゴダールジャン・ピエール・メルヴィルミケランジェロ・アントニオーニルイ・マルなど多くの著名映画監督の映画に出演した。フランスではギャング映画の出演で知られている。米国では人気はあまりでなかったが、日本と欧州では大きな成功を収めた。

概要

初期キャリア

1935年11月8日、パリ郊外の高級住宅街であるオー・ド・セーヌ県(現セーヌサンドニ県(Saint-Denis))ソー(Sceaux) で生まれるは小さな映画館を経営するファビアン・ドロンでフランス人と半分コルシカ人/イタリア人の祖先がある。母親は薬剤師のエディット・ドロンでドイツ人とフランス人の先祖を持つ。4歳で両親が離婚してから母方に預けられた。どちらも再婚したため、ドロンは両方に義兄弟がある。ローマカトリックの学校に入れられたが、素行が悪く寄宿学校を転々とした。14歳の時に卒業し、義父の経営する豚肉加工品専門の食品店で働き始める。17歳でフランス海軍に入隊する。マルセイユから貨物船に乗り、第一次インドシナ戦争のため、1953年から1954年に掛けてインドネシアで海軍に従軍する。海軍ではばかなことをして首になったと語る。除隊しフランスに戻り、ウェイター、秘書、営業サポート、レ・ザールのポーターとして働く。フランスに帰国後は「ちんぴら」のように暮らしていたと後年に回想する。1957年の夏、女優のブリジット・オーベールと親しくなり、カンヌで映画祭に誘われる。

映画界へ

カンヌで映画『武器よさらば』を撮影していたデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受けて合格し、英語の習得を条件に7年間のオファーを提供した。 その後、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督と会ったとき、俳優のキャリアを始めるためにはフランスに留まる方がよいとアドバイスされた。セルズニックは契約のキャンセルを了承し、イヴ・アレグレ監督により『女が事件にからむ時』(1957年、日本未公開) でスクリーンデビューする。ピエール・ガスパール=ユイ『恋ひとすじに』(1958年)で主演となった。次作のマルク・アレグレ監督『黙って抱いて』(1958)ではジャン・ポール・ベルモンドと共演した。

世界的スターへ

1959年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに!』はフランスで大ヒットした。1961年の『アラビアのロレンス』では、ハリト族のリーダー、アリ役にフランス人のアラン・ドロンらやモーリス・ロネらが考慮されたが、無名のアラブ人俳優オマー・シャリフが抜擢された。 1960年の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督、原題:Plein soleil,英語:Purple Noon)に出演し、この一作で一躍世界的スターになった。

ヴィスコンティ監督の映画へ

同年ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(原題:Rocco e i suoi fratelli)でパロンディ家の三男ロッコ・パロンディとして出演した。1961年にはルネ・クレマン監督の『生きる歓び』(原題:Che gioia vivere)、ミシェル・ボワロン監督『素晴らしき恋人たち』に出演し、ジャン・ポール・ベルモンド、ブリジット・バルドーと共演した。1963年にはアンリ・ヴェルヌイユ監督『地下室のメロディー』でジャン・ギャバンと共演し、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(原題]Il Gattopardo)では、バート・ランカスターと共演した。しかし、それまで親密な関係だったアラン・ドロンとヴィスコンティは、ドロンがバート・ランカスターよりギャラが安いことに不平を言ったため、本作以降は絶縁状態となった。

二枚目から渋みのある俳優に

1966年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、1967年にはジャン=ピエール・メルヴィル監督のサムライ(原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。1969年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。「パリの灯は遠く」(1976年)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(1981年)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(1984年・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞した。2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。

引退

2017年5月9日、「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と述べ、映画俳優からの引退を表明した。

受賞歴

結婚

1959年『恋ひとすじに』で共演した西ドイツのロミー・シュナイダーと同棲し婚約した。婚約中にモデルでドイツ人女優のニコ(Nico,Christa Päffgen,1938-1988)と関係を持ち、1962年に息子のクリスチャン・アーロン・ブロング(Christian Aaron Boulogne)が生まれた。ニコは子供を育てることができず、ドロンは認知しなかったため、ドロンの両親が育てた。1963年、ドロンとロミー・シュナイダーは婚約解消を決めた。 1963年、ナタリー・バルテルミー(のちのナタリー・ドロン)と出会い、1964年にナタリーと結婚した。1964年9月30日に長男のアントニー・ドロンが生まれる。 ナタリー・ドロンとは1969年に離婚した。女優を続けたいと願うナタリーと対立したためと言われる。オランダ人モデルのロザリー・ファン・ブリーメンと出会い、関係を持った。間に2人の子供アヌーシュカ・ドロン(1990年11月25日)とアラン・ファビアン・ドロン(1994年3月18日)が生まれた。ロザリーとは籍は入れなかった。 最初の妻ナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との間に生まれた息子アントニー・ドロン、ロザリーとの息子のアラン・ファビアン・ドロンは俳優となった。

人物

  • 2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。

フルモグラフィー

アランドロンのフルモグラフィー
製作年  タイトル 監督 共演者 備考
1949年 Le rapt Olivier Bourguignon   短編
1957年 女が事件にからむ時 イヴ・アレグレ エドヴィージュ・フィエール 日本未公開
1958年 恋ひとすじに ピエール・ガスパール=ユイ ロミー・シュナイダー
1959年 学生たちの道 ミシェル・ボワロン フランソワーズ・アルヌール
1959年 お嬢さん、お手やわらかに! ミシェル・ボワロン パスカル・プティ
1960年 太陽がいっぱい ルネ・クレマン マリー・ラフォレ
1960年 生きる歓び ルネ・クレマン バルバラ・ラス
1960年 若者のすべて ルキノ・ヴィスコンティ クラウディア・カルディナーレ
1961年 素晴らしき恋人たち ミシェル・ボワロン ジャン=ポール・ベルモンド
1962年 太陽はひとりぼっち ミケランジェロ・アントニオーニ モニカ・ビッティ
1962年 フランス式十戒 ジュリアン・デュビビエ ミシェル・シモン
1962年 地下室のメロディー アンリ・ヴェルヌイユ ジャン・ギャバン
1963年 黒いチューリップ クリスチャン=ジャック ヴィルナ・リージ
1963年 山猫 ルキノ・ヴィスコンティ バート・ランカスター
1963年 黄色いロールスロイス アンソニー・アスキス ジャンヌ・モロー
1964年 危険がいっぱい ルネ・クレマン ジェーン・フォンダ
1964年 さすらいの狼 アラン・カヴァリエ
1964年 さすらいの狼 ラルフ・ネルソン
1966年 名誉と栄光のためでなく マーク・ロブソン
1966年 名誉と栄光のためでなく マイケル・ゴードン
1966年 パリは燃えているか ルネ・クレマン
1967年 悪魔のようなあなた ジュリアン・デュヴィヴィエ
1967年 冒険者たち ロベール・アンリコ
1967年 サムライ ジャン=ピエール・メルヴィル
1967年 世にも怪奇な物語 ルイ・マル
1967年 あの胸にもう一度 ジャック・カーディフ
1968年 太陽が知っている ジャック・ドレー ロミー・シュナイダー
1968年 さらば友よ ジャン・エルマン チャールズ・ブロンソン
1969年 ジェフ ジャン・エルマン ミレーユ・ダルク
1969年 シシリアン アンリ・ヴェルヌイユ ジャン・ギャバン
1970年 ボルサリーノ ジャック・ドレー ジャン=ポール・ベルモンド
1970年 仁義 ジャン=ピエール・メルヴィル イヴ・モンタン
1971年 レッド・サン テレンス・ヤング チャールズ・ブロンソン
1971年 栗色のマッドレー ロジェ・カーヌ ミレーユ・ダルク
1971年 もういちど愛して ジャック・ドレー ナタリー・ドロン
1971年 帰らざる夜明け ピエール・グラニエ=ドフェール シモーヌ・シニョレ


参考文献