「田中絹代」の版間の差分
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監督に起用された。1928年には16本の映画に出演し、蒲田撮影所の代表的な女優となった。 | 監督に起用された。1928年には16本の映画に出演し、蒲田撮影所の代表的な女優となった。 | ||
1931年(昭和6年)、日本初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』で | 1931年(昭和6年)、日本初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』で | ||
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老女を見事に演じた。 | 老女を見事に演じた。 | ||
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+ | *1953年 1952年度世界映画社賞女優主演賞 | ||
+ | *1958年 第12回毎日映画コンクール助演女優賞 | ||
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+ | *1961年 第15回毎日映画コンクール女優助演賞 | ||
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+ | *1970年 紫綬褒章 | ||
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+ | *1975年 第25回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (最優秀主演女優賞)<ref>田中絹代ぶんか館 http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/award.html</ref> | ||
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2018年9月1日 (土) 20:55時点における版
田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、日本の女優。 50年以上のキャリアを持ち、250以上の映画に出演した。 1940年から1954年まで溝口健二監督の主要作品に出演したことで 世界的に知られる。
経歴
山口県下関市関後地村に1909年11月29日、父・久米吉と母・ヤスの間に生まれる。 四男四女の末娘であった。1916年(大正5年)4月、下関市立王江尋常小学校に入学する。 同年9月に大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住する。 1924年(大正13年)松竹下加茂撮影所へ入社し、14才で映画界に入る[1]。同年10月『元禄女』(野村芳亭監督)で デビューする。と清純派スターとして人気が出る。松竹蒲田撮影所に移籍し、島津保次郎、清水宏、五所平之助といった 監督に起用された。1928年には16本の映画に出演し、蒲田撮影所の代表的な女優となった。 1931年(昭和6年)、日本初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』で 主演となった。1938年の『愛染かつら』は空前のヒット作となった。
1949年には占領下の日本から日米親善芸術使節として渡米した。 戦後は1952年の『西鶴一代女』を筆頭として、多くの溝口健二監督作品に出演した。 また木下恵介監督『楢山節考』、熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』では、 老女を見事に演じた。 1977年(昭和52年)1月12日、順天堂病院に入院し、3月21日に死去した。
ランキング
- 日本映画女優ランキング100 8位[2]
受賞歴
- 1939年 第1回映画世界社賞演技賞
- 1948年 第2回毎日映画コンクール女優演技賞
- 1949年 第3回毎日映画コンクール女優演技賞
- 1953年 1952年度世界映画社賞女優主演賞
- 1958年 第12回毎日映画コンクール助演女優賞
- 1959年 1958年度キネマ旬報女優賞
- 1961年 第15回毎日映画コンクール女優助演賞
- 1961年 北海道新聞映画賞助演女優賞
- 1970年 紫綬褒章
- 1975年 日本映画テレビ製作者協会特別賞
- 1975年 第29回映画コンクール助演女優賞
- 1975年 第25回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (最優秀主演女優賞)[3]
- 1977年 勲三等瑞宝章(死後)
参考文献
- 元の位置に戻る ↑ 田中絹代プロフィール https://www.shochiku.co.jp/kinuyo100/profile.html
- 元の位置に戻る ↑ 『オールタイム・ベスト映画遺産』,キネマ旬報社,2014-12-22
- 元の位置に戻る ↑ 田中絹代ぶんか館 http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/award.html