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− | 1890年にウィーンでアントン・ラング (1860–1940) | + | 1890年にウィーンでアントン・ラング (1860–1940)の次男として生まれた。オーストリアの[[ショッテン修道院]]で1890年12月21日に洗礼を受けた。両親はモラヴィアの出身で、ローマンカトリックであった。母(旧姓シュレージンガー)はユダヤ教からの改宗者だったが、宗教を重要なものと考え、息子をカトリックに入信させた。ラングの映画には、時々カソリックの影響が表れている。自身は後年「カソリックに生まれた」と述べている。 |
− | + | 学校を卒業後、短期間だが[[ウィーン工科大学]]で土木工学を学び、その後、芸術学に転じた。1910年には世界を見るためにウィーンを立ち、全ヨーロッパとアフリカを旅行した。後年にはアジアと太平洋地域にも回った。 | |
− | + | 第一次大戦時にはウィーンに戻り、オーストリア軍の義勇兵として活動したが、戦争中に3回負傷している。中尉となったあと退役し、1918年には役者をしながら、ドイツの大手映画会社ウーファのプロデューサーの[[エーリッヒ・ポマー]]の制作会社ウーファに雇われた。ドイツの映画会社ウーファで監督として働き始めたときに、表現主義運動が開始された。 | |
− | 1919年の『Halbblut』で監督デビューし、1920年には将来の妻となる作家のテア・フォン・ハルボウと出会った。1921年のサイレント映画Destiny(ドイツ語:Der müde | + | 1919年の『Halbblut』で監督デビューし、1920年には将来の妻となる作家のテア・フォン・ハルボウと出会った。1921年のサイレント映画Destiny(ドイツ語:Der müde Tod)は人気を博したスリラー映画となり、ドイツ映画界の第一線に躍り出た。日本でのタイトルは公開時『死滅の谷』であったが、『死神の谷』に変更されている。本作品に[[ルイス・ブニュエル]]は強く影響を受け、後に映画監督となるきっかけとなったという。 |
− | + | 1922年には世界犯罪映画史に残る古典となった『[[ドクトル・マブゼ]]』、1927年にはSF映画の古典的大作『[[メトロポリス]]』、1931年にはトーキー初期のサスペンス映画『[[M]]』などドイツ映画を代表する作品を送り出した。 | |
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2018年8月21日 (火) 22:45時点における版
フリッツ・ラング(Friedrich Christian Anton "Fritz" Lang( 1890年12月5日 - 1976年8月2日 )は、オーストラリア・ドイツ・アメリカ合衆国の映画製作者、脚本家、時にはプロデューサー、俳優であった。ドイツ表現派の巨匠として知られ、イギリス映画協会からは「暗黒の巨匠」と呼ばれている。
経歴
1890年にウィーンでアントン・ラング (1860–1940)の次男として生まれた。オーストリアのショッテン修道院で1890年12月21日に洗礼を受けた。両親はモラヴィアの出身で、ローマンカトリックであった。母(旧姓シュレージンガー)はユダヤ教からの改宗者だったが、宗教を重要なものと考え、息子をカトリックに入信させた。ラングの映画には、時々カソリックの影響が表れている。自身は後年「カソリックに生まれた」と述べている。
学校を卒業後、短期間だがウィーン工科大学で土木工学を学び、その後、芸術学に転じた。1910年には世界を見るためにウィーンを立ち、全ヨーロッパとアフリカを旅行した。後年にはアジアと太平洋地域にも回った。
第一次大戦時にはウィーンに戻り、オーストリア軍の義勇兵として活動したが、戦争中に3回負傷している。中尉となったあと退役し、1918年には役者をしながら、ドイツの大手映画会社ウーファのプロデューサーのエーリッヒ・ポマーの制作会社ウーファに雇われた。ドイツの映画会社ウーファで監督として働き始めたときに、表現主義運動が開始された。
1919年の『Halbblut』で監督デビューし、1920年には将来の妻となる作家のテア・フォン・ハルボウと出会った。1921年のサイレント映画Destiny(ドイツ語:Der müde Tod)は人気を博したスリラー映画となり、ドイツ映画界の第一線に躍り出た。日本でのタイトルは公開時『死滅の谷』であったが、『死神の谷』に変更されている。本作品にルイス・ブニュエルは強く影響を受け、後に映画監督となるきっかけとなったという。
1922年には世界犯罪映画史に残る古典となった『ドクトル・マブゼ』、1927年にはSF映画の古典的大作『メトロポリス』、1931年にはトーキー初期のサスペンス映画『M』などドイツ映画を代表する作品を送り出した。 (未完、続く)