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{{Otheruses3|20世紀の日本の元号}} {{日本の歴史|Shinkansen-type-0.jpg|画像説明=[[高度経済成長]]の象徴・[[新幹線]][[新幹線0系電車|0系]]}} [[画像:Emperor_Hirohito_coronation_1928.jpg|thumb|200px|1928年(昭和3年)11月、[[即位の礼]]に臨む[[昭和天皇]]]] '''昭和'''(しょうわ)は、[[20世紀]]の[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[大正]]の後、[[平成]]の前。[[昭和天皇]]の在位期間であった[[1926年]](大正15年/昭和元年)[[12月25日]]から[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]までの期間を指す。 昭和は64年まで続き、歴代元号の中で最長であり、外国の年号を含めても最も長い。ただし、実際の期間は昭和元年と64年が共に1週間のみであったため、<!--実質的には昭和は「2年」(西暦[[1927年]])から始まる。-->厳密には62年と2週間である。なお、60年以上続いた年号は「昭和」と、[[清朝]]の[[康熙]](61年)、[[乾隆]](60年)のみである。 == 改元 == 昭和は、[[旧皇室典範]]と[[登極令]]によって制定された最後の元号であり、[[元号法]]で改めて制定された最初の元号である。 ;開始 1926年(大正15年)12月25日、[[大正天皇]]崩御。同日、皇太子裕仁親王([[昭和天皇]])が[[践祚]]したため、直ちに改元の詔書を公布し、昭和に[[改元]]した。1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもあることになる<ref>「昭和改元の詔」の日付は大正15年12月25日であり、同じ日に公布された大喪使官制 (昭和元年勅令第1号)の日付は昭和元年12月25日となっている。</ref>。なおこの際、[[毎日新聞|東京日日新聞]]が「新元号は光文」と[[誤報]]した([[光文事件]])。 *昭和改元の詔書(大正15年12月25日) :朕皇祖皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略) ;終了 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御した。同日、皇太子明仁親王([[明仁|今上天皇]])が皇位を継承したため、[[元号法]]の規定に基き、元号を改める政令(昭和64年1月7日[[政令]]第1号)を公布した。翌[[1月8日]]、同政令は施行され、平成に改元した。 *元号を改める政令(昭和64年1月7日) :内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。 :元号を平成に改める。 ::附則 :この政令は、公布の日の翌日から施行する。 == 出典 == [[Image:昭和の女優1.jpg|400px|thumb|昭和の女優]] 「昭和」の由来は、[[四書五経]]の一つ[[書経]]尭典の「百姓'''昭'''明、協'''和'''萬邦」による。漢学者・[[吉田増蔵]]の考案。なお、[[江戸時代]]にまったく同じ出典で、[[明和]]の元号が制定されている(「百姓昭'''明'''、協'''和'''萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。 枢密院議長・[[倉富勇三郎]]の日記によれば、宮内省作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。 == 時代の流れ == 急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する[[国家総力戦|大規模近代戦争]]を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には[[立憲君主制]]の体裁をとり、当初の[[藩閥|藩閥政治]]を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事[[クーデター]]により、ついには政党政治を葬り去った。もっとも、政党政治を嫌ったのは官僚勢力だったとする説もある。 === 昭和初期 === [[Image:昭和1.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和2.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[第一次世界大戦]]では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後[[恐慌]]となった。さらに[[1927年]](昭和2年)には、[[関東大震災]]の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、[[昭和金融恐慌]]となった。[[若槻内閣]]は[[鈴木商店]]の[[不良債権]]を抱えた[[台湾銀行]]の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、[[枢密院 (日本)|枢密院]]の反対に会い、総辞職した。あとを受けた[[田中義一]]内閣は、[[高橋是清]]蔵相の下で[[モラトリアム]](支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、[[中国]]では[[孫文]]の後を[[蒋介石]]が継ぎ、[[国民政府]]軍が[[北伐]](中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、[[華北]]に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ[[山東出兵]]を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて[[東方会議 (1927年)|東方会議]]を開き、[[満州|満]][[内モンゴル自治区|蒙]]の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は[[満州]]の実力者[[張作霖]]と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、[[関東軍]]は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀[[河本大作]]の仕業であった。このため国内の野党から「[[張作霖爆殺事件|満州某重大事件]]」として追及され、田中は[[昭和天皇]]に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、[[田中義一内閣]]はこのため総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。 田中内閣は、[[護憲運動|第二次護憲運動]]で生まれた[[護憲三派]]の内閣である[[加藤内閣]]とりわけ、外相である[[幣原喜重郎]]が行った外交政策である中国内政不干渉政策([[幣原外交]])を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし、中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、[[1928年]](昭和3年)、パリで締結されたいわゆる[[不戦条約|パリ不戦条約]]には調印した。ただ、この不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、[[国体]]をないがしろにするものとする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に[[三・一五事件]]、翌年に[[四・一六事件]]を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、[[勅令|緊急勅令]]により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。 一方、文化や社会科学の研究では[[マルクス主義]]が隆盛となり、[[1932年]](昭和7年)には、[[野呂栄太郎]]らによる『[[日本資本主義発達史講座]]』が[[岩波書店]]から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「[[講座派]]」と呼ばれたが、それに対して批判的な[[向坂逸郎]]らは雑誌『[[労農]]』により、「[[労農派]]」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、[[国家主義]]的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。 そのような状況下の[[1929年]](昭和4年)[[10月24日]]、[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]での[[ウォール街大暴落 (1929年)|株価の大暴落]]によって[[世界恐慌]]が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた[[濱口雄幸]]内閣が実行した[[金解禁]]を契機として[[昭和恐慌]]が引き起こされた。この[[恐慌]]は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。[[イギリス|英国]]・[[フランス]]・[[アメリカ合衆国|米国]]などが植民地囲い込みによる[[ブロック経済]]で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で[[天文学|天文学的]][[戦争賠償|賠償金]]を負っていた[[ドイツ]]や、高収益な[[植民地]]を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことは[[ファシズム]]の台頭を招き、ドイツでは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。 [[1930年]](昭和5年)、米国や英国が中心となり[[ロンドン海軍軍縮会議]]が開催された。これは第一に、主力艦を[[1936年]](昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とするものであった。全権大使[[若槻禮次郎]]はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した([[統帥権|統帥権干犯問題]])。 [[1931年]](昭和6年)には関東軍の謀略により[[満州事変|柳条湖事件]]を契機に[[満州事変]]が勃発した。政府の戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった([[塘沽協定]]で日中間は一旦停戦となる)。日本の満洲建国に前後して、[[国際連盟]]は[[リットン調査団]]を派遣し、その調査結果に基づいて、[[1933年]](昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかに[[タイ王国|シャム(タイ)]]のみが棄権)で可決した。このため日本の代表[[松岡洋右]]は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。また、[[1932年]](昭和7年)には海軍将校らが[[犬養毅]]首相を射殺した[[五・一五事件]]が、[[1936年]](昭和11年)には[[皇道派]]の青年将校が[[斎藤実]]内大臣と高橋蔵相を射殺した[[二・二六事件]]が起こって軍部の暴走も顕著となり、[[政党内閣]]は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、[[広田弘毅]]内閣では過去に廃止となった[[軍部大臣現役武官制]]を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。[[1937年]](昭和12年)には、[[盧溝橋]]で日中両軍が衝突し([[盧溝橋事件]])、[[日中戦争]]([[支那事変]])が始まった。日中戦争(支那事変)がはじまると、中国では[[蒋介石]]と[[周恩来]]の間で[[国共合作]]が成立し、抗日闘争が進められた([[国共合作|第二次国共合作]])。ヨーロッパでは[[1939年]](昭和14年)9月、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]が[[ポーランド]]に侵入し、[[第二次世界大戦]]が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、[[1940年]](昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで[[日独伊三国軍事同盟|日独伊三国同盟]]を締結した。[[大西洋憲章]]を制定した米英の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対し、日独伊は[[枢軸国]]と呼称されるようになった。 戦線の拡大に従って[[廣田内閣]]・[[林内閣]]で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して[[国家総力戦|総力戦]]を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果[[国家総動員法]]が成立した。 国内の文化・思想に関しては、[[戦時体制]]が強化されるにともなって[[治安維持法]]による思想弾圧が目立ち、[[1937年]](昭和12年)には、[[加藤勘十]]・[[鈴木茂三郎]]らの労農派の関係者が[[人民戦線]]の結成を企図したとして検挙される[[人民戦線事件]]が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。 === 太平洋戦争(大東亜戦争) === [[Image:昭和3.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和4.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和5.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和6.jpg|300px|thumb|昭和時代]] {{see also|太平洋戦争}} [[日中戦争]]([[支那事変]])開始後、日本では[[近衛文麿]]を中心とする[[新体制運動]]が進められ、[[1940年]](昭和15年)10月、[[大政翼賛会]]が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する[[統制会]]・[[大日本産業報国会]]と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の[[左翼|赤]]である、幕府の様に[[皇室]]を置物にするものであるという強い批判も出た。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には[[近衛文麿]]、[[東條英機]]、[[小磯國昭]]、[[鈴木貫太郎]]が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の[[有馬頼寧]](よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また[[1941年]](昭和16年)には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。 アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はナチスドイツ・[[イタリア王国]]と[[日独伊三国軍事同盟]]を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部[[仏印進駐]]によってアメリカ合衆国から[[石油]]禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・[[中華民国]]・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとって[[ABCD包囲網]]と呼ぶ。一方日本では、[[陸軍]]を中心として対ソ連戦争を目指す[[北進論]]と南方に進出することを目標とする[[南進論]]との二派があったが、国境線が紛争となっていた[[張鼓峰]]と[[ノムンハン|ノモンハン]]で偵察的な戦闘をおこなった際、[[ソビエト連邦]]陸軍の[[戦車]]部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、[[日ソ中立条約]]を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、[[外務省]]は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であった[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|イギリス首相]]や[[中華民国]]の[[蒋介石]]らによる[[アメリカ合衆国]]の参戦の要望、及び日本海軍の動きに[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領]]が激怒したことにより[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称[[ハル・ノート]])を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が始まり、日本は[[第二次世界大戦]]へ参戦することとなった。アメリカ合衆国、イギリスは[[大西洋憲章]]を制定し、自陣営を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と称し、日本・ドイツ・イタリアの[[枢軸国]]と対抗した。 [[1941年]](昭和16年)[[12月8日]](現地時間[[12月7日]])、[[ハワイ・アリューシャン標準時|ハワイ時間]]午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本[[海軍]]は、[[真珠湾攻撃]]を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、[[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ[[植民地]]も攻撃した。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な[[航空母艦]](空母)の[[艦載機]]という[[航空機]]を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。 [[1942年]](昭和17年)、[[東條内閣]]は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また[[大日本産業報国会]]・[[農業報国連盟]]・[[商業報国会]]・[[日本海運報国団]]・[[日本青年団協議会#太平洋戦争以前|大日本青少年団]]・[[大日本婦人会]]の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに[[町内会]]と[[町内会|部落会]]に世話役を、[[隣組]]に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視に晒されることとなった。 当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の[[植民地]]であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、[[1943年]](昭和18年)10月、東京で[[大東亜会議]]を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った[[大東亜共同宣言]]を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未完成であった。 日本[[海軍]]は開戦当初、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、[[ミッドウェー海戦]]での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だった[[アメリカ海軍]]はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、[[制海権]]をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、[[1945年]](昭和20年)に解散し、[[国民義勇隊]]に改組された。 [[1944年]](昭和19年)7月には[[サイパン島]]が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年(昭和20年)[[3月10日]]には、大量無差別虐殺である[[東京大空襲]]が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年[[7月26日]]、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[ポツダム宣言]]を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。日本がなおも戦争継続の意思を示していたため、アメリカ軍によって、[[広島市への原子爆弾投下]]と[[長崎市への原子爆弾投下]]が行われた。 日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦は[[ヤルタ会談]]連合国の申し合わせに従って宣戦布告([[ソ連対日参戦]])し、満洲に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見ない[[中国残留日本人|中国残留孤児]]問題は、この時に生じることとなる。ソ連参戦によって万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を[[昭和天皇]]に仰いで降伏を決定し(同年[[8月14日]])、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌[[8月15日]]正午、[[昭和天皇]]自らの[[日本放送協会]]のラジオ放送いわゆる[[玉音放送]]により日本国民に伝えられた。 {{see also|日本の降伏}} こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2000万人から3000万人(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の[[占守島]]や[[樺太#南樺太|南樺太]]では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、同年[[8月23日]]のことだった。 {{see also|降伏文書}} === 戦後復興と高度経済成長 === ==== 概観 ==== [[Image:昭和7.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和8.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])後、[[1952年]](昭和27年)まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]の軍事占領下に置かれたが、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ / SCAP)の軍政は布かれず、直接的な統治は[[沖縄諸島|沖縄]]・[[奄美諸島]]・[[トカラ列島]]の下7島・[[歯舞群島]]・[[千島列島]]・[[樺太]]・[[小笠原諸島]]を除き日本政府が行なう[[間接統治]]が行なわれた。連合国軍最高司令官総司令部は、出版停止や[[プレスコード]]と称される[[言論統制]]・[[検閲]]などを通じて[[軍国主義]]・[[反米]]・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。沖縄・小笠原諸島は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の軍政が布かれた。 {{see also|アメリカ合衆国による沖縄統治}} 戦後、日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍に占領された内地の一部(南樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部は[[シベリア抑留]]され強制労働に従事した。外地からの日本人の引き揚げは困難を極め、[[通化事件]]のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、[[中国残留日本人]]問題を後に残した。また、[[インドネシア独立戦争]]、[[ベトナム独立戦争]]や[[国共内戦]]などに多くの日本人が加わった。旧満州国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地の人々に管理が引き継がれた。 [[1946年]](昭和21年)に公布された[[日本国憲法]]は[[大日本帝国憲法]]の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、[[主権]]は国民に存するとした「[[国民主権]](主権在民)」、[[法の下の平等]]及び[[自由権]]・[[社会権]]・[[参政権]]・[[国務請求権]]などの権利を保障する「[[人権|基本的人権]]の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「[[平和主義]]」を三大原理とした。このため現在日本では[[徴兵制度]]は憲法違反として実施されない。また、[[天皇]]は日本国および日本国民統合の象徴とされ、天皇の国政への関与は禁じられた([[象徴天皇制]])。 さらに、GHQの主導により[[農地改革]]、[[財閥解体]]、[[労働組合]]結成の促進、[[教育基本法]]制定などの[[日本の戦後改革|戦後改革]]が実施された。1952年4月28日に日本は主権を回復。GHQの進駐が終わった。 太平洋戦争によって著しく落ち込んだ経済は、[[朝鮮戦争]]・[[ベトナム戦争]]をきっかけとして回復し、さらに[[1960年]](昭和35年)から[[1970年代]]初頭(昭和40年代)まで[[高度経済成長]]を遂げ、[[アメリカ合衆国]]に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、[[農地改革]]や労組の拡大によってかつては貧しく、弱い立場に置かれていた[[労働#労働者|労働者]]や[[農家|農民]]が大[[消費者]]層として解放され、[[国内市場]]が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、[[家庭用電気機械器具|家電]]、[[自動車]]などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。二度にわたる[[オイルショック]]を境に高度経済成長時代は終焉し、安定成長時代を経て[[バブル景気]]へと突入した。 また、日本は憲法で[[軍隊]]を持たないことを定めたが、[[1951年]](昭和26年)に[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)と同時に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]を締結し、[[アメリカ軍|アメリカ合衆国軍]]の駐留をそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には[[保安隊]](後の[[自衛隊]])も発足し、事実上の再軍備を行なった。[[冷戦]]期には米国と同盟して[[ソビエト連邦|ソ連]]に対抗した。冷戦後には[[国際連合]]に協力して海外で[[国際連合平和維持活動|PKO]]部隊を展開するようになった。 ==== GHQによる占領 ==== [[Image:昭和9.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和10.jpg|300px|thumb|昭和時代]] {{see also|連合国軍占領下の日本}} 終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、[[台湾]]・[[朝鮮]]・[[樺太|南樺太]]、[[南洋諸島|南洋群島]]・[[千島列島]]を失った。このうち、千島列島については、[[樺太・千島交換条約]]によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は、千島列島のうち、南千島の北方4島についてのみ日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明している。 [[1945年]](昭和20年)から[[1952年]](昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国([[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]])に占領され、最高司令官として[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]が着任した。マッカーサーは政治的には[[共和党 (アメリカ)|共和党]]右派で、本来[[反共主義]]的な傾向があったが、戦後直後の[[民主化]]は戦争直後の内閣として組閣された[[東久邇宮内閣|東久邇宮稔彦王内閣]]の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮稔彦王内閣は戦時中の政治の継続を行なっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。[[アメリカ合衆国|米国]]の占領下で、[[幣原内閣|幣原喜重郎内閣]]、次いで[[吉田茂]]内閣を通じ、[[農地改革]]・[[財閥解体]]・[[労働改革]]の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また[[女性参政権|婦人参政権]]が認められる一方で、[[治安維持法]]が撤廃されるとともに二次にわたる[[公職追放]]が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放および被選挙権の停止措置が採られた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた[[鳩山一郎]]の場合、戦前の京大[[滝川事件]]時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また[[1946年]](昭和21年)には、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)。 [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の日本占領政策は、事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、[[直接統治]]方式による[[軍政]](アメリカの高等弁務官による統治)は[[沖縄県|沖縄]]に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]が拒否し、本土は統一的なアメリカの勢力下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「[[トルーマン・ドクトリン]]」を発表して[[ギリシャ]]での内戦に介入し、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]が「[[鉄のカーテン]]」演説で予測した東西「[[冷戦]]」が本格化した。 日本では、同じ敗戦国でも東西に分割された[[ドイツ]]や[[オーストリア]]([[ウィーン]])、ソ連の単独占領となった[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]などとは異なった占領形態が採られた。[[1951年]](昭和26年)、マッカーサーは[[朝鮮戦争]]で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行なったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任に[[マシュー・リッジウェイ]]中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、[[小笠原諸島]]を除く日本の本土では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年(昭和21年)に[[日本国憲法]]が公布され、1951年(昭和26年)の[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に[[アメリカ軍|米軍基地]]が残された。 [[日本国憲法第9条]]は、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという[[平和主義]]を定めている。そのため、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]や[[自衛隊]]の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の[[自衛権]]についても議論がある。 大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが、[[中国革命]]の進展と[[朝鮮戦争]]の勃発により事態は一変した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東の[[スイス]]を建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、[[1949年]](昭和24年)に中国大陸で[[蒋介石]]に代わって[[毛沢東]]政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「[[逆コース]]」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは[[労働運動]]の盛り上がりで、[[日本国有鉄道|国鉄]]や[[読売新聞]]等では[[労働組合]]による[[自主管理]]も行なわれた。[[東宝争議]]では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、[[三船敏郎]]、[[池部良]]、[[久我美子]]らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行なった。しかしこの頃、国鉄の[[下山事件]]、[[三鷹事件]]、[[松川事件]]などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時に[[レッドパージ]]が行なわれ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだ[[マッカーシズム|マッカーシー旋風]]([[赤狩り]])に似ていた。 文化面においては、[[映画]]が全盛時代を迎え、[[東映]]・[[大映]]・[[松竹]]・[[東宝]]・[[日活]]のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する[[映画館]]は最大の娯楽施設となった。また[[ラジオ]]放送も広範に普及し、[[歌謡曲]]やバラエティ、[[相撲]]や[[野球]]の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画や[[ジャズ]]・[[ポピュラー]]も急速に流入した。一方、[[ローマ字論|国語のローマ字化]]は断念され、1946年(昭和21年)には[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]・[[当用漢字]]の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法をはじめとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。 ==== 講和後~昭和後期 ==== [[Image:昭和11.jpg|300px|thumb|昭和時代]] 自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、[[農地改革]]や[[労働改革]]によって戦前に比べて[[国内市場]]が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代から40年代まで続く驚異的な[[高度経済成長]]を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。[[東海道新幹線]]開業、[[名神高速道路]]開通、[[東京オリンピック]]の開催、[[日本万国博覧会]](大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、[[中東戦争]]がもたらした[[オイルショック]]によって成長が終わる。 この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で[[警察予備隊]](後に[[自衛隊]])を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]と[[日米地位協定]]によって[[アメリカ軍|米軍基地]]が日本各地に残されており、駐留国負担(近年は[[思いやり予算]]と呼ばれることがある)の出費も大きく、[[アメリカ軍|米軍]]犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に[[沖縄県]]ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という[[非核三原則]]が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。 急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次[[ベビーブーム]]を経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は[[団塊の世代]]と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは「金の卵」と呼ばれ、[[集団就職|集団就職列車]]も運行された。都市部の[[中小企業]]に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。 一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する[[思春期]]に60年[[安保闘争]]を目にしたかれらはそれを見習い、大学改革闘争や[[ベトナム戦争]]反対運動などで勢いは高まった。[[東大紛争]]や[[日大紛争]]を経て、一部の過激な若者は、当時流行した[[新左翼]]思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的な[[テロリズム|テロ]]活動へと走った。かれらの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし、1960年代半ば(昭和40年代)には、[[公害]]の激化や[[社会問題]]の深刻となるなかで、社会党と共産党の[[革新統一]]の為の協定が結ばれ、東京の[[美濃部亮吉]]をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々[[革新自治体]]が生まれた。中でも京都府では、[[蜷川虎三]]が7期28年にわたり知事を務めた。しかし、後には、[[社共共闘]]が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。1972年(昭和47年)には、[[日本列島改造論]]を唱えた[[田中角栄内閣]]が成立し、[[ロッキード事件]]を経て、[[三角大福|三角大福中]]の自民党[[派閥]]政治の時代となった。 戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]を筆頭とする社会主義陣営に対抗し[[冷戦|冷戦期]]を乗り切ることができた。 一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触する恐れが高い自衛隊の設置を[[憲法改正]]なしに行なわれたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。 大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1970年代半ば(昭和50年代)、戦後わずか30数年にしてGNPレベルでは[[アメリカ合衆国]]に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。 しかしオイル・ショックを境に、[[円高問題]]の深刻化と言った新たな問題に直面する。もはや高度成長時代は終わり、[[低成長]]の時代へ移っていく。政府は円高による輸出不振の対策として内需拡大を促進するために金融緩和政策に踏み切ったために日本は空前の[[バブル景気]]に突入した。だが、その繁栄はやがて到来する[[デフレーション|デフレ]](マイナス成長)へと続く道であることに気づく者はほとんどいなかった。そのような転換期のなかで平成を迎える。 以上のように、[[戦争]]そして[[敗戦]]と有史以来初めてとなる外国勢力による[[占領]]、そして[[特需景気|特需]]を背景とした経済成長など、昭和の間には日本はこれまでにない大変化を遂げた。このことより、昭和終焉の時には新聞をはじめ、さまざまな方面から'''激動の昭和'''と評された。 == 略年表 == === 昭和前期 === [[Image:昭和12.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和13.jpg|300px|thumb|昭和時代]] *[[1926年]](昭和元年):12月25日、[[大正天皇]]崩御を受け[[昭和天皇|裕仁親王]]が践祚。昭和と改元。 *[[1927年]](昭和2年):[[昭和金融恐慌]] *[[1928年]](昭和3年):[[張作霖爆殺事件]]、男子[[普通選挙]]実施 *[[1929年]](昭和4年):[[世界恐慌]] *[[1930年]](昭和5年):[[金解禁|金輸出解禁]]、[[ロンドン海軍軍縮会議]] *[[1931年]](昭和6年):[[満州事変]]、[[金解禁|金輸出再禁止]] *[[1932年]](昭和7年):[[満州国|満洲国]]建国、[[血盟団事件]]、[[五・一五事件]] *[[1933年]](昭和8年):[[12月23日]]、継宮[[明仁|明仁親王]](後の皇太子となり、後に今上天皇)誕生。[[滝川事件]]、[[国際連盟]]脱退 *[[1934年]](昭和9年):[[ベーブ・ルース]]ら米大リーグ選抜チーム来日、[[陸軍士官学校事件]] *[[1935年]](昭和10年):[[天皇機関説事件]]、[[相沢事件]] *[[1936年]](昭和11年):[[二・二六事件]]、[[日独防共協定]]締結 *[[1937年]](昭和12年):[[支那事変]]([[日中戦争]])勃発 、[[日独伊防共協定]]締結、朝鮮で[[皇国臣民ノ誓詞]]を発布する。 *[[1938年]](昭和13年):[[国家総動員法]]制定 *[[1939年]](昭和14年):[[ノモンハン事件]]。[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]により[[第二次世界大戦]]始まる。 *[[1940年]](昭和15年):[[大政翼賛会]]結成、[[日独伊三国軍事同盟]]締結 *[[1941年]](昭和16年):[[日ソ中立条約]]。12月8日、[[太平洋戦争]]開戦([[真珠湾攻撃]])。 *[[1942年]](昭和17年):[[日本軍]]が[[シンガポールの戦い|シンガポール]]、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン]]等のアジア各地を占領。[[ミッドウェー海戦]] *[[1943年]](昭和18年):[[ケ号作戦|日本軍ガダルカナル島撤退]]、[[アッツ島の戦い]]、[[ソロモン諸島の戦い|第一次~三次ソロモン海戦]]、[[学徒出陣|出陣学徒壮行会]] *[[1944年]](昭和19年):[[インパール作戦]]、[[マリアナ沖海戦]]、[[グアムの戦い]]、[[レイテ島の戦い]]、[[東南海地震]]。[[B-29 (航空機)|B-29]]による[[東京]]への[[空襲]]始まる。 *[[1945年]](昭和20年):[[3月9日]]-[[3月10日|10日]]に[[東京大空襲]]。同月には[[名古屋大空襲]]、[[大阪大空襲]]、[[神戸大空襲]]、5月には[[横浜大空襲]]、6月には[[静岡大空襲]]、7月には[[北海道空襲]]、8月には[[富山大空襲]]など、終戦まで各地で大規模な空襲が行われる。 * 同年:[[4月1日]]、米軍が沖縄本島に上陸([[沖縄戦]])、地上戦となる。[[6月23日]]、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わる([[慰霊の日]])。 * 同年:[[8月6日]]、[[広島市への原子爆弾投下]]。[[8月9日]]、[[長崎市への原子爆弾投下]]、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告。千島・樺太に侵攻。 *[[1945年]](昭和20年):8月14日、[[ポツダム宣言]]の受諾を通告。[[8月15日]]、[[玉音放送]]により国民に[[終戦]]が告げられる([[終戦の日|終戦記念日]])。9月2日、[[降伏文書]]に調印する。 === 昭和中期 === [[Image:昭和14.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和15.jpg|300px|thumb|昭和時代]] *[[1946年]](昭和21年):[[1月1日]]、天皇の[[人間宣言]]。[[11月3日]]、[[日本国憲法]]公布。 *[[1947年]](昭和22年):[[5月3日]]、日本国憲法施行、[[地方自治法]]成立。 *[[1948年]](昭和23年):[[4月3日]]、[[朝鮮]]の[[済州島]]で大量虐殺([[済州島四・三事件]])が発生。島民が日本に多数流入。[[6月28日]]、[[福井地震]]発生。 *[[1949年]](昭和24年):[[ドッジ・ライン]]実施。[[下山事件]]、[[三鷹事件]]、[[松川事件]]が相次いで発生。 *[[1950年]](昭和25年):[[朝鮮戦争]]が発生。日本は[[朝鮮特需]]により経済復興が加速 *[[1951年]](昭和26年):[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]調印 *[[1952年]](昭和27年):[[日米地位協定|日米行政協定]] *[[1953年]](昭和28年):[[テレビ]]の本放送開始 *[[1954年]](昭和29年):[[3月1日]]、[[ビキニ環礁]]で[[水素爆弾|水爆]]実験が行われ、[[第五福竜丸]]の乗組員が被曝する。 *[[1955年]](昭和30年):自由党と民主党が合併し[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、右派と左派が合併した[[日本社会党]]が設立([[55年体制]])。[[神武景気]] *[[1956年]](昭和31年):[[日ソ共同宣言]]。[[12月18日]]、[[国際連合]]加盟。 *[[1957年]](昭和32年):[[なべ底不況]] *[[1958年]](昭和33年):[[岩戸景気]]、[[東京タワー]]竣工、[[長嶋茂雄]]が[[巨人軍]]へ入団 *[[1959年]](昭和34年):[[4月10日]]、[[皇太子]][[明仁|明仁親王]](今上天皇)が[[皇后美智子|正田美智子]]と結婚。 *[[1960年]](昭和35年):[[2月23日]]、[[徳仁親王]](のちの皇太子)誕生。[[6月19日]]、日米安全保障条約改定。 *[[1961年]](昭和36年):[[農業基本法]]制定 *[[1962年]](昭和37年):[[オリンピック景気]] *[[1963年]](昭和38年):国産初の30分[[テレビアニメ]]である[[鉄腕アトム]]放映開始 *[[1964年]](昭和39年):[[10月1日]]、[[東海道新幹線]]開通。[[10月10日]]-[[10月24日|同月24日]] [[東京オリンピック]]開催 *[[1965年]](昭和40年):[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]が調印。 === 昭和後期 === [[Image:昭和16.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和17.jpg|300px|thumb|昭和時代]] *[[1966年]](昭和41年):日本の総[[人口]]が1億人を突破。[[いざなぎ景気]] *[[1968年]](昭和43年):[[12月10日]]、[[三億円事件]]。[[全共闘運動]]激化 *[[1969年]](昭和44年):[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]放映開始 *[[1970年]](昭和45年):[[3月14日]]-[[9月13日]]、[[日本万国博覧会]]開催。3月、[[よど号ハイジャック事件]]。[[11月25日]]、[[三島事件]]。 *[[1971年]](昭和46年):[[7月1日]]、[[環境省|環境庁]]設置。 *[[1972年]](昭和47年):[[札幌オリンピック]]開催。 [[2月19日]]、[[あさま山荘事件]]発生。[[3月15日]]、[[山陽新幹線]]・新大阪駅~岡山駅で開通。[[5月15日]]、[[沖縄返還]]。[[9月29日]]、[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]。 *[[1973年]](昭和48年):第一次[[オイルショック]] *[[1974年]](昭和49年):[[長嶋茂雄]]が現役引退 *[[1975年]](昭和50年):[[3月10日]]、山陽新幹線・岡山駅~博多駅で開通。 *[[1976年]](昭和51年):[[ロッキード事件]]、[[王貞治]]が[[ベーブ・ルース]]の本塁打記録を抜く。 *[[1977年]](昭和52年):[[王貞治]]が[[ハンク・アーロン]]の本塁打記録を抜き世界一となる。 *[[1978年]](昭和53年):[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]が調印。 *[[1979年]](昭和54年):第二次[[オイルショック]]。[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]](第2作)放映開始 *[[1982年]](昭和57年):6月[[東北新幹線]]([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]~[[盛岡駅]])、11月[[上越新幹線]](大宮駅~[[新潟駅]])が開通。 *[[1983年]](昭和58年):[[東京ディズニーランド]]開園・[[日本海中部地震]]発生 *[[1985年]](昭和60年):[[日本電信電話公社]]・[[日本専売公社]]が[[民営化]]、[[日本電信電話]](NTT)・[[日本たばこ産業]](JT)の発足。[[国際科学技術博覧会|つくば科学博]]開催。8月[[日本航空123便墜落事故]]。9月[[G5]]で[[プラザ合意]] *[[1986年]](昭和61年):5月[[東京サミット]]開催 *[[1987年]](昭和62年):この年から[[バブル景気]](平成景気)が本格化する。[[日本国有鉄道|国鉄]]が[[国鉄分割民営化|分割民営化]]で、[[JR]]グループの発足。 *[[1988年]](昭和63年):3月[[青函トンネル]]、4月[[瀬戸大橋]]開業、[[リクルート事件]] *[[1989年]](昭和64年):1月7日、[[昭和天皇]][[崩御]]。激動の昭和が幕を閉じる。1月8日、[[平成]]に改元。 == 西暦との対照表 == [[Image:昭和18.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和19.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和20.jpg|300px|thumb|昭和時代]] [[Image:昭和21.jpg|300px|thumb|昭和時代]] {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !昭和||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年 |- ![[西暦]] |[[1926年]]||[[1927年]]||[[1928年]]||[[1929年]]||[[1930年]]||[[1931年]]||[[1932年]]||[[1933年]]||[[1934年]]||[[1935年]] |- ![[干支]] |[[丙寅]]||[[丁卯]]||[[戊辰]]||[[己巳]]||[[庚午]]||[[辛未]]||[[壬申]]||[[癸酉]]||[[甲戌]]||[[乙亥]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !昭和||11年||12年||13年||14年||15年||16年||17年||18年||19年||20年 |- !西暦 |[[1936年]]||[[1937年]]||[[1938年]]||[[1939年]]||[[1940年]]||[[1941年]]||[[1942年]]||[[1943年]]||[[1944年]]||[[1945年]] |- !干支 |[[丙子]]||[[丁丑]]||[[戊寅]]||[[己卯]]||[[庚辰]]||[[辛巳]]||[[壬午]]||[[癸未]]||[[甲申]]||[[乙酉]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !昭和||21年||22年||23年||24年||25年||26年||27年||28年||29年||30年 |- !西暦 |[[1946年]]||[[1947年]]||[[1948年]]||[[1949年]]||[[1950年]]||[[1951年]]||[[1952年]]||[[1953年]]||[[1954年]]||[[1955年]] |- !干支 |[[丙戌]]||[[丁亥]]||[[戊子]]||[[己丑]]||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !昭和||31年||32年||33年||34年||35年||36年||37年||38年||39年||40年 |- !西暦 |[[1956年]]||[[1957年]]||[[1958年]]||[[1959年]]||[[1960年]]||[[1961年]]||[[1962年]]||[[1963年]]||[[1964年]]||[[1965年]] |- !干支 |[[丙申]]||[[丁酉]]||[[戊戌]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]]||[[壬寅]]||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !昭和||41年||42年||43年||44年||45年||46年||47年||48年||49年||50年 |- !西暦 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大正天皇が崩御して、[[毎日新聞|東京日日新聞(現:毎日新聞)]]が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され、大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている([[光文事件]])。しかし「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で1926年(大正15年)[[12月8日]]時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していた事が明らかになっている。「光文」は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたというのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年(昭和51年)9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」<ref>[http://www.ndl.go.jp/modern/column/06.html コラム 6 元号伝説 - ポスト「大正」は「光文」か?]、史料にみる日本の近代、[[国立国会図書館]]</ref> )。 * 昭和の「'''昭'''」は今でこそポピュラーな[[漢字]]だが、当時はまれに人名で使われたりする以外は、学者や一部の貴族以外は馴染みのない漢字であったという。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「'''章和'''」とする変更意見が出された程である。しかし「[[章和]]」は過去[[漢]]と[[高昌]]で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある。 * [[干支]]を見て分かるように、史上[[還暦]]を迎えた元号は日本の昭和と[[中国]]の[[康熙]]だけである(昭和は[[丙寅]]で「還暦」している)。 * 1926年(大正15年)12月25日に出生した[[赤ちゃん|新生児]]は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年の1927年(昭和2年)生)ケースが多発した。[[植木等]]、[[関根潤三]]らがこうしたケースに当たる。 == 現代における「昭和」 == [[国民の祝日に関する法律]]が一部改正され、[[2007年]](平成19年)から毎年[[4月29日]]は、[[昭和の日]]に変更された。祝日法には「昭和の日-激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と定められている。 「[[昭和ノスタルジー]]」という代表される言葉や、戦前もしくは高度経済成長期までの古い町並みを活かし、観光地化を進めている町もある。だがその一方で、ただの[[レトロ|懐古主義]]に浸っているだけという批判もある。 <gallery caption="昭和の時代" widths="300px" heights="400px" perrow="3"> Image:昭和の風景1.jpg Image:昭和の風景2.jpg Image:昭和の風景3.jpg Image:昭和の風景4.jpg Image:昭和の風景5.jpg Image:昭和の風景6.png Image:昭和の風景7.png Image:昭和の風景8.jpg Image:昭和の風景9.jpg Image:昭和の風景10.jpg Image:昭和の風景11.jpg Image:昭和の風景12.jpg Image:昭和の風景13.jpg Image:昭和の風景14.jpg Image:昭和の風景15.jpg Image:昭和の風景16.jpg Image:昭和の風景17.jpg </gallery> == 昭和を冠するもの == === 企業・団体 === * [[昭和産業]] * [[昭和電工]] * [[昭和電線ホールディングス]] * [[昭和飛行機工業]] * [[ショーワ]] * [[昭和シェル石油]] * [[昭和プロダクション]] - [[大阪市]]を本拠とする[[芸能事務所]] * [[昭和自動車]] - [[佐賀県]][[唐津市]]に本社を置く[[路線バス]]事業者 * [[昭和リース]] * 大昭和製紙 - 現在の[[日本製紙]]の前身の一つ * [[ショウワノート]] * [[昭和信用金庫]] * 昭和被服総業 - [[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]][[西大寺 (岡山市地名)|西大寺]]にある老舗[[アパレル]][[製造業|メーカー]] * [[クレバリーホーム|新昭和]] - 日本の中堅住宅建築会社。[[フランチャイズ|FC]]方式の住宅ブランド『[[クレバリーホーム]]』のFC本部。[[埼玉県]]に本社を置く * [[昭和丸筒]] - 日本における有力紙器メーカーの一つ * [[昭和精機工業]] - 大阪に本社を置く中堅機械メーカー。現在は[[アーク (会社)|ARRK]]の傘下 * [[昭和アルミニウム]] === 教育・学校 === * [[昭和鉄道高等学校]] * [[昭和第一高等学校]] * [[昭和音楽大学]] * [[昭和女子大学]] * [[昭和大学]] * [[昭和薬科大学]] * [[昭和学院短期大学]] * 昭和小学校(全国各地にある) * 昭和中学校(同上) * 昭和幼稚園(同上) === 地名 === * [[昭和基地]] * [[昭和駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[鶴見線]]) * [[昭和町駅 (大阪府)|昭和町駅]]([[大阪市営地下鉄]][[大阪市営地下鉄御堂筋線|御堂筋線]]) * [[昭和町駅 (香川県)|昭和町駅]]([[四国旅客鉄道|JR四国]][[高徳線]]) * <!--厳密には冠していませんが-->[[土佐昭和駅]](JR四国[[予土線]]) * [[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]] * [[広島県]][[呉市]]昭和町 * [[山梨県]][[中巨摩郡]][[昭和町]] * [[秋田県]][[南秋田郡]][[昭和町 (秋田県)|昭和町]] - 現在の[[潟上市]] * [[山形県]][[新庄市]][[昭和地区]] * [[徳島県]][[徳島市]][[昭和町 (徳島市)|昭和地区]] * [[福島県]][[大沼郡]][[昭和村 (福島県)|昭和村]] * [[群馬県]][[利根郡]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]] * [[栃木県]][[宇都宮市]][[昭和 (宇都宮市)|昭和]] * [[東京都]][[昭島市]] - 昭和町と拝島村が合併して成立 * [[昭和通り]](東京都ほか) * [[昭和島]](東京都ほか) * [[昭和橋 (利根川)]] * [[昭和大橋 (桑折町)]] * [[昭和大橋 (新潟市)]] * [[昭和新山]] 他にも昭和町という地名は日本全国の至るところに存在している。 === 公園 === * [[昭和の森公園]]([[千葉県]]ほか) * [[日本昭和村]]([[岐阜県]][[美濃加茂市]]) * [[国営昭和記念公園]](東京都[[立川市]]、昭島市) === 曲 === * 昭和おんなブルース([[青江三奈]]のシングル、1970年) * [[昭和枯れすゝき]]([[さくらと一郎]]のシングル、1974年<!--7月-->) * 昭和ブルース([[天知茂]]のシングル、1974年<!--9月-->) * 昭和舟歌([[小林旭]]のシングル、1988年) * 昭和([[長渕剛]]のアルバム『[[昭和 (アルバム)|昭和]]』収録、1989年) * 昭和夢つばめ([[石川さゆり]]のシングル、1996年) * 昭和残照([[杉良太郎]]のシングル、1999年<!--3月-->) * [[昭和最後の秋のこと]]([[森進一]]・[[桂銀淑]]の競作シングル、ともに1999年<!--7月-->) * 昭和レジデンス([[クレイジーケンバンド]]のアルバム『グランツーリズモ』収録、2002年<!--8月-->) * [[昭和の階段 Vol.1]]([[工藤静香]]のアルバム名、2002年<!--10月-->) * [[雨上がり (レミオロメンの曲)|昭和]]([[レミオロメン]]のシングル「[[雨上がり (レミオロメンの曲)|雨上がり]]」、アルバム『[[朝顔 (アルバム)|朝顔]]』収録、2003年) * [[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜#収録曲|昭和モダン]]([[山崎まさよし]]、『[[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜]]』収録、2007年) * 昭和の歌など聴きながら([[八代亜紀]]のシングル、2008年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == *[[日本の歴史]] *[[光文事件]] *[[モボ・モガ]] *[[昭和の日]] *[[昭和史論争]] *[[昭和モダン]] *[[昭和ノスタルジー]] *[[昭和の町]] == 外部リンク == * [http://www.429jp.info/ 昭和の日 オフィシャルサイト](民間団体によるウェブサイト) {{日本の元号|[[大正]]|[[平成]]|しようわ}} {{日本の歴史一覧}} {{DEFAULTSORT:しようわ}} [[Category:画像が多い記事]] [[Category:昭和時代|*]]