「本因坊道策」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
父山崎七右衛門、母ハマの二男。石見国馬路(現島根県大田市仁摩町馬路)に生まれる。7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ下り本因坊算悦門に入る。本姓は山崎、幼名は三次郎。[[1667年]](寛文7年)に御城碁初出仕し、同じく初出仕で1歳年長の[[安井知哲]]に白番5目勝であった。算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上し、[[1677年]]に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙した。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、[[安井知哲]]、[[安井春知]]に向先二、[[林門入]]に向二子の手合であったことから、反対意見がなく、[[寺社奉行]]より[[碁所]]を命ぜられた。翌年5月に碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となった。
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父山崎七右衛門、母ハマの二男。石見国馬路(現島根県大田市仁摩町馬路)に生まれる。7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ下り三世[[本因坊算悦]]門に入る。本姓は山崎、幼名は三次郎。[[1667年]](寛文7年)に御城碁初出仕し、同じく初出仕で1歳年長の[[安井知哲]]に白番5目勝であった。算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上し、[[1677年]]に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙した。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、[[安井知哲]]、[[安井春知]]に向先二、[[林門入]]に向二子の手合であったことから、誰からも反対意見がなく、[[寺社奉行]]より[[碁所]]を許可された。翌年5月に碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となった。名人碁所在任は1677年~1702年であった。
[[1682年]](天和2年)、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は、国内外に威名の高い本因坊四世道策のことを耳にして、国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)を日本に送り、薩摩2代藩主、島津光久(しまづみつひさ、、1616年(元和2年)~1694年(元禄7年)の頃、島津家を通じて道策との対局を願い出た。道策はこれを受けて島津藩邸にて対戦した。道策は四子の手合割を指定した。親雲上は、琉球第一の名手であり、四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけて負ける訳にはいかない。置碁には珍しい力のこもった勝負であったが、道策は随所に妙手を繰り出し、完全に黒を翻弄し、道策はこの碁に14目勝ちを収め、人々を驚嘆させた。濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀2目勝となった。その後濱比賀は免状の発行を望み、道策は「上手(七段)に二子」すなわち三段の免状を与えた。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られた。
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[[1682年]](天和2年)、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は、国内外に威名の高い本因坊四世道策のことを耳にして、国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)を日本に送り、薩摩2代藩主、[[島津光久]](しまづみつひさ、、1616年(元和2年)~1694年(元禄7年)の頃、島津家を通じて道策との対局を願い出た。道策はこれを受けて島津藩邸にて対戦した。道策は四子の手合割を指定した。親雲上は、琉球第一の名手であり、四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけて負ける訳にはいかない。置碁には珍しい力のこもった勝負であったが、道策は随所に妙手を繰り出し、完全に黒を翻弄し、道策はこの碁に14目勝ちを収め、人々を驚嘆させた。濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀2目勝となった。その後濱比賀は免状の発行を望み、道策は「上手(七段)に二子」すなわち三段の免状を与えた。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られた。
 
1696年(元禄9年)まで御城碁を勤め、14勝2敗であり、2敗はいずれも二子局での1目負けであった。[[1683年]](天和3年)の[[安井春知]]との二子局1目負の碁は、道策一生の傑作として知られる。[[1688年]](元禄元年)、京都[[寂光寺]]で[[本因坊算砂]]追善碁会を開く。
 
1696年(元禄9年)まで御城碁を勤め、14勝2敗であり、2敗はいずれも二子局での1目負けであった。[[1683年]](天和3年)の[[安井春知]]との二子局1目負の碁は、道策一生の傑作として知られる。[[1688年]](元禄元年)、京都[[寂光寺]]で[[本因坊算砂]]追善碁会を開く。
 
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元禄15年正月下旬、枕辺に安井家、林家の当主と、将棋所の[[大橋宗桂]]までも立会人として招き、数十人の門弟がずらりと並ぶ中、道知に手伝わせて半身を起し、「我、死したる後も、生前通り少しも稽古怠りなく勉励すべし」と遺言した。私の命は永くはないとし、遺言を残した。この囲碁の盛んな時代を目のあたりにし、いつ死のうと悔いはない。ただ一つ心残りなのは、道的、策元の後、跡目が決まっていないことである。諸氏の立会いの下に、道策亡き後の本因坊家の跡目を[本因坊道知|神谷道知]]とした。道知はまだ13歳であり、私に二子の碁である。道策の見るところ、本因坊家の後継者は道知をおいて他にない。将来、当家を背負って立つ逸材である。みんな協力して道知を盛り立ててほしいとし、4世[[井上因硯]]に跡目道知の後見人として、その大成に力を貸すよう依頼した。33井上因碩(道節、系図書き変え後は4世)を準名人(8段)に進め、道知の育成を依頼し、因碩に碁所を望まぬとの誓書を出させた。死後の処置を終えてから、元禄15年3月16日、逝去した。享年58歳。法名は日忠。
  
 
== 棋風・人物 ==
 
== 棋風・人物 ==
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*[[小林光一]]は道策に私淑しているため、息子が生まれたら「道策」と名付けたいと考えた時期がある。
 
*[[小林光一]]は道策に私淑しているため、息子が生まれたら「道策」と名付けたいと考えた時期がある。
 
*圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称された。
 
*圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称された。
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*古来、名人碁所の任命に当たり、反対意見がなかったのは稀である。
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*算砂創業の恩を忘れないために、坊門の家督を継いだものは必ず寂光寺に参詣するよう遺訓を残した。
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*道策は、[[名人]]を9段、名人・上手間を8段、[[上手]]を7段とし、以下2段差を1子とする段位制を確立した。この段位制は1924年に[[日本棋院]]が設立されるまで使われた。
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*[[酒井猛]]9段の道策の碁の評価は「道策の碁には碁のあらゆるものがある。強烈無比の攻め、鮮やかな凌ぎ、雄大極まりない大作戦、そして時にはものすごい地のからさ、それが次の瞬間には全く別の方向に転換したりもする。必要な時に必要な手がおのずと湧いてくるという観があり、盤上に響き渡る一手一手は何度並べても感動を呼ぶのである。それはまさに天来の妙音でもあった」
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*墓は[[本妙寺]]である。
  
 
== 門下生 ==
 
== 門下生 ==

2017年9月11日 (月) 23:33時点における最新版

本因坊道策(ほんいんぼう どうさく、1645年(正保2年)-1702年4月22日(元禄15年3月26日))は、江戸時代囲碁棋士。四世本因坊名人碁所2004年日本棋院囲碁殿堂入り。本因坊算悦本因坊道悦門下。

経歴[編集]

父山崎七右衛門、母ハマの二男。石見国馬路(現島根県大田市仁摩町馬路)に生まれる。7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ下り三世本因坊算悦門に入る。本姓は山崎、幼名は三次郎。1667年(寛文7年)に御城碁初出仕し、同じく初出仕で1歳年長の安井知哲に白番5目勝であった。算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上し、1677年に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙した。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であったことから、誰からも反対意見がなく、寺社奉行より碁所を許可された。翌年5月に碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となった。名人碁所在任は1677年~1702年であった。 1682年(天和2年)、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は、国内外に威名の高い本因坊四世道策のことを耳にして、国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)を日本に送り、薩摩2代藩主、島津光久(しまづみつひさ、、1616年(元和2年)~1694年(元禄7年)の頃、島津家を通じて道策との対局を願い出た。道策はこれを受けて島津藩邸にて対戦した。道策は四子の手合割を指定した。親雲上は、琉球第一の名手であり、四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけて負ける訳にはいかない。置碁には珍しい力のこもった勝負であったが、道策は随所に妙手を繰り出し、完全に黒を翻弄し、道策はこの碁に14目勝ちを収め、人々を驚嘆させた。濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀2目勝となった。その後濱比賀は免状の発行を望み、道策は「上手(七段)に二子」すなわち三段の免状を与えた。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られた。 1696年(元禄9年)まで御城碁を勤め、14勝2敗であり、2敗はいずれも二子局での1目負けであった。1683年(天和3年)の安井春知との二子局1目負の碁は、道策一生の傑作として知られる。1688年(元禄元年)、京都寂光寺本因坊算砂追善碁会を開く。 元禄15年正月下旬、枕辺に安井家、林家の当主と、将棋所の大橋宗桂までも立会人として招き、数十人の門弟がずらりと並ぶ中、道知に手伝わせて半身を起し、「我、死したる後も、生前通り少しも稽古怠りなく勉励すべし」と遺言した。私の命は永くはないとし、遺言を残した。この囲碁の盛んな時代を目のあたりにし、いつ死のうと悔いはない。ただ一つ心残りなのは、道的、策元の後、跡目が決まっていないことである。諸氏の立会いの下に、道策亡き後の本因坊家の跡目を[本因坊道知|神谷道知]]とした。道知はまだ13歳であり、私に二子の碁である。道策の見るところ、本因坊家の後継者は道知をおいて他にない。将来、当家を背負って立つ逸材である。みんな協力して道知を盛り立ててほしいとし、4世井上因硯に跡目道知の後見人として、その大成に力を貸すよう依頼した。33井上因碩(道節、系図書き変え後は4世)を準名人(8段)に進め、道知の育成を依頼し、因碩に碁所を望まぬとの誓書を出させた。死後の処置を終えてから、元禄15年3月16日、逝去した。享年58歳。法名は日忠。

棋風・人物[編集]

  • 呉清源九段は、いまその譜を並べ直してみても、敬服に値する棋士であるとした。
  • 当時の古風な力碁に対して合理的な思考を打ち出して、近代的感覚の第1歩を踏み出した功績は大きいとされる。
  • 後世「棋聖」とされ、史上最強の棋士の評価がある。
  • 手割による考え方から、相手を凝り形にする手法を好んで用いた。
  • 石を外まわりに導き、石をいっぱいに働かせて打つ棋風である。
  • 小林光一は道策に私淑しているため、息子が生まれたら「道策」と名付けたいと考えた時期がある。
  • 圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称された。
  • 古来、名人碁所の任命に当たり、反対意見がなかったのは稀である。
  • 算砂創業の恩を忘れないために、坊門の家督を継いだものは必ず寂光寺に参詣するよう遺訓を残した。
  • 道策は、名人を9段、名人・上手間を8段、上手を7段とし、以下2段差を1子とする段位制を確立した。この段位制は1924年に日本棋院が設立されるまで使われた。
  • 酒井猛9段の道策の碁の評価は「道策の碁には碁のあらゆるものがある。強烈無比の攻め、鮮やかな凌ぎ、雄大極まりない大作戦、そして時にはものすごい地のからさ、それが次の瞬間には全く別の方向に転換したりもする。必要な時に必要な手がおのずと湧いてくるという観があり、盤上に響き渡る一手一手は何度並べても感動を呼ぶのである。それはまさに天来の妙音でもあった」
  • 墓は本妙寺である。

門下生[編集]

本因坊道知小川道的佐山策元桑原道節熊谷本碩星合八碩

参考文献[編集]