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− | 1888年に[[石井千治]]と青年囲碁研究会を設立、石井と十番碁を打ち5勝4敗1ジゴとする。1893年(明治26年)[[小林鉄次郎]]の逝去に伴い、追善会を開催する。1894年に[[方円社]]を退社し、[[本因坊秀栄]]、[[安井算英]]と碁界統一を図るが失敗する。[[1906年]]に秀栄から新聞手合に誘われて出場、日本囲碁会で教授を担当。[[1908年]]の秀栄没時に遺命にて五段昇段。[[1909年]]に[[浦賀]]で独立庵柯山(囲碁教室)を開いた。[[1921年]]に[[雁金準一]]、[[小林鍵太郎]]とともに[[方円社]] | + | 1888年に[[石井千治]]と青年囲碁研究会を設立、石井と十番碁を打ち5勝4敗1ジゴとする。1893年(明治26年)[[小林鉄次郎]]の逝去に伴い、追善会を開催する。1894年に[[方円社]]を退社し、[[本因坊秀栄]]、[[安井算英]]と碁界統一を図るが失敗する。[[1906年]]に秀栄から新聞手合に誘われて出場、日本囲碁会で教授を担当。[[1908年]]の秀栄没時に遺命にて五段昇段。[[1909年]]に[[浦賀]]で独立庵柯山(囲碁教室)を開いた。 |
+ | [[1912年]]、「棊界新報」、「囲碁雑誌」両誌(11月号)に方円社社長更迭問題に関し「中川、広瀬両氏に与ふる書」を発表した。 | ||
+ | [[1919年]]、[[雁金準一]]、[[吉沢道三]]、[[小林鍵太郎]]らと大正囲棋会を設立した(事務所は東京市京橋区岡崎町、小林鍵太郎方)。 | ||
+ | [[1921年]]に[[雁金準一]]、[[小林鍵太郎]]とともに[[方円社]]に復帰する。[[1925年]]、没す。 | ||
著書に『囲碁秘訣侵分と劫』<ref>関源吉『囲碁秘訣侵分と劫』駸々堂書店,大正7年</ref>。 | 著書に『囲碁秘訣侵分と劫』<ref>関源吉『囲碁秘訣侵分と劫』駸々堂書店,大正7年</ref>。 |
2017年9月10日 (日) 23:28時点における版
関 源吉(せき げんきち、1856年(安政3年) - 1925年(大正14年)2月25日))は、明治・大正時代の囲碁棋士。
経歴
1856年(安政3年)江戸で生まれる。8歳の時に父(当時、秀和門下の初段)から碁を学び、11歳の時に当時初段の父に星目で勝ち、翌年本因坊秀和に入門した。同門に中村恵吉、吉田高女あり。部屋住みに本因坊秀悦、本因坊秀栄、本因坊秀元の3兄弟があり、月5回の稽古であった。秀元は家元にあり、日々研鑽していたので、互先から先二に打ち込まれた[1]。 本因坊秀甫、伊藤松和、中川亀三郎、巌崎健造らに教えを受け、1868年に初段格に達する。その頃、父源次郎は災害のため、江戸から川越に転居した。1870年(明治3年)に東京に戻り、本因坊秀甫の教場に出入りし、高橋杵三郎、大沢銀次郎に指導を受ける。1875年に伊豆で療養中のため沼津の中村正平の許に滞在していた秀甫を訪ね、二子でジゴとした。本因坊秀甫に二子で持碁としたのは、技を磨くうえでは障害になったと語る。1881年末に東京に戻り、1882年1月に方円社に初段で入社。
1888年に石井千治と青年囲碁研究会を設立、石井と十番碁を打ち5勝4敗1ジゴとする。1893年(明治26年)小林鉄次郎の逝去に伴い、追善会を開催する。1894年に方円社を退社し、本因坊秀栄、安井算英と碁界統一を図るが失敗する。1906年に秀栄から新聞手合に誘われて出場、日本囲碁会で教授を担当。1908年の秀栄没時に遺命にて五段昇段。1909年に浦賀で独立庵柯山(囲碁教室)を開いた。 1912年、「棊界新報」、「囲碁雑誌」両誌(11月号)に方円社社長更迭問題に関し「中川、広瀬両氏に与ふる書」を発表した。 1919年、雁金準一、吉沢道三、小林鍵太郎らと大正囲棋会を設立した(事務所は東京市京橋区岡崎町、小林鍵太郎方)。 1921年に雁金準一、小林鍵太郎とともに方円社に復帰する。1925年、没す。
著書に『囲碁秘訣侵分と劫』[2]。
人物
秀栄死後の後継者問題について遺言派として雁金準一を支持し、田村保寿派と当たっていた。雁金は棋道研究の名のもとに、田村保寿と同席しなかった。関源吉は雁金が田村と和解しても、自分の立場を守るとした。田村保寿からの二十一世本因坊襲名の通知が届いたが返送した。親子代々の江戸っ子気質と言われる[1]。