「南方科学委員会」の版間の差分
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2017年9月9日 (土) 22:34時点における版
南方科学委員会(なんぽうかがくいいんかい)は、1943年に、南方軍軍政総監部調査部の提言によって設置された、日本軍の南方占領地域における各種調査・研究機関を統轄する委員会。各機関の研究内容を、戦争遂行のために必要な研究が優先的に効率よく行なわれ、研究成果が軍事的に活用されるように調整しようとした。1943年11月27日に第1回会合が開催されたが、戦況の悪化により、活動にはそれ以上の展開は見られなかったという。[1]
設置の提言
1943年2月23日に、同年1月に南方軍軍政総監部に設置された調査部(部長・赤松要東京商科大学経済学部教授)は、南方占領地域の各調査・研究機関に日本から司政官・技師が派遣されて要員が揃ったことから[2]、昭南博物館の付属研究室として南方民族研究室の設置を提言、研究室を母体として南方科学委員会を組織し、同委員会によって南方各地に設置された各種調査・研究機関の研究内容を、戦争遂行のために必要な研究が優先的に、効率よく行なわれ、研究成果が軍事的に活用されるように調整しようとした[3]。
このとき昭南博物館長だった徳川義親は、調査部から委員会の運営について相談を受け、調整機関の恒久的設置と、定期刊行物の発行を提言した[4]。
設置の打合せ会
1943年7月19日に、昭南博物館で「南方学術機関に関する打合せ会」が開催され、「研究所間の連絡不足や研究の重複を避ける」方針、「戦時下の調査として必須なるものから着手」する方針が確認された[5]。
研究機関は、便宜的に「基礎的研究を主とするもの(生物、民族、地学、文化方面)」と応用的調査研究を主とするもの(衛生、産業方面)」に大別された[6]。
出席者は、
- 調査部:赤松部長、河合諄太郎、石田龍次郎ら
- 昭南博物館:徳川館長、郡場寛、羽根田弥太ら
- ジャワ、スマトラ、北ボルネオ、フィリピンの各研究機関の主任
- 南方総軍総参謀長・清水規矩中将以下、参謀部(兵要地誌班)、経理部、軍医部、獣医部の関係将校
だった[7]。
調査項目・組織編成の決定
脚注
参考文献
- 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- シンガポール市政会(1986) シンガポール市政会(編)『昭南特別市史−戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986年8月、全国書誌番号:87031898。