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2017年8月22日 (火) 23:43時点における版
木谷 実(きたに みのる、1909年1月25日 - 1975年12月19日)は、昭和を代表する囲碁棋士。タイトル数は4。紫綬褒章受章。従四位勲二等瑞宝章。日本棋院囲碁殿堂入り。
経歴
1909年(明治42年)1月25日兵庫県神戸市水木通に生れる[1]。父親は理髪業を営み、實は第一子である。小さい頃から知人に将棋と囲碁を習い、8歳の頃、鳥居鍋次郎、鴻原正広、久保松勝喜代に師事した。大正7年、故久保松勝喜代八段に入門し。久保松の紹介で東京のトップ棋士鈴木為次郎名誉九段に弟子入りするため、高等小学校を中退して、1921年(大正10年)に12歳で上京する。 1924年(大正13年)2月15日付入段する。1926年春、日本棋院定式手合で二段に昇段。同年夏、推薦により三段に進む。 1927年には毎日新聞主宰の新進打切碁戦で十人抜きを達成した。 [[1930年2月15日、五段に昇進。 1931年10月10日に柴野美春(1910.3.16-1991.6.3)と結婚し、麹町に新所帯を構える。柴野美春は長野県地獄谷の出身で、1929年に坂口常次郎五段がたまたま木谷を伴って休暇に訪れ、その時に知り合った。 1934年(昭和9年)、呉清源(当時五段)との第一次十番碁を開始。三勝三敗となり、第六局で木谷昇段のため打ち切りとなる。 1938年本因坊秀哉の引退に際し「本因坊名人引退碁」の相手に選ばれた。持ち時間が40時間という長丁場で、6月26日に開始し、打ち継ぎ15回を経て、12月4日に終局した。結果は木谷の先番五目勝に終わる。この対局の模様は川端康成が観戦記に執筆し、それをもとに小説『名人』を執筆した。 1939年6月、「木谷・呉清源十番碁」第二次(が開始される。木谷の4勝6敗(1941年(昭和16年)まで)。 1942年9月1日に呉清源とともに八段に昇進した。 1947年(昭和22年)、岩本薫和本因坊に挑戦するが、2-3で敗退した。 1953年(昭和28年)、高川秀格本因坊(高川格)に挑戦するが、4-2で敗退した。 1954年(昭和29年)、脳溢血で倒れ、二年間療養に入った。 1956年12月、第二期最高位戦リーグで前田陳繭八段を破り、九段に昇進した。 1957年、第2期最高位戦で坂田栄男最高位を3-1で破りタイトルを奪取した。 1958年、第3期最高位戦で島村俊廣八段を3-2で破りタイトル防衛した。 1959年(昭和34年)、高川秀格本因坊に挑戦するが、4-2で敗退した。 1960年、第7回NHK杯で優勝。 1961年、第8回NHK杯準優勝。 1965年、紫綬褒章受章。1965年から1969年にかけて日本棋院理事となる。 1974年(昭和49年)、3月木谷道場閉鎖。 1975年(昭和50年)、12月19日心不全のため平塚の自宅で死去した。12月28日、日本棋院葬。 1976年、従四位勲二等瑞宝章(没後受章)。
棋風
- 低段の頃は戦闘的な棋風で「怪童丸」と呼ばれた[2]
- 昭和8年に呉清源と新布石法を発表し、位の高い碁に変わった[3]。
- 1936年ごろからは実利を重んじる棋風となり、先に地を稼いで相手に大模様を張らせて突入する戦法を採用している。
- 本因坊に3度挑戦したがいずれも敗れ、悲劇の棋士と呼ばれる。
木谷道場
自宅を木谷道場とし内弟子をとり多くの棋士を育てた。ピーク時には内弟子は30人を越えていた[4]。1985年から1998年まで三大タイトル、1985年から1988年まで七大タイトルを木谷一門で独占していた。70名以上が弟子入りし50名以上がプロ棋士となった。
門下生
門下に 戸沢昭宣九段、大竹英雄名誉碁聖、岩田達明九段、故大平修三九段、故加藤正夫名誉王座、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫)、武宮正樹九段、小林光一名誉棋聖、趙治勲名誉名人、小林覚九段、梶和為九段、石榑郁郎九段、佐藤昌晴九段、宮沢吾朗九段、故上村邦夫九段、本田幸子七段、小林健二七段、小川誠子六段、小林千寿六段、故筒井勝美四段ほか多数。
参考文献