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イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者である。尊敬する政治家は、同党の創設者・[[メナヘム・ベギン]]元[[イスラエルの首相|首相]]と[[イギリス|英国]]の[[マーガレット・サッチャー]]元[[イギリスの首相|首相]]である。また、急進的な[[新自由主義|新自由主義者]]でもある。 | イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者である。尊敬する政治家は、同党の創設者・[[メナヘム・ベギン]]元[[イスラエルの首相|首相]]と[[イギリス|英国]]の[[マーガレット・サッチャー]]元[[イギリスの首相|首相]]である。また、急進的な[[新自由主義|新自由主義者]]でもある。 |
2020年1月8日 (水) 04:22時点における版
'''ベンヤミン・ネタニヤフ'''('''בנימין נתניהו''', '''Benjamin Netanyahu''', またはBinyamin, '''ネタニヤウ'''、若しくは'''ナタニヤウ'''の方がより原音に近い、[[1949年]][[10月21日]] - )は、[[イスラエル]]の軍人、政治家。現在、同国首相(13・17代)。外相(17代)、財務相(18・20・24代)を歴任。2005年12月より右派政党[[リクード]]の党首に再登板。 イスラエル建国後に生まれた最初の首相経験者である。尊敬する政治家は、同党の創設者・[[メナヘム・ベギン]]元[[イスラエルの首相|首相]]と[[イギリス|英国]]の[[マーガレット・サッチャー]]元[[イギリスの首相|首相]]である。また、急進的な[[新自由主義|新自由主義者]]でもある。 イスラエル国内や海外でのユダヤ人たちの間などでは「ビビ」の[[愛称]]で呼ばれている。若い頃には、'''ベン・ニタイ'''('''Ben Nitay''','''בן ניתאי''')という名でメディアに登場したことがある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=hrvK01XAvF8 israel PM Benjamin Netanyahu 28 years old]YouTube</ref>。 == 家族および個人の背景 == ベン=シオン・ネタニヤフとジラ・ネタニヤフ夫妻の次男としてイスラエルで生まれた。父親の[[w:Benzion Netanyahu |ベン=シオン]]は[[ロシア]][[姓]]をミリコウスキー(Milikowsky)といい、旧ロシア帝国ポーランド領ワルシャワで生まれた。彼の父(ベンヤミン・ネタニヤフの祖父)は、シオニスト運動家のネイサン・ミリコウスキーで、一家は1920年パレスチナへ移住し、エルサレムに入植した。ベン=シオンもまた父の思想を受け継いだシオニスト運動家で、ユダヤ史の教授およびヘブライ・エンサイクロペディアの編集者であり、それが息子たちの思想に大きく影響している。兄の[[ヨナタン・ネタニヤフ]]は1976年の[[エンテベ空港奇襲作戦]]で戦死したイスラエルの英雄。弟の[[イド・ネタニヤフ]]は放射線技師および作家。兄弟は三人とも[[イスラエル国防軍]]のエリート部隊、「[[サイェレット・マトカル]]」に所属した。 ネタニヤフは家族と共に1956年から1958年、1963年から1967年にかけてアメリカに在住。[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の郊外で成長し、チェルテナム高校を卒業した(兄も同高校を卒業している)。高校では[[ディベート]]クラブに所属していた(そのため英語に堪能であり、言葉にはフィラデルフィア訛りがあるという)。 高校卒業後にイスラエル国防軍に入隊し、上記のとおりサイェレット・マトカルに所属。1967年から1973年にかけて様々な軍務([[第三次中東戦争]]、消耗戦争、[[サベナ航空572便ハイジャック事件]]の解決)に従事。1972年には肩を撃たれて負傷している。[[第四次中東戦争]]では部隊を率いてシリア領内に侵入した。1973年に除隊(最終階級は大尉)。 除隊後はアメリカに戻り、[[マサチューセッツ工科大学]]の理工学位と[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]スローン経営大学院の学位を取得、[[ハーバード大学]]とMITで政治学を学んだ。三度結婚しており、最初の結婚で娘のノアをもうけた。現在は、客室乗務員だった三番目の妻サラと共に暮らし、ヤイール、アヴナー<ref>[http://www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/135838 Jewish Pride: Prime Minister's Son Wins Bible Contest] Arutz・7,2010年2月2日</ref>の2人の息子がいる。ヤイールは現在、軍務に就いている<ref>[http://www.haaretz.com/hasen/spages/1101797.html Netanyahu's son joins IDF - with bodyguard in tow] HAARETZ,2009年7月21日</ref>。 MITを優秀な成績で卒業後、1976年から1978年にかけて[[ボストン・コンサルティング・グループ]]で[[経営コンサルタント]]として勤務し(当時の同僚に後のマサチューセッツ州知事となる[[ミット・ロムニー]]がいた)、イスラエルに帰国。 == 政界入り == 政治の世界に身を投じたきっかけは、後に[[国防相]]、[[外相]]をつとめることになる政界の大御所・[[モーシェ・アレンス]]の勧めによるものである。[[1982年]]には、当時駐米大使をつとめていたアレンスの下で勤務。[[1984年]]から[[1988年]]までは、同国の[[国連大使]]を務める。同年にはリクードから総選挙に出馬し国会議員に初当選を果たす。[[イツハク・シャミル|イツハーク・シャミール]]政権下で外務次官をつとめ、[[1991年]]、[[サッダーム・フセイン]]体制下にあった当時のイラク軍の[[クウェート]]侵攻に端を発する[[湾岸戦争]]の際、外務次官という立場でありながら事実上のスポークスマンとして自国の大義を力説。それも、米国人と寸分違わぬ英語での話術は脚光を浴び、政界のホープとして嘱望され始める。 転機となったのは、翌・[[1992年]]の総選挙である。カリスマ的な人気を誇った[[イツハーク・ラビン]]率いる[[イスラエル労働党|労働党]]の前に、シャミール政権は大敗し野に下る。大敗したリクードの再建の為、ネタニヤフは同年の党首選に出馬、当選2回でありながら、[[ベニー・ベギン]]や[[ダビッド・レビ]]、[[モシェ・カツァブ|モーシェ・カッツァーブ]]を破り、政権奪回に必勝を期すこととなった。 == 首相職 == ネタニヤフは[[パレスティナ]]過激派のイスラエルに対する自爆攻撃が多発した[[1996年]][[7月]]に首相に選出された。[[シモン・ペレス]]はパレスティナ過激派の自爆攻撃を鎮めることができず、公の信頼は急速に低下していた。1996年3月3日、4日のパレスティナによる二度の自爆攻撃では32人のイスラエル人が死亡した。この攻撃がきっかけとなり、ペレスは[[テロリズム]]に対する無策が批判され結局選挙で敗北することとなる。ペレスと異なりネタニヤフは[[ヤーセル・アラファート]]の好意を信頼せず、和平プロセスは[[パレスチナ自治政府]]の義務であるとし、自国に対するあらゆる攻撃に対抗する姿勢を示した。 首相として彼はヤーセル・アラファートと交渉し、ワイ合意を成立させた。しかし多数の者がネタニヤフはパレスティナ自治政府との合意を遅らせようとしていると非難した。ネタニヤフの和平交渉へのアプローチは強者としてのイスラエルをパレスティナ側に押しつけるものであった。 :"彼らが与えるならば - 彼らは得ることができる。彼らが与えない場合 - 彼らの得る物は無い。" :"יתנו - יקבלו. לא יתנו - לא יקבלו" このアプローチはうまくいくように思われた。前任者ペレスや後任者バラクと異なり、ネタニヤフの在任期間はパレスチナの自爆攻撃は少なく比較的平静であった。1996年にネタニヤフと[[エルサレム]]市長[[エフード・オルメルト]]は[[嘆きの壁]]のトンネルに出口を開くことを決定した。この決定はパレスチナ人による三日間の暴動の口火となり、百人以上のパレスティナ人がイスラエル側によって殺害された。 対テロリズム政策の成功にもかかわらず、ネタニヤフは多くのエリートに嫌われ、メディアからは左翼と同一視された。一連のスキャンダル(彼の妻のゴシップを含む、97年には当時最側近だった[[ツァヒ・ハネグビ]]法相に贈収賄疑惑が浮上するものの、最高検は嫌疑不十分で立件を断念している)と汚職に関する調査の後、ネタニヤフはイスラエルの大衆の支持を失った。 1999年の総選挙で[[エフード・バラック]]に敗北した後、ネタニヤフは、一時的に政治から身を引いた。 == 2000年以降の政治活動 == 汚職事件から身をかわすため、ネタニヤフは政治の世界から一時身を引き、議員の職も同時に辞していたが、2000年9月27日、イスラエル最高検が、ネタニヤフ夫妻の立件を証拠不十分で断念する。 これを受けネタニヤフは、既に死に体となっていたバラク政権倒閣・復権に乗り出そうとするが、既に[[リクード]]党首の地位にあった[[アリエル・シャロン]]の方が役者が一枚上手で、翌日9月28日[[岩のドーム|神殿の丘]]訪問でリクードの末端党員・右派陣営の心を完全に掌握してしまう。進退窮まったバラクは首相職を辞任・再選挙に打って出るが、議員の職にないネタニヤフは出馬を封じられ、選挙はシャロンの圧倒的勝利に終わる。 その後、首相の椅子をつかんだシャロンとネタニヤフの関係は抜き差しならない状態となり、2002年5月にネタニヤフの傘下にある[[リクード・中央委員会]]がパレスチナ国家反対決議を行うと、両者の溝は決定的になる。 2002年10月[[イスラエル労働党]]が政権を離脱、解散・総選挙の実施が決まり、リクード党首選が前倒しとなると、持論である「アラファト議長追放」「パレスチナ国家断固反対」掲げ、シャロンと激突する。 2002年11月の党首選でシャロンがネタニヤフに圧勝すると、対立劇はいったん収束する。 2003年1月の総選挙でリクードが勝利すると、ネタニヤフは外相から財務相に降格される。 2004年2月、シャロンが[[ガザ]]からの全面撤退を掲げた[[ガザ地区等撤退|一方的ガザ地区撤退計画]]を発表すると、両者の対立が再燃する。シャロンは末端党員の支持を受けた上で計画の実現を画策するが、2004年5月に行われたリクードの党員投票では20ポイントもの差をつけられ撤退計画は拒否される。ネタニヤフは当然反対の意を示し、シャロンの腹心だった[[リモール・リブナット]]教育相もこれを境にシャロンから離反してしまう。撤退計画は、シャロンとネタニヤフの権力闘争という意味合いだけではなく、党内の強硬派と穏健派の対立、党是であった[[大イスラエル|大イスラエル主義]](「[[約束の地]]」の範囲を元々イスラエルのものと捉える思想)の是非と言った、古くて新しい問題を顕在化させてしまったのである。 党員投票で敗れたシャロンは、これを機にリクードへの不信感を募らせ、このことが翌年の集団離党・[[カディマ党|カディーマ]]結党へつながっていくのである。一方的ガザ地区撤退計画は党員投票では否決されたものの、2004年10月、労働党の支持を得て国会で何とか通過させる。その際もリクードの40人の議員の内17人が造反。党は完全に分裂状態となる。 [[2005年]][[8月7日]]、撤退計画の最終閣議決定の直前に、ネタニヤフは「[[ガザ]]を[[テロリスト]]の前線基地にする愚挙」として財務相を抗議の辞任、[[8月30日]]には本格的に倒閣運動に乗り出す。 しかし、これも同年[[11月21日]]にシャロンらが集団離党する形で計画は頓挫する。ネタニヤフの決断が遅すぎたことと、シャロン以上に右寄りの政策(倒閣運動の翌日には、[[マアレ・アドゥミーム]]を訪問し、入植地拡大を明言している)を打ち出さなければならなかったことも、彼には不利に働いた。 <ref>[http://www.haaretzdaily.com/hasen/pages/ShArt.jhtml?itemNo=162720&contrassID=1&subContrassID=0&sbSubContrassID=0]</ref> 財務相として、ネタニヤフはアル・アクサ・[[インティファーダ]]の間にイスラエル経済回復のため大胆な計画経済を試みた。それは多数の論争の的となったが、計画はより多くの自由主義市場への動きを含んでいた。 == リクード党首に再登板 == 2005年11月、シャロンやオルメルトが集団離党し、カディーマの結成に動くと、不在になった党首の座をめぐり、党首選が前倒しとなる。翌月・12月19日、ネタニヤフは47%の支持を得て党首に返り咲く。しかし、シャロンらの離党・カディーマの結成で中道票をこぞって奪われ、自身が掲げる[[サッチャリズム|サッチャー流]]の経済政策は、格差拡大を助長させると集中砲火を浴びる。2006年3月28日に行われた総選挙では、リクードは歴史的惨敗を喫する。わずか12議席に落ち込み、第4勢力にまで後退することとなった。そのため、[[リモール・リブナット|リモール・リブナット元教育相]]などからは党首辞任を要求する声が出たが、大勢にはならず、ネタニヤフはその地位にとどまり、反撃の機会を窺っている。リクードの分裂は、党の弱体化を招いたものの、ネタニヤフの側近や党内強硬派は力を温存する純化路線を一方でもたらした。ただ、選挙後の支持率は挽回傾向にあり、2006年8月に行われた世論調査ではオルメルト首相を抑え、次期首相候補のトップに立った。これは、オルメルト政権による[[レバノン侵攻 (2006年)|レバノン侵攻]]の失敗と、そのレバノン侵攻の際、ネタニヤフは一切政局にすることなく黙々と政権支持を貫いたこと。このことに国民が好感を持ったためである。ガザ地区撤退計画の際のシャロンへの執拗な[[糾弾]]がたびたび非難を浴びていたため、ネタニヤフもそれを意識していたものと思われる。2007年1月に地元紙が行った世論調査によるとネタニヤフが率いる[[リクード]]は現在選挙が行われれば、29議席を獲得し、第1党になるとの結果が出た。一方の[[エフード・オルメルト|オルメルト首相]]の[[カディマ党|カディーマ]]はわずか12議席との予測が出ており、現在はリクードが12,カディーマが29の議席をそれぞれ得ているので、オルメルト政権は発足後1年もたたないうちに逆転を許したことになる。[[2007年]][[11月]]の世論調査でもリクードの支持は落ちていない。 また、ここ数年脅威が高まる[[イラン]]の[[核武装]]については、極めて強硬な立場で、[[メナヘム・ベギン]]元[[イスラエルの首相|首相]]が[[1981年]]に[[イラク]]のオシラク原子炉爆撃を断行した[[イラク原子炉爆撃事件|バビロン作戦]]を引き合いに出し、[[イスファハーン]]など核関連施設への先制攻撃も辞さない考えを示している。 中東和平については、オルメルト政権が主張する[[ヨルダン川西岸]]入植地解体、[[シリア]]との和平交渉及びそれに伴う[[ゴラン高原]]返還、[[エルサレム]]東西分割案に、いずれも「イスラエルを危険に晒す」として反対の姿勢を貫いている。 [[2007年]][[8月14日]]に行われた[[リクード]]の前倒し党首選で、73%の得票で再選される。 [[2007年]][[9月19日]]地元テレビのインタビューで同月6日のイスラエル空軍による[[シリア]]への限定空爆を暴露。オルメルト首相に支持する旨を伝えていたことを明らかにした。空爆施設は、シリアが[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の協力の下、核開発を進めていた疑いがもたれている。 [[2008年]][[1月10日]]、イスラエルを訪問した[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・ブッシュ]][[大統領]]会談し、[[イラン]]の軍事的脅威に対する意見交換を行った。 == 復権・首相再登板へ == [[2009年]][[2月10日]]に実施された、総選挙では[[カディマ党|カディーマ]]に第1党を譲ったものの、73万票弱を獲得、12議席から27議席へと大きく勢力を倍増させた。同選挙では、従来からの主張である[[イラン]]の核武装阻止、[[ガザ紛争 (2008年-2009年)|ガザ紛争]]後も[[ハマース]]に対する攻勢強化を訴え人心を掴んだ。選挙戦の際にはゴラン高原を訪問、現地で植樹を行い入植地拡大を約束している<ref>[http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-3642569,00.html Netanyahu: Likud will keep Golan Heights]</ref>。また、同選挙ではかつて政策的に激しく対立していた[[ベニー・ベギン]]元科学相<ref>[http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=10kSxU19IGI Begin Back in Likud]</ref>、[[ダン・メリドール]]元財務相と関係を修復するとともに、国民的人気の高い[[モーシェ・ヤアロン]]元参謀総長を[[三顧の礼]]で迎えた(3氏ともリクード公認・当選を果たしている)。同選挙では、政策的に近い右派・宗教政党が大きく躍進したことから、同諸政党が何れもネタニヤフを首相として推挙。同月19日にはこれまで態度を明らかにしていなかった[[イスラエル我が家]]がネタニヤフ支持を鮮明にしたことから、翌・20日に[[シモン・ペレス]][[イスラエルの大統領|大統領]]がネタニヤフを首班とした組閣を要請。ネタニヤフ自身は、右派・宗教政党主体では政局運営が困難なことからカディーマを加えた[[大連立]]を模索しており、同月22日・28日に党首会談を行うも決裂。カディーマとの大連立は半ば断念するものの、[[イスラエル労働党|労働党]]との連立交渉は進んでおり、政権発足は3月中旬になると見られていたが、労働党内で反発が強く労働党との交渉は難航。3月15日には[[イスラエル我が家]]と政策合意、党首の[[アヴィグドール・リーベルマン]]の外相就任が確認された。同月23日には宗教政党・[[シャス]]と政策合意を果たした<ref>[http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-3690564,00.html Likud, Shas strike coalition deal]</ref>。31日には右派連立内閣が発足、ネタニヤフは10年振りに首相の座に返り咲く事になった。 == 首相職(第2次) == 労働党、シャスなど6党から成るネタニヤフ政権は、同年6月14日、対パレスチナ政策で微修正の動きを見せた。同日、ネタニヤフは[[テル・アヴィヴ]]の[[バル=イラン大学]]での演説で、限定的なパレスチナ国家容認に言及<ref>[http://fr.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1244371095741&pagename=JPost/JPArticle/ShowFull Netanyahu wants demilitarized PA state]</ref>。具体的には、同国家は非武装で、制空権を有しないこと。エルサレムの分割は行わないこと、既存入植地は今後も拡大を続ける。[[第一次中東戦争]]で難民となったパレスチナ人の帰還権(帰還権に関してはアラブ系と共産党を除く左右両派とも反対である)は認めないことなどがその柱である<ref>[http://fr.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1244371096849&pagename=JPost/JPArticle/ShowFull Full text of Binyamin Netanyahu's Bar Ilan speech]</ref>。これらの政策修正はシャロン政権の前半に近いといえる。また、新中東和平案発表後の調査では71%が同案を評価、支持率も44%に急回復した<ref>[http://www.haaretz.com/hasen/spages/1093234.html Haaretz poll: Netanyahu approval rating leaps after policy speech]</ref>。また、同年11月17日には[[東エルサレム]]のギロに900戸の新規入植地建設を承認しエルサレム市がそれを執行することになった。一方、同月25日にはその相殺案として[[ヨルダン川西岸地区|ヨルダン川西岸]](ユダヤ・サマリア地区)への新規入植を10ヶ月間凍結する案(ただし、着工済の住宅建設については除外)を発表した<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/8378871.stm Israeli PM in settlements building peace offer]</ref>。暫定凍結案については労働党やベニー・ベギン無任所相らが一定の理解を示す一方<ref>[http://www.israelnationalnews.com/News/Flash.aspx/175373 Begin Promises Building at the End of 10 Months]</ref>、党内の強硬派や<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=G5pq_QJpSEo Likud MKs, Judea and Samaria councilmen blast PM's annoucement.flv]</ref>入植者組合などからは激しい反発の声が上がっている<ref>[http://fr.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1259243041134&pagename=JPost/JPArticle/ShowFull Settlers: We won't let inspectors in]</ref>。しかしながら、凍結期限となった翌年9月26日以降は、凍結延長は行わず入植再開を粛々と断行した><ref>[http://mainichi.jp/select/world/news/20100927k0000m030101000c.html イスラエル:入植凍結の期限最終日、延長は不透明] 毎日新聞,2010年9月26日</ref>。また、翌・12月には、政局運営を円滑にするため、一度は決裂した[[カディマ党|カディーマ]]との[[大連立]]協議を行った<ref>[http://www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/135190 Netanyahu Offers Unity Gov't to Kadima]</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=2hmIZVdLmes Press TV Netanyahu Invites Tzipi Livni To Join Israeli Government]</ref>が、交渉は物別れに終わっている。翌・2010年1月20日には、パレスチナ人国家が樹立した後も、国防軍が引き続き治安維持の観点から駐留を継続する考えを示す<ref>[http://www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/135632 Netanyahu: Israel Must Surround PA Entity] Arutz7,2010年1月21日</ref><ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/8471580.stm Netanyahu demands future Israeli presence in West Bank] BBC・NEWS,2010年1月21日</ref>。ネタニヤフは前述の新和平案の中でもパレスチナ国家はあくまで非武装であることを前提条件としており、これはほとんどのパレスティナ人に受け入れられるものではなかった。2010年11月22日には、リクード有志議員が国会に提出していた、東エルサレム及びゴラン高原からの撤退(西岸は対象外)が行われる際には国民投票を義務付ける法案(国会で3分の2の賛成議決があれば実施されない)を、賛成65、反対33、棄権22の賛成多数で可決させパレスチナ側を牽制している<ref>[http://www.jpost.com/Israel/Article.aspx?id=196373 Knesset passes J'lem-Golan National Referendum Law]The Jerusalem Post,2010年11月22日</ref>。2012年11月29日、国連総会がパレスチナのオブザーバーとしての資格を「組織」から「ノンメンバー国家」に格上げする決議案を賛成多数で採択したしたことに反発し、ヨルダン西岸と東エルサレムでユダヤ人入植者向け住宅3000戸を建設する計画を発表<ref>[http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE8B202Q20121203 イスラエルが入植拡大に強硬姿勢、パレスチナへの税送金も凍結]ロイター 2012年12月3日</ref>。 === ガザ支援船拿捕 === [[2010年]][[5月31日]]に発生した、[[トルコ]]から[[ガザ地区]]へ人道支援のため向かっていた客船をイスラエル軍が拿捕し、トルコ人の人道支援活動家9人を殺害、乗船していた数十人の人道支援活動家を負傷させた事件に関しては、「正当防衛」であり「ハマース」支援のための船舶であったから攻撃したと弁明した。この事件は国際社会、ならびに人権活動家らから大きな非難を浴びたが、ネタニヤフは「我々は決して謝罪しない」と強硬姿勢を貫いた。しかし、この姿勢にトルコは憤慨し、7月に入って、「イスラエルはトルコに謝罪せよ。謝罪をしないならば国際調査を受け入れよ。両方とも拒否するならば、イスラエルとの国交を断つ」という姿勢を見せて、イスラエル・トルコ間の緊張が高まった。同年6月13日にイスラエル国内に設置された調査委員会(オブザーバーとして[[デヴィッド・トリンブル|デービッド・トリンブル]]元北アイルランド主席閣僚も参加)は、調査の結果2011年1月23日に報告書を公表し支援船の急襲・拿捕は合法であり、ガザに対する軍の封鎖措置も合法であると結論付けた<ref>[http://www.israelnationalnews.com/News/News.aspx/141886 Turkel Panel Unanimously Clears IDF in Flotilla Clash ] Arutz7,2011年1月23日</ref>。しかし、これはイスラエル人7人の識者によって構成された委員会であり、たんに政府の行動を正当化しただけの調査報告ともいえる。 === マスコミによる批判 === [[2010年]][[12月26日]]付のイスラエル紙「[[ハアレツ]]」は、社説で「ネタニヤフは右翼と[[カハネ主義]]者を勇気付けている」と題し、ネタニヤフが[[エリトリア]]や[[スーダン]]などから戦火や抑圧、貧困から逃れるためにイスラエルにやって来た不法移民たちを「市民を脅かし、イスラエルの雇用を脅かし、ユダヤ人民主国家を脅かしている洪水である」と発言したことについて、「カハネ主義者や右翼の[[ラビ]]といった人種差別主義者たちによる攻撃の格好の標的を作った」と書き、ネタニヤフを厳しく批判した。 === 民衆による批判 === [[2011年]]7月に、住宅価格や物価の高騰、激しい[[貧富の差]]などに抗議する大規模なデモがイスラエル国内で行われるようになり、ネタニヤフはイスラエル国民からこれまでにない激しい批判にさらされている。 === アメリカ合衆国議会合同会議の演説 === [[2015年]]3月3日、[[アメリカ合衆国議会合同会議]]で39分間にわたる演説をした。オバマを攻撃した。 == 首相職(第3次)== 2015年5月6日、3月のクネセト総選挙の結果に基づいて組閣が行われた。しかし、[[アヴィグドール・リーベルマン]]率いる世俗系極右「[[イスラエル我が家]]」が、閣僚ポストなどをめぐる対立から連立政権への参加を見送ったため、辛うじて議席の過半数を占めるにとどまっており、かつてのように安定した政権運営はできないという見方が現地メディアを中心に広がっている。また、アメリカとの関係改善も進まないと見られている<ref>[http://www.sankei.com/world/news/150507/wor1505070044-n1.html イスラエル国会選挙 ネタニヤフ氏、薄氷の連立成立 右派・極右中心政権]産経新聞 2015年5月7日</ref>。 == その他 == * [[2011年]][[9月23日]]前後に端を発した[[パレスチナ自治政府]]の[[国際連合]]加盟問題をめぐって、一連の顛末を「愚か者の劇場」などと非難した<ref>2011年9月24日 [[しんぶん赤旗]]</ref>。また、[[ラマッラー]]に置かれた[[マフムード・アッバース]]パレスチナ[[パレスチナの大統領|大統領]]の国連演説を中継するために置かれた大型スクリーンに演説のためにネタニヤフが登場すると、[[パレスチナ人]]たちからスクリーンに向かって一斉に[[靴]]を投げつけられた(靴を投げつける行為は[[イスラーム]]文化圏では相手への最大の侮辱行為である。[[ムンタゼル・アル=ザイディ]]も参照)。 * [[1997年]][[8月]]と[[2014年]][[5月]]に来日している。 * [[葉巻]]を好んで吸っている。 * [[2014年]]6月29日、[[クルディスタン地域]]の独立国を後押しする意向を表明した。 == 著書 == * [http://myrtos.shop-pro.jp/?pid=9107149 『テロリズムとはこう戦え』ビニヤミン・ネタニヤフ〔著〕高城恭子〔訳〕落合信彦〔監修〕(ミルトス、1997年)]ISBN 4-89586-131-7 * 恒久的平和:イスラエルおよび国家 - ''A Durable Peace: Israel and Its Place Among the Nations''(ワーナー・ブックス、2000年)ISBN 0-446-52306-2 * テロリズムとの戦い:民主主義国家はどのようにして国内および国際テロを打ち破ることができるか - ''Fighting Terrorism: How Democracies Can Defeat Domestic And International Terrorism''(ダイアン・パブ社、1995年)ISBN 0-7881-5514-8 * 国家の場所 - ''A Place Among the Nations''(バンタム、1993年)ISBN 0-553-08974-9 * テロリズム:西洋はどのように勝ち取ることができるか - ''Terrorism: How the West Can Win''(ファラー・シュトラウス・アンド・ジロクス、1986年)ISBN 0-374-27342-1 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> ==関連項目== *[[日本外国特派員協会]] == 外部リンク == {{commonscat|Benyamin Netanyahu}} * Website of supporters of Benjamin Netanyahu: [http://www.netanyahu.org/index.html ヘブライ語] [http://dinafisher.com/netanyahu/ 英語] * [http://news.bbc.co.uk/olmedia/1630000/video/_1631740_mideast_netanyahu06_vi.ram Benjamin Netanyahu on the definition of terror] (BBC)(5 min.) {{イスラエルの首相}} {{DEFAULTSORT:ねたにやふ へんやみん}} [[Category:イスラエルの首相]] [[Category:イスラエルの政治家]] [[Category:イスラエルの軍人]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:経営コンサルタント]] [[Category:国連大使]] [[Category:テルアビブ出身の人物]]