「日本社会主義同盟」の版間の差分
提供: Yourpedia
(石堂1986により修正) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
− | '''日本社会主義同盟'''(にほんしゃかいしゅぎどうめい)とは、[[1920年]]([[大正]] | + | '''日本社会主義同盟'''(にほんしゃかいしゅぎどうめい)とは、[[1920年]]([[大正]]9年)9月に結成された、日本における[[社会主義|社会主義者]]の統一組織{{Sfn|石堂|1986|p=29}}。翌年5月に解散{{Sfn|石堂|1986|p=29}}。 |
− | == | + | ==沿革== |
− | + | 日本では1907年の[[日本社会党 (1906年)|日本社会党]]の結党禁止以後、[[1910年]]の[[大逆事件]]を経て、社会主義運動がほぼ壊滅した「'''[[冬の時代]]'''」を迎えていた。 | |
+ | |||
+ | しかし[[第一次世界大戦]](1914年-1918年)、[[ロシア革命]]の勃発(1917年)などで政府の社会主義取り締まりが緩和すると、日本の社会主義者は大同団結を目的として結集し、運動の再建をめざすことになった。 | ||
+ | |||
+ | そこで1920年8月ないし9月{{Sfn|石堂|1986|p=29}}に、[[山川均]]を中心にして、[[友愛会]]・[[信友会]]などの各種[[労働組合]]や学生団体、社会運動家らの思想団体を網羅した統一組織として「日本社会主義同盟」が結成され、12月の創立大会には申込者が1000人を超えた。 | ||
+ | |||
+ | しかし、政府の激しい弾圧を受けて、被検挙者が増え、1921年(大正10年)5月{{Sfn|石堂|1986|p=29}}、第2回大会開会の後に結社禁止の処分をうけて解散した。 | ||
+ | |||
+ | ==機関誌== | ||
+ | 『社会主義』(のち『新社会評論』を改題)を機関誌とした。 | ||
==影響== | ==影響== | ||
この同盟は単一の政治党派を結成するには至らず、同盟内左派の[[堺利彦]]は、[[1922年]]に[[日本共産党]]([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])を結成。合法性の維持を目指す非共産系も単一の[[政党]]結成には至らず、[[1925年]]に右派の[[社会民衆党]]と、中間派の[[労働農民党]]に分かれた。 | この同盟は単一の政治党派を結成するには至らず、同盟内左派の[[堺利彦]]は、[[1922年]]に[[日本共産党]]([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])を結成。合法性の維持を目指す非共産系も単一の[[政党]]結成には至らず、[[1925年]]に右派の[[社会民衆党]]と、中間派の[[労働農民党]]に分かれた。 | ||
− | {{ | + | ==評価== |
+ | 活動期間は短く、また有力な活動もなかったが、社会主義者が大同団結したことに意義が与えられている。 | ||
+ | |||
+ | ==付録== | ||
+ | ===脚注=== | ||
+ | {{Reflist|20em}} | ||
+ | |||
+ | ===参考文献=== | ||
+ | *{{Aya|石堂|year=1986}} 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749 | ||
+ | |||
+ | {{デフォルトソート:にほんしやかいしゆきとうめい}} | ||
+ | [[Category:1920年設立]] | ||
+ | [[Category:1921年解散]] | ||
[[Category:大正時代の政治団体]] | [[Category:大正時代の政治団体]] | ||
+ | [[Category:日本の社会主義]] | ||
[[Category:日本の戦前の左翼団体]] | [[Category:日本の戦前の左翼団体]] |
2021年9月1日 (水) 00:05時点における最新版
日本社会主義同盟(にほんしゃかいしゅぎどうめい)とは、1920年(大正9年)9月に結成された、日本における社会主義者の統一組織[1]。翌年5月に解散[1]。
沿革[編集]
日本では1907年の日本社会党の結党禁止以後、1910年の大逆事件を経て、社会主義運動がほぼ壊滅した「冬の時代」を迎えていた。
しかし第一次世界大戦(1914年-1918年)、ロシア革命の勃発(1917年)などで政府の社会主義取り締まりが緩和すると、日本の社会主義者は大同団結を目的として結集し、運動の再建をめざすことになった。
そこで1920年8月ないし9月[1]に、山川均を中心にして、友愛会・信友会などの各種労働組合や学生団体、社会運動家らの思想団体を網羅した統一組織として「日本社会主義同盟」が結成され、12月の創立大会には申込者が1000人を超えた。
しかし、政府の激しい弾圧を受けて、被検挙者が増え、1921年(大正10年)5月[1]、第2回大会開会の後に結社禁止の処分をうけて解散した。
機関誌[編集]
『社会主義』(のち『新社会評論』を改題)を機関誌とした。
影響[編集]
この同盟は単一の政治党派を結成するには至らず、同盟内左派の堺利彦は、1922年に日本共産党(第一次共産党)を結成。合法性の維持を目指す非共産系も単一の政党結成には至らず、1925年に右派の社会民衆党と、中間派の労働農民党に分かれた。
評価[編集]
活動期間は短く、また有力な活動もなかったが、社会主義者が大同団結したことに意義が与えられている。
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 石堂 (1986) 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749