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{{Otheruses|元TOP-Jリーダーの井上勇|翻訳家の井上勇|井上勇 (翻訳家)}}
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{{Otheruses|翻訳家の井上勇|井上勇 (翻訳家)}}
'''井上勇'''は、かつて[[渋谷]]を中心に活動していた、いわゆる[[チーマー]]と呼ばれていた少年の集まりである[[TOP-J]]のリーダーであった人物。その後関東連合下北沢総本部26代目ブラックエンぺラーの総長になる
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TOP-J副代表がメンズエッグ([[大洋図書]])のインタビュー記事の中で『うちらのトップは、井上というんだけれど、もうメチャクチャな人間ですよ(笑)。最後はチャイニーズ関係にまで手を出したりして。今は小室哲哉の所属会社の社長で頑張ってるみたいですけどね』と彼について言及している。
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井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 1985年)は日本の翻訳家、ジャーナリスト。
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広島県生まれ。1923(大正12)年、東京外国語学校フランス語科卒業。時事通信社に入社して主に外国特派員として勤務し、取締役まで務めた。1945年同盟通信社時代には、その語学力をかわれて対米和平に尽力。特にいわゆるザカライアス放送との間で複数回に渡る意見交換を行い、アメリカ側からの降伏条件を引き出そうとした。
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その傍ら、少なくとも1920年代初頭には翻訳を始める。初期(1950年代前半まで)の訳書は英文学よりも仏文学が中心であった。経歴の中期と言うべき、50年代後半から60年代前半の約10年間は、年平均10冊以上という極めて速いペースで訳書を刊行した。上記した代表的な翻訳(主に英語圏の古典ミステリ、SF)はこの時期になされたものである。1972年を最後に五年間翻訳をしておらず、77年に復活するが、最後の仕事は78年のものである。
  
 
1998年11月22日、[[東京大学]]の[[駒場祭]]にて[[宮台真司]]氏主宰の討論会にも招かれた。
 
1998年11月22日、[[東京大学]]の[[駒場祭]]にて[[宮台真司]]氏主宰の討論会にも招かれた。

2013年6月19日 (水) 14:51時点における版

井上 勇(いのうえ いさむ、1901年4月30日 - 1985年)は日本の翻訳家、ジャーナリスト。

広島県生まれ。1923(大正12)年、東京外国語学校フランス語科卒業。時事通信社に入社して主に外国特派員として勤務し、取締役まで務めた。1945年同盟通信社時代には、その語学力をかわれて対米和平に尽力。特にいわゆるザカライアス放送との間で複数回に渡る意見交換を行い、アメリカ側からの降伏条件を引き出そうとした。

その傍ら、少なくとも1920年代初頭には翻訳を始める。初期(1950年代前半まで)の訳書は英文学よりも仏文学が中心であった。経歴の中期と言うべき、50年代後半から60年代前半の約10年間は、年平均10冊以上という極めて速いペースで訳書を刊行した。上記した代表的な翻訳(主に英語圏の古典ミステリ、SF)はこの時期になされたものである。1972年を最後に五年間翻訳をしておらず、77年に復活するが、最後の仕事は78年のものである。

1998年11月22日、東京大学駒場祭にて宮台真司氏主宰の討論会にも招かれた。

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