「酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)」の版間の差分
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*家光と[[徳川忠長]]の後継者争いの際、家光は重病に倒れたことがあった。しかし家光への病気見舞いへの客人はほとんどなく、常に忠長に対しての訪問客が多かった。これに腹を立てた忠勝は、侍女が忠長のために豪勢な食事を持って行こうとしたとき、「兄が苦しんでいるのに、弟君の忠長公が食事などできるわけがない」として下げさせてしまった。ほどなくして秀忠が忠勝のもとにやってきたので、「忠長様に対する無礼うちを覚悟で行いました」と述べた。すると秀忠は、「これからも家光を頼むぞ。お主は徳川家良弼の第一である」と述べたという。 | *家光と[[徳川忠長]]の後継者争いの際、家光は重病に倒れたことがあった。しかし家光への病気見舞いへの客人はほとんどなく、常に忠長に対しての訪問客が多かった。これに腹を立てた忠勝は、侍女が忠長のために豪勢な食事を持って行こうとしたとき、「兄が苦しんでいるのに、弟君の忠長公が食事などできるわけがない」として下げさせてしまった。ほどなくして秀忠が忠勝のもとにやってきたので、「忠長様に対する無礼うちを覚悟で行いました」と述べた。すると秀忠は、「これからも家光を頼むぞ。お主は徳川家良弼の第一である」と述べたという。 | ||
*小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。これに抗議し酒井に処刑された庄屋である[[松木庄左衛門]]を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。[[水上勉]]は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。 | *小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。これに抗議し酒井に処刑された庄屋である[[松木庄左衛門]]を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。[[水上勉]]は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。 | ||
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酒井忠勝 | |
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 |
生誕 | 天正15年6月16日(1587年7月21日) |
死没 | 寛文2年7月12日(1662年8月25日) |
改名 | |
別名 | 与七郎(幼名) |
諡号 | |
神号 | |
戒名 | 空印寺傑傳宗英 |
霊名 | |
墓所 | |
官位 | 従五位下、従四位上、讃岐守。左少将 |
幕府 | 江戸幕府老中・大老 |
主君 | |
藩 | 武蔵深谷藩主→武蔵川越藩主 →若狭小浜藩主 |
氏族 | 酒井氏 |
父母 | 父:酒井忠利、母:鈴木重直の娘・寶鏡院 |
兄弟 | 酒井忠勝、酒井忠吉 |
妻 | 正室:松平親能の娘 |
子 | 酒井忠朝(長男)、酒井忠経(次男) 青木可一(三男)、酒井忠直(四男) 娘(建部政長正室) 娘(朝倉宣親正室のち松平康信継室) 娘(高木正俊室)、娘(松平康政正室) 娘(堀田正盛正室)、娘(都筑秀政室) 娘(井伊直好正室)、娘(伊達宗純正室) |
特記 事項 | |
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酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主。後に若狭小浜藩の初代藩主となる。第3代将軍・徳川家光から第4代将軍・徳川家綱時代の老中・大老。同時代に、宮内大輔を称し出羽庄内藩主をつとめた酒井忠勝は同姓同名の別人。弟に酒井忠吉がおり、その娘が忠臣蔵で有名な吉良上野介の母である。
生涯[編集]
天正15年(1587年)6月16日、徳川家康の家臣(後の川越藩の初代藩主となる)・酒井忠利の子として三河国西尾(現・愛知県西尾市)に生まれる。
天正19年(1591年)11月、下総国に3,000石を与えられる。初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田城の戦いである。慶長14年(1609年)11月、従五位下、讃岐守に叙位・任官する。元和6年(1620年)4月24日、第2代将軍・徳川秀忠の命で世継・徳川家光付きとなり、元和8年(1622年)に武蔵国深谷7,000石を加増され、合わせて1万石を領する。
寛永元年(1624年)8月には将軍・家光の上洛に従い、上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝とともに本丸年寄(老中)となる。寛永4年(1627年)11月、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩の第2代藩主となる。寛永9年(1632年)9月、武蔵国のうちから2万石加増され、その12月には従四位下・侍従に補せられた。寛永11年(1634年)閏7月6日には、若狭1国および越前、近江、安房に加増され、若狭国小浜へ移り、12万3,500石を領する。将軍・家光から彼1代は国持大名とされた。
寛永15年(1638年)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。寛永20年(1643年)11月4日、少将となる。明暦2年(1656年)5月26日に家督を4男の酒井忠直に譲って隠居する。晩年は小浜酒井家当主として、酒井氏嫡流雅楽頭家で若年にして家督を継いだ酒井忠清を後見していたという。
墓所:福井県小浜市男山の建康山空印寺。奉斎神社:福井県小浜市城内鎮座の小浜神社の主祭神として祀られる。
人物・逸話[編集]
- 徳川家光は酒井忠勝を特に信任し、「我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と述べたという。
- 家光が他の重臣と協議するときは寝間着姿のときもあったが、忠勝との協議のときだけは必ず着替えて引見したという。
- 家光と徳川忠長の後継者争いの際、家光は重病に倒れたことがあった。しかし家光への病気見舞いへの客人はほとんどなく、常に忠長に対しての訪問客が多かった。これに腹を立てた忠勝は、侍女が忠長のために豪勢な食事を持って行こうとしたとき、「兄が苦しんでいるのに、弟君の忠長公が食事などできるわけがない」として下げさせてしまった。ほどなくして秀忠が忠勝のもとにやってきたので、「忠長様に対する無礼うちを覚悟で行いました」と述べた。すると秀忠は、「これからも家光を頼むぞ。お主は徳川家良弼の第一である」と述べたという。
- 小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。これに抗議し酒井に処刑された庄屋である松木庄左衛門を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。水上勉は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。
出典[編集]
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