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2020年1月14日 (火) 20:32時点における最新版
ニュースステーション(NEWS STATION、通称:Nステ)は、1985年10月7日から2004年3月26日まで、テレビ朝日とオフィス・トゥー・ワンが共同制作し、テレビ朝日をはじめとするANNで放送されたニュース番組である。久米宏がキャスターを務めた。
目次
概要[編集]
テレビ朝日がそれまでドラマやバラエティ番組を放送していた平日22時台に新設したニュース番組で、構想から開始までに1年以上を費やし、構想段階から広告代理店である電通が深く関与した。番組の準備などのため、久米は1985年4月までに『おしゃれ』以外のレギュラー番組を降板した。
当時としては前例のない番組であり、開始当初は8%程度の低視聴率に悩んだ。しかもアフタヌーンショーの「やらせリンチ事件」が問題化している真っ最中で連日、自局の不祥事を伝えていた。1986年2月のフィリピン政変以降は、安定して高い視聴率を誇り、テレビ朝日の看板番組となった。また、NHKのニュース番組が主に50代以上に見られるのに対して、若い視聴者からも支持を受けた。
「中学生でもわかるニュース」をコンセプトとして、政治や経済などのニュースにおける難解な用語や展開などを、フリップや地図、模型、実物、政治家人形、積木などを使い、わかりやすく伝える工夫を凝らした。安竹宮で争われた1987年自民党総裁選挙では全派閥を積み木で表現し、積木を積み立てて今後を予測した。初期には手書き・手作りといったアナログ感を重視していたが、コンピュータグラフィックスについても最新技術を積極的に導入している。1990年代初めには天気予報に3D CGを使い、イラク戦争では地図に後のGoogle Earthのような技術を使用している。このほか番組末期にはリアルタイムCGも多用された。
また久米が「個人的意見」を言うことで従来の番組や新聞との差別化を図った。久米のコメントや番組の基本姿勢は、久米がマスコミ人として持っている反権力・反戦争の信条を色濃く反映したものだったため、広く人気を博した反面、自民党筋や保守派などから偏向しているとの根強い批判・反発も呼んだ。
従来、外部発注が常識となっていた民放テレビ局にあっても報道番組は聖域とされ、番組制作が外部に委託されることがなかった中で、オフィス・トゥー・ワンという外部の制作プロダクションを導入してニュース番組を制作するのは画期的なことであった。
ニュースステーションはネット局の構成や制作会社が作っているニュースショーという特殊な性格上、ANN系列のプライムタイムニュースの位置付けではあるのだが、正式なANNのネットニュースではない。そのため、エンドロールでは「制作:ANN系列各社」と表示され、企画中継等の場合は技術協力として中継先の局名が表示されていた。こういう事情からANNの海外支局等からの中継の際は、各支局にセットにあるANNのロゴの上から『ニュースステーション』のロゴを貼って隠していた時期もあった。
音声は、開始当初はモノラル放送であったが、1993年4月頃からステレオ放送になった。
2003年8月25日に翌春の久米宏降板が発表され、2004年3月26日をもって番組が終了した。最終回の視聴率は19.7パーセント。後番組は報道STATION。
放送時間[編集]
スタート当初から平日22時から23時17分まで(1988年3月までの金曜日は除く。詳細は次項)だったが、2000年3月27日、21時54分のスタートとなった。この日NHKが裏番組として『NHKニュース10』をスタートさせたため、その対抗とも言われている。なおテレビ朝日はこのとき、夜8時以降の時間帯の番組を一斉に正時の6分前からのフライングスタートとしたが、視聴者の反応が鈍く廃止された。
金曜版[編集]
開始当初から1988年3月までの毎週金曜日は、「金曜版」として、開始を23時としていた。これは金曜22時台に人気シリーズである必殺シリーズを持っていた朝日放送への配慮による。「金曜版」では、毎回ゲスト2名(男女1名ずつ)をブーメランテーブルに隣接するソファのセットに招いて、バラエティ色の強い「金曜チェック」「奥様教養シリーズ」「ニュースミステリー」「カウントダウンJAPAN」「世直しエイド」といったシリーズを放送した。のちに久米は金曜版について「娯楽番組だった」と語っている。またオフィス・トゥー・ワンのニュースステーション担当スタッフは久米宏のTVスクランブルと大体重なることもあり、共通性が指摘される。なお金曜チェックは22時への移行の第1回を以て終了した。
以降の金曜の放送は金曜版とは呼ばれなかったが、中期にはテリー伊藤や笑福亭松之助がコメンテーターを務め、真中瞳がスポーツキャスターを担当するなど、月曜から木曜までとは違う雰囲気作りが図られた。
特別編成など[編集]
大ニュースの発生時には放送を9時からに前倒しすることがあった。湾岸戦争開戦・皇太子徳仁親王ご成婚・阪神淡路大震災・アメリカ同時多発テロ事件などではこの措置がとられ、特に皇太子ご成婚の際には、当時クロスネットで、テレビ朝日枠を持っていた山形放送が60分のみ放送したことがある。
- ニュースステーションスペシャル
- 初期には年末に『ニュースステーションスペシャル』と題して、大掛かりな特集を中心とした長時間番組を放送した。1985年は日本航空123便墜落事故を特集し、1988年は後述の10.19ロッテ-近鉄戦であった。その後も何度か、長時間特番を組むことがあった。
- 1986年2月25日放送
- フィリピン政変(エドゥサ革命)が起こり、政権が交代した。この日は放送時間を延長し、放送時間内にマルコス前大統領の亡命の一報を伝えた。当時大学生の安藤優子がマニラから中継を行った。安藤は、隣にいたNBCニュースの情報を聞き取っていたという。
- 1988年10月19日放送
- プロ野球・パ・リーグの優勝決定試合であるロッテ対近鉄戦(いわゆる10.19)を急遽放送するために、前の番組であるさすらい刑事旅情編を飛ばしてCMを一切入れずに放送し、ニュースステーションも放送予定の大半をやめてそのまま中継を続け、テレビ朝日自体に対する評価を大きく高めた。
- 1995年2月17日放送
- 兵庫県南部地震の発生から1ヶ月後の1995年2月17日、神戸市中央区のポートアイランドにあるサンテレビジョン本社からニュースステーションを放送した。サンテレビはテレビ朝日系列の朝日放送の放送区域である兵庫県をカバーしている系列外の独立UHF放送局である。震災の主たる被災地の地元局であることから、この日のみサンテレビジョンと共同で番組を制作・放送したものである。またサンテレビジョンのニュース番組であるニュースEyeランドの関西向け天気予報なども全国のANN系列でそのまま流されるなど、報道番組としては極めて異例の取り組みが行われた。
- 久米のいない放送
- 1999年10月7日から12月いっぱいまで、久米はテレビ朝日との契約に至らずに番組を降板するという異例の事態となった。この間を渡辺宜嗣と渡辺真理の2人で進行する。宜嗣が取材していた2000年問題特集を放送するためウラジオストクや中東などから中継を行ったほか、日本シリーズ期間中は開催地の福岡ドームとナゴヤドームから放送を行った。この期間の久米について、テレビ朝日は休暇と説明している。
- 2001年7月23日〜27日
- 福岡市で開催した世界水泳の独占放送権をテレビ朝日が取得。世界水泳の中継が午後9時24分に終わってしまうため、ちょうど参議院選挙が行なわれる直前ということもあって、この間「SPECIAL WEEK」とし、午後9時36分からの放送となった。この際オープニングも特別バージョンのものが用意され、オープニングBGMもアニメ機動警察パトレイバーのものが使用された。時間が前倒しとなった9時36〜54分の間は主に候補者へのアンケート結果(全候補者 ファイナルアンサー)を放送した。
- 2001年9月11日〜13日
- 久米が夏休みをとり、渡辺真理だけで放送していた11日。午後9時45分、世界貿易センタービルに飛行機が突入。9時54分のオープニングのあと、56分頃にCNNインターナショナルの映像を用いて第一報。この日は関東に台風が上陸したため、CMを挟んでトップニュースだった台風情報を伝えなおす。この間に2機目の突入。この事態を受け、これを中心に放送。30分ほどで番組の全CMを放送し、事態の把握と様子を伺う。後にアメリカ同時多発テロとして知られるが、CNNの映像を中心に、当時ニューヨーク駐在の内田忠男や当時ワシントン支局長の鈴木悟らと状況を見守った。この日は午前0時まで放送し、その後はANN報道特別番組となる。
- 12日、『はぐれ刑事純情派』を休止、午後9時から11時30分までの放送で、全編テロ報道となる。
- 13日、休暇中の久米が夏休みを切り上げて復帰。番組欄の最後に「久米宏」と書いてアピール。プロ野球速報も伝え、放送時間の拡大も無かったが、11日・12日より高い視聴率を記録した。ちなみに後日談で久米はパリでこのニュースを知ったという。
- 2003年12月19日放送
- 同じ六本木ヒルズ内に本社を置くJ-WAVEのJam the WORLDと同時放送(午後9時から30分ほど)。
- 最終回
- 冒頭では『ニュースステーション』開始と同じ年に植えられたアークヒルズの桜並木から夜桜中継をした。
- エンディングでは久米が、民間放送のありかたについて、視聴者をはじめ広告代理店の電通、歴代のスポンサー・スタッフなどへ感謝の言葉、小学生時代の自らの通知表の内容、番組や久米個人に対する批判者へのお礼などを述べた。歴代オープニング曲とその当時の久米の映像を交えて過去18年半のニュースを振りかえり、中国語によるパロディ予告編「久米的電視台」が放映された。
- 最後は一人手酌のビールを「じゃ、乾杯」と言って一気に飲み干し、「本当にお別れです。さようなら」との挨拶で番組を終えた。このときのビール瓶には美術スタッフに発注して用意した『NEWS STATION BEER 全4795回』のオリジナルラベルが貼られており、王冠にも番組ロゴが貼り付けられていたとされている。
- 番組終了後、同日中に競合番組である『筑紫哲也 NEWS23』内のコーナー「多事争論」で筑紫哲也が久米への言葉を述べたことをはじめ、翌日以降の情報・バラエティ番組、新聞各紙でも報道されるなど、ニュース番組としては極めて例外的な扱いを受けた。
- ニュースステーション終了でプロダクションのオフィス・トゥー・ワンは、同時間帯の報道番組制作から撤退する事になる。
- 後番組の『報道STATION』は『NEWSSTATION』とは全く別の番組という位置付けがなされ、久米氏側の意向でテレビ朝日側が当初計画していた花束贈呈などの司会者の引き継ぎは一切行われなかった。
出演者[編集]
- 久米宏
- 久米宏がスタート当初から終了までメインキャスターを務めた。久米はしばしばこの仕事を「ニュース番組の司会者」と称していた。番組を開始した当初は熱意溢れていた久米であったが、1995年頃から事あるごとに週刊誌で「久米降板」説が取りざたされた。1999年10月6日に番組内で「私の出演は本日までです」と宣言し、テレビ朝日との間で契約更新が合意できなかったため、実際に降板した。翌日10月7日放送の冒頭で、代理キャスターを務めた渡辺宜嗣アナウンサーは「久米宏はいません。暫く私がキャスターを務めますが、ニュースステーションのキャスターは久米宏です」と異例の発言をしている。テレビ朝日の懸命の説得により、再度契約が行われ2000年1月4日に番組に復帰した。久米自身は、著書・サイトなどでこの期間を「無職」としている。
- サブキャスター
- 小宮は1998年9月までスタジオサブキャスターとして金曜日に出演。1998年3月30日〜5月8日までの月曜〜木曜は、堀越むつ子・渡辺みなみ・渡辺宜嗣でつなぎ、金曜は第1週のみ堀越が出演。
- コメンテーター
- 初代のコメンテーター小林一喜は、久米・小宮と名トリオとして親しまれたが、1991年2月19日に亡くなった。小林を含めニュース解説者としてのコメンテーターは船曳建夫・森永卓郎を除いて歴代、朝日新聞記者またはその経験者。開始にあたり人選を朝日新聞社に依頼し、小林が選ばれた。ちなみに和田俊は、この番組以前にニュースフロンティアで古舘伊知郎と共演している。
- スタジオサブキャスター
- レポーター
- スポーツコーナーキャスター
- お天気担当
番組の構成[編集]
番組内で久米は番組の放送開始・主なコーナーの開始時間を一定に保つようにアピールしてきた。番組(または野球速報)を「日々の生活の一部」として観ている視聴者を尊重してのことで、放送時間の変更があれば、時には前週から丁寧に予告していた。2000年3月ごろまでの番組構成を例に挙げると、スポーツは22時30分ごろ、天気予報は22時50分頃に放送された。天気予報は他局がCMを放送している時間帯を狙ったもので、天気キャスターが注目を浴びる影の要素でもあった。
番組終盤には「あすの予告」と世界各地のドル/円相場を紹介。午後5時の東京での取引値との差を久米が暗算で伝えていた。最後の半年間は、久米が「マーケットチェック」とコールすると、画面が切り替わり、右下隅には、「宏のMarket Check」と表示されていた。
スポーツ[編集]
番組の企画段階では、久米はニュースステーションではスポーツを扱わずスポーツニュースは別番組にすべきだと主張したというが、スポーツは番組の要として存在し続けた。
- 野球
- 番組初期、プロ野球のある日は「日本一速いプロ野球速報」をウリにしていた『スポーツTODAY』に対抗すべく22:25頃から「プロ野球速報」として放送していた。プロ野球に関しては「キャンプフラッシュ」、「順位予想」、「日本シリーズ予想&解説」などが恒例であった。日本シリーズに関しては該当チーム以外の監督・選手が出演することもしばしばあった。
- また、1992年のシーズンからチームの呼称を報道番組としては初めて愛称名(「ジャイアンツ」「ライオンズ」など)のみとした。その後一時「親会社名+愛称名」のフル名称になった時期もあったが、「巨人」あるいは親会社名のみの呼び方は番組終了までされなかった。この呼び方は後番組の『報道STATION』には受け継がれていない。番組開始当初、ペナントレースの優勝チームの決定が近づくとくす玉がセットに吊り下げられ、優勝が決まるとそれを割って祝福するシーンもあった。
- プロ野球1分勝負
- エンディングで放送された名場面(珍プレー)を中心に、その日のプロ野球を1分でまとめたコーナー。真心ブラザーズの『どか〜ん』をテーマ曲に採用してからはこの曲で定着した。
- 宣嗣とドラゴンズ
- プロ野球キャンプ取材では、大の中日ファンである渡辺宜嗣が中日の北谷キャンプを訪れ、監督らにインタビューし、「燃えよドラゴンズ!」を大熱唱することが恒例となっていた。
- サッカー
- 川平慈英が専属キャスターとして、Jリーグ開幕時から番組終了まで出演していた。Jリーグも試合のある日は全試合の結果を放送、特集枠をJリーグ情報に充てることもしばしばあった。1998年サッカーW杯ではフランスから連日放送。2002年W杯ではテレビ朝日が担当した日本対ロシア戦の放送を久米と川平の司会で放送した。
- 都並さんといっしょ
- 当時サッカー解説者であった都並敏史が登場し、川平とともに、サッカーについてのミニ知識などを解説したコーナー。
- 「次はいつ?」
- 川平慈英がハイテンション過ぎて、久米から「次はいつ来るの?」と冷やかし半分に訊かれるという、サッカーコーナーの締めのやりとり。川平の答えは「呼ばれればいつでも!!」というものが多かった。
- 特集
- スポーツ特集は野球・サッカー以外の幅広い競技にも及ぶ。マイナースポーツの取材数では他のスポーツニュース番組より圧倒的に多く、さらに毎年継続して取り上げていた。パリ・ダカール・ラリーやアメリカスカップなど。
- スポーツ中継告知
- テレビ朝日で放送されるスポーツ中継の告知は色々な形で行われた。ル・マン24時間レースや全英オープンゴルフや全米オープンゴルフ(男女・シニア)のある時期は開催先から解説陣が最新の様子を伝えるなど、告知は怠らなかった。また、全英オープンの際の久米と青木功の掛け合いも名物であった。
- ネーミング
- なにかとダジャレや気の利いたフレーズを使うことが多かった。Jリーグ順位掲示板「回転くん」「かめすけ」や、2002 FIFAワールドカップカウントダウンの「あと韓日くん」など。
名物企画・シリーズなど[編集]
- 夜桜中継
- 「夜桜中継」は例年春に行われた大規模な中継である。初期に担当した若林正人は、久米の進行が気に食わないことが多く、契約が終わると久米批判で知られるようになった。夜桜中継は他系列の南海放送や四国放送も中継に協力していた(裏送り)。正式なANNのネットワークニュースではないために協力が得やすかったと言われる。このほかに夏の「滝中継」、秋の「紅葉中継」も行われた。
- 立松和平こころと感動の旅
- 作家立松和平が自然の中を旅するレポート。須賀潮美による水中レポートも織り込まれることがあった。
- 金曜コンサート
- 若林正人がクラシック音楽を紹介した企画。
- 最後の晩餐
- 『最後の晩餐』は、久米が著名人に「人生最後に食べたいもの」というテーマでインタビューするという企画。のちに単行本化された。なお、久米の夏季休暇が3週間で定着してから考え出された企画で、初期は休暇3週目に放送されていた。
- 絶滅危惧商品
- 忘れかけた頃に放送されるシリーズ。戦後復興期に使われ、その後使用されなくなった商品の今昔を、ナレーターがその商品に扮して伝える。
- 小泉武夫の○○の快楽
- 発酵食品の研究で知られる小泉武夫教授が、さまざまな地域の地元食を訪ねるもの。これを端に、発酵食品だけにとらわれず、いろいろな地元食を扱った。
- 業界新聞
- あまり目に触れることのない、業界内向けの新聞に着眼点を置き、その新聞の生い立ちや、取り扱う業界について探る。
- 登山シリーズ
- テレビ朝日の登山ディレクター、大谷映芳(現在は渡辺篤史の建もの探訪プロデューサー)による登山紀行。ムスタン取材は何回かに分けて放送、これ以降は江守徹がナレーターを務める。後に日曜午後に放送される番組の先行ダイジェスト版という形式をとる。
- ビートルズ映像公開
- ビートルズがエド・サリバン・ショーに出演した映像や、「スターティング・オーバー」の日本で1回しか放送できない特別版など貴重な映像を放送。
- チャンスの前髪
- 渡辺真理が、話題の人物にインタビューする企画。
- おなじみのゲスト
- などなど
所沢ダイオキシン訴訟[編集]
環境総合研究所のデータを基に、埼玉県所沢市の野菜から高いダイオキシン濃度が検出されたと1999年2月1日に報道。大手スーパーから所沢産のホウレンソウを始めとする野菜が締め出されて、価格も下落する影響が出た。番組中では「葉物」と表現されたダイオキシンが検出された農産物は煎茶であり、乾燥しているため本体重量が軽く、生鮮野菜と同量のダイオキシンが見かけの上で多く計算されることによるもので、実際に飲む上では健康に悪影響はないものだったが、ニュースステーションの報道による風評で損害を受けたとして、農家側は当初376人の原告団を結成して、損害賠償請求を求める裁判を起こした。この裁判では1審と2審がテレビ朝日側が勝訴、最高裁で2審の判決を破棄し、東京高裁に差し戻された。番組終了後の2004年6月16日に、テレビ朝日が農家側に謝罪して和解金1000万円を支払うことで和解が成立した。
セット「久米宏の部屋」[編集]
ニュースステーションのスタジオセットは、常時建て込まれている状態で、2階、後に3階まで作られたほか、ゲストを招く部屋や家具までも仕込まれるなど大掛りで非常に手の込んだものになっている。コンセプトは「久米宏の部屋」で、放送終了までに5回改築された。奥行きを重視したこれらのセットを使うことにより、画面全体に非常にくつろいだ雰囲気が生まれ、ニュース番組でありながら、柔らかい印象を視聴者に与えることに成功した。
- 1985年10月〜1990年9月
- 高層階にあり夜景が見えるという設定で、白を基調とし、茶色・木目調の什器類がアクセントを添えている。質感や色は、久米宏の当時の自宅の部屋にそっくりだという。奥にゲスト用の客間があったほか、ソファのセットもあり、1988年3月までの金曜版はそこから放送した。壁には巨大プロ野球順位表が設置されていた。
- この期間には、番組に立体感を出す狙いから、前半30分弱をアークヒルズ1階の報道センターから、それ以降をこのセットのあるAスタジオから放送することが多かった。この区切りに当たるコマーシャル入り直前に、移動のため久米たちが立ち上がる様子が映し出された。海外ニュースを伝えるCNNコーナーや、金曜版のニュースは報道センターから伝えられた。大ニュースが入ったときは、全編を報道センターから放送していた。
- 1990年10月〜1995年9月
- 高層階からの眺めを維持し、基調色の白の存在感が強まった。Jリーグ速報用のボール型順位表「電動くん」が常時置かれていた。初代で木目調だったフラッシュニュース用のボードは、石材風になった。
- 1995年10月〜1999年8月
- これまでの雰囲気を一新し、飛騨地方にあった民家の木材を使用。これもセット奥の背景は高層からの夜景。夜景のホリゾント幕はこれが最後となった。
- 1999年8月〜1999年12月
- これまで改装中は報道局に隣接するスタジオから放送していたが、先代の2階にある「書斎」がテーマの小さなセットを使用した。この時に久米の契約交渉がまとまらず、久米は3ヶ月間不在となる。5ヶ月の短命に終わる。
- 2000年1月4日〜2003年9月26日
- レンガがアクセントになったセットで、久米曰く「関東のとあるワイン倉庫を改装した」という設定。1階左奥には囲炉裏を囲んだ板の間、その手前にはテラス。正面奥にはキッチンその右手前には書斎。2階左側に趣味の部屋、ここは天気コーナーでしばらく使用しその後は「ビートルズ映像公開」企画で使用された。同じく2階右側は通路を兼ねた書棚が置かれている。2002年4月に1階書斎部分を改装した。
- 2003年9月29日〜2004年3月26日
- テレビ朝日の社屋移転に伴い、使用していたスタジオはアーク放送センターAスタジオから、新本社の第4スタジオへ変更となった。
- 「東京湾に浮かぶ700tクラスの貨物船の船底をイメージした」という3階建ての作りで、40tもの鉄を使い、建て込みには数百人がかりで1ヶ月もかかった超豪華なセットであった。同じスタジオ内には夕方のニュース番組『スーパーJチャンネル』のセットも作られ、『ニュースステーション』よりは小規模ながらも、共通のデザインコンセプトで設計されている。
- 新セットを作るにあたり、テーブルなどほとんどのセット内のものは新調されたが、一部の家具や小物は前のセットから引き続き使用された。(さらにその一部は番組終了後『スーパーJチャンネル』へと引き継がれ、現在でも使用されている。)
- 番組終了後、この6代目セットと10代目オープニング映像、リアルタイムCGにより、スタッフが2003年度のテレビ美術を対象とする「第31回伊藤熹朔賞」を受けた。
- これだけ大掛かりだったのは、当初『ニュースステーション』自体は存続し、キャスター交代・リニューアルの形を取る予定だったためとされる。その後久米側の意向により番組終了となったが、このセットの取り壊しには時間がかかったため、後番組にあたる『報道STATION』は、新セットの完成まで番組開始後1週間のあいだ、テレビ朝日本社1階のアトリウムに仮設セットを建てて放送した。『スーパーJチャンネル』も、通常「ANNニュース」を伝えるスタジオから放送した。
ブーメランテーブル[編集]
『ニュースステーション』ではキャスター席に特徴的な「ブーメランテーブル」が使われ、メールマガジンのタイトルを『NSブーメラン』とするなどこの番組の名物であった。番組開始当初は濃い色のものが使用されていたが、後に交換されたときには薄い色のものへ変更になった。 また2003年9月の社屋移転に伴いテーブルが新調された際に、同じスタジオから放送されることになった『スーパーJチャンネル』でも使用されるようになった。テーブルは移動可能な台に載せられ、両番組の放送ごとに双方のセットを行き来して据え付けられていた。『ニュースステーション』終了後、『報道STATION』の開始にあたってはまた新たに違うデザインのテーブルが作られることになり、セット同様わずか半年でその役目を終えている。
2004年12月29日に放送された特別番組『サプライズ!?2004』(出演:小宮悦子、上田晋也など)では、2003年9月まで使用されたブーメランテーブルがセットとして使われた。
テーマ曲[編集]
- 1985年10月7日 - 1987年12月:『ANNニュースのテーマ(1985〜1990)』(松岡直也)
- 他のANNニュースでもこのテーマ曲に変更。
- 1988年1月 - 1989年1月27日:曲名なし(前田憲男)
- 1989年1月30日 - 1993年4月16日:『Good evening』(本多俊之)
- このころから、オープニング曲・CM前ジングル以外に番組内で使われる音楽もトータルにコーディネートされ始めるようになった。
- たとえば天気予報のBGMなども本多が担当した。
- 1993年4月19日 - 1996年10月4日:『Harmony』(本多俊之)
- 曜日ごとにメイン楽器が違うバリエーションがあり、ピアノバージョンは江黒真理による演奏でCD化された。
- オープニング映像はアニメーションで、季節ごとに用意された。
- 1996年10月7日 - 1998年5月8日:『36度線』(ASKA)
- 「36度線-1995夏-」 (CHAGE and ASKA) 参照。
- 1998年5月11日 - 1999年12月:『靴は履いたまま』(ゴスペラーズ)
- この時期のオープニング映像はその日のニュース映像が使われた。
- 2000年1月4日 - 2002年3月29日: 『NS2000』(福岡ユタカ)
- 2001年ではこの曲のニューバージョンとして『NS2001』が使われた時期もあった。
- 導入当初は若干長めだったが、途中から1フレーズカットされている。
- スポーツ『Trance Zone』
- ニュースフラッシュ『5scenes from a Dizzy day』
- 2002年4月1日 - 2002年6月28日:『A FAIR WIND』(Char)
- この期間内に、日韓共催のサッカーFIFAワールドカップがあり、このテーマ音楽に乗せ、川平慈英のナレーションで1回目からのW杯の歴史を振り返る特別バージョンで、決勝戦とともに終了。
- 2002年7月1日 - 2003年9月26日:『サラバンド』(サラ・ブライトマン)
- 2003年9月29日 - 2004年3月26日:U2の演奏、選曲、監修による以下のテーマ曲
- オープニング『Where The Streets Have No Name (約束の地)」
- スポーツ『LADY WITH THE SPINNING HEAD』
- ニュースフラッシュ(「できるだけニュース」)『DISCOTHEQUE』
- エンディング『ELECTRICAL STORM』
番組タイトルロゴ[編集]
ロゴの変更は2回行われている。渡辺真理の初回と久米の3ヶ月ぶりの復帰の2回。六本木ヒルズに移転した際にカラーリングを変更している。
- 1985年10月7日番組開始 - 1998年5月8日 上に「ニュース」下に「ステーション」で、カラーリングは銀色。
- 1998年5月11日 - 1999年12月 ロゴの「ステーション」が右にずれる。カラーリングは青
- 2000年1月4日 - 2004年3月26日番組終了 番組開始以来初めて英字のタイトルに。カラーリングは、2000年1月4日 - 2003年9月26日まではオレンジ/黄色、2003年9月29日 - 番組終了までは青色/水色。
- カラーリングロゴ1:「ニュースステーション」
- カラーリングロゴ2:「ニュースステーション」
- カラーリングロゴ3:「NEWSSTAITON」
- カラーリングロゴ4:「NEWSSTAITON」
エピソード[編集]
1989年、久米は番組の企画「ジャイアンツエイド'89」で「巨人がリーグ優勝したら坊主頭になる。日本シリーズでも勝ったら徳光さんの番組で万歳する」と宣言。この年に巨人が優勝し、この公約を守った。久米が万歳したスポーツコーナーは本来、日本テレビのローカル枠だが、話題性の高さから各系列局は臨時にネットした。
久米が2000年に番組に復帰した際には、口ヒゲを生やして画面に現れた。同時にそれまで黒く染めていた髪を白髪のままにするなど、イメージチェンジを遂げた。
これらのとき、また金曜版では、久米はカジュアルな服装をしていたが、それ以外にも番組初期にいち早くイタリアン・スーツに身を包むなど、それまでのニュースキャスターのイメージを突き破った久米のファッションも話題を呼んだ。
1990年代前半頃から、記者や他のキャスターを身内のようなものとして考え、視聴者に向かって担当する記者やキャスターを紹介・案内する場面では、他局なら「○○キャスター、○○記者、○○アナウンサー」などと紹介するところを、敬称はともかく職名も付けず「名字」「フルネーム」だけで紹介していた。代表的な例として「次のニュース小宮から。」、「国会記者会館にいる三反園訓に聞きます。三反園さん。」など。呼びかけなど当人との会話では従来どおり「さん付け」であった。元々は「身内である同じ会社の人間に敬称を付けて呼ぶのは社会人としておかしい」という視聴者からの苦情がきっかけとされているが、他局にはない独特の言い方であった。
番組開始時にキャスター・レポーターの一般公募で若林正人らを発掘したが、放送開始10周年でも、一般からのキャスター募集が行われた。NTT部長や毎日新聞女性記者などが選ばれたが、出演期間は短かった。
久米宏は、毎年3週間の夏休みをとったが、久米の休暇中には大事件が起きることが多く、ジンクスとして語られることがあった。
海外アーティストが来日したとき、度々出演し、生演奏している。『ミュージックステーション』にはスケジュールの都合で出演できなくても、週5日放送の『ニュースステーション』なら出演しやすいという面もある。
本多俊之・ゴスペラーズ・福岡ユタカ・Charら、歴代オープニング曲を担当したアーティストの出演・生演奏・生歌唱も、すべてではないが行われた。
ダウンタウンや小室哲哉などがゲスト出演している。特にダウンタウンは「浜田雅功が飯村真一に似ている」ということで出演に至った。
2001年、世界水泳に伴い放送開始時間が繰り上がったため、周知キャンペーンとして久米のモノマネをレパートリーに持つダチョウ倶楽部の肥後克広が出演。肥後が久米のモノマネをするコントを制作、キャンペーン最終日には夢の共演を果たした。このキャンペーンでは世界水泳の実況を担当した古舘伊知郎が出演、「3年後のニュースステーションです」と後任キャスターに扮してギャグを飛ばした。この時はまだ『報道STATION』の構想は具体化していなかったが、結果として「嘘から出た真」となってしまった。
2002年、FIFAワールドカップで日本が初めての決勝トーナメント進出を決定した日に大阪・朝日放送スタジオから生放送が実現した。
クレヨンしんちゃんの野原しんのすけが、当時ニュースステーションのサブキャスターを担当していた小宮悦子のファンらしく(実際、「クレヨンしんちゃん」のアニメ本ではニュースステーションが登場している)、某番組でコラボした時に、小宮は「幼稚園児でもわかるニュースを」などと発言していた。
評価と影響[編集]
ニュースステーションは、様々な意味でテレビのニュース番組に革命を起こしたと評価される。
前述のように、難しい用語や内容をわかりやすく解説したことで、政治や経済に興味のなかった層が関心を持つきっかけとなり、多方面に大きな影響があった。
この番組の成功は、久米宏のテレビ司会者としての力量や話術・個性に負うところが大きいと評価され、良くも悪くもかつてのフジテレビのワイドショーの「小川宏ショー」をもじって「久米宏ショー」と呼ばれることがあった。久米が番組でいう意見と発言すること自体について、評価が分れた。
この番組以降、ニュース番組全般で、報道に携わった経験のない文化人やタレントなどがキャスター・コメンテーターに起用されることが多くなった。またテレビ向きの言葉を発することに長けた「専門家」のコメントが使われる機会が増えた。これらについては安易な人選、拙速な内容との批判がある。音楽・ナレーション・テロップなどをワイドショーのように使う表現・演出手法は、しばしばニュースを過度にセンセーショナルなものに見せた。従来の報道番組になかった娯楽番組的要素を採り入れたことから「報道バラエティー」とも評され、報道番組のワイドショー化として批判もされる。
ニュース戦争[編集]
これまで19時から23時迄のいわゆるプライムタイムのニュース番組はNHKの独擅場とされた。しかしニュースステーションの成功は、この常識を覆して、1980年代後半のテレビ各局に報道強化の動きを呼んだ。
それまで王座にあったNHKもこれに焦り、長く親しまれた21時から21時40分迄の『ニュースセンター9時』を1988年3月を以て終了。4月からは『NHKニュースTODAY』として21時から22時20分迄の放送にワイド化、ニュースステーションと競合した。しかし長続きはせず、1988年10月に22時迄の放映に短縮された。以後NHKの夜のワイドニュース枠は「NHKニュース21」、「NHKニュース9」と21時台の放送が続くが、2000年4月『NHKニュース10』で22時台に移行、完全に裏番組になった。しかし視聴率の低迷で2006年4月の改編で22時台から撤退、ニュースウオッチ9として21時台に戻っている。
TBSの対応はNHKよりも早く、1987年10月に森本毅郎をキャスターに起用し、『JNNニュース22プライムタイム』を22時台に開始。1988年10月からは『JNNニュースデスク'88('89)』にリニューアルするも定着せず、1989年10月から『筑紫哲也 NEWS23』で23時台を主戦場とし今に至る。
テレビ朝日はニュースステーションの勢いを活かして、ゴールデンタイムの19時20分から20時の時間帯に『ニュースシャトル』を1987年10月から1989年3月まで放送した。
日本テレビ、フジテレビは23〜24時台にニュース番組を放送しているのでこの時間帯の争いには直接加わっていない。テレビ東京は報道よりも経済情報を主体としたワイド番組「ワールドビジネスサテライト」を放送し差別化をはかっている。
関連番組[編集]
- 選挙ステーション
- 国政選挙の開票速報番組。1986年7月の衆参同日選挙から2003年11月の衆議院総選挙まで久米宏を中心として放送された。
- チェック・ザ・ステーション
- 1987年10月4日から1988年4月3日まで、日曜日午前11時台に放送された。渡辺みなみが司会を務め、若林正人が経済解説をした。
- ドキュメント天皇崩御 昭和から平成へ
- 「平成」改元が行われた1989年1月8日(日曜日)12時から2時間にわたって放送された報道特別番組。久米宏と小宮悦子が司会を務め、ニュースステーションのスタジオセット(ただし背景は昼の風景)から放送した。
- チャレンジステーション
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ネットしていた放送局[編集]
外部リンク[編集]
前後番組の変遷[編集]
テレビ朝日系 月曜〜木曜22時枠(1985年10月〜) | ||
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前番組 | ニュースステーション | 次番組 |
月:月曜ワイド劇場 木:愛川欽也の探検レストラン | 報道STATION | |
テレビ朝日系 金曜22時枠(1988年4月〜) | ||
ダウンタウン探偵組 | ニュースステーション | 報道STATION |
ANN 平日ニュース最終版 | ||
ANNニュースファイナル | ニュースステーション | 報道STATION |
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