「クシシュトフ・エウゲニウシュ・ペンデレツキ」の版間の差分
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クシシュトフ・エウゲニウシュ・ペンデレツキ(Krzysztof Eugeniusz Penderecki、1933年11月23日 - 2020年3月29日)は、ポーランド生まれの作曲家・指揮者であった。『交響曲第3番』、『広島の犠牲者に捧げる哀歌』で知られる。
概要[編集]
1933年11月、ポーランド南東部にある町デンビツァ(Dębica)に生まれる。父は弁護士のタデウシュ・ペンデレツキ、母はゾフィア・ペンデレツキである。祖父のリバート・バーガーは著名な画家で、銀行の取締役であった。祖父はプロテスタントであったが、祖母への愛のためカソリックに改宗した。 第2次世界大戦後の1946年にグラマースクールに入学した。バイオリンをスタニスラフ・ダラックに学んだ。1951年にはヤギェウォ大学に入学し、バイオリンをスタニスラフ タウヲロゼウィック、音楽理論をフランシゼック・スコウゼウスキに学んだ。1954年、クラクフ音楽院に入学し、バイオリンの勉強は最初の1年で終え、ペンデレツキはアーサーマラウスキに師事して作曲に集中し、1957年にマラウスキが亡くなってからはコラールの作曲で知られるスタニスワフ・ヴェコビッツに師事する。1958年に卒業した。
卒業後はクラクフ音楽院で教職のポストを得た。初期の作品はアントン・ウェーベルンとピエール・ブーレーズの影響を受けている。1959年、音楽祭「ワルシャワの秋」のためのソプラノ・朗読・10の楽器のための『ストロフィ』、混声合唱と打楽器の『ダビデ詩編』、弦楽合奏『放射』で注目を浴びた。1960年、濃密な「トーンクラスター」書法を用いた52の弦楽器のための『広島の犠牲者に捧げる哀歌(弦楽合奏)』によって世界的に有名になり、前衛音楽の世界において地位を確立した。
1970年代頃から作風が変化し、不協和音よりも旋律が作品を牽引するようになり、古典的作品に回帰した。この時期の代表作は1976年の『バイオリン協奏曲第一番』、1978年のオペラ『失楽園』である。前者は微分音や不確定記法を用いるが、古典的ロマンティシズムを残している。
1972年、クラクフ音楽院院長に就任する。1973年、エール大学教授に就任する。1998年、北京音楽院名誉教授に就任。アンネ=ゾフィ・ムターとの出会いから生まれた『バイオリン協奏曲第二番<メタモルフォーゼン>』(1992-1995)では、旋律は第一番と類似するが、より明快になり、響きは乾いたものになる。単一楽章で約40分という大作である。
米グラミー賞を4回獲得し、日本において2004年に高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門)を受賞している。
晩年は闘病生活を送っており、2020年3月29日、ポーランド南部クラクフの自宅で死去した。86歳没。
葬儀[編集]
2年遅れでクラコフで国葬が聖ペテロ・聖パウロ教会でで開催された、葬儀にはエルツビエタ夫人や親族のほか、アンジェイ・ドゥダ大統領ら閣僚が多数参列した。現地メディアの報道によると、作曲家から作品の献呈を受け、25年来の友人でもあったヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターが、バッハ=グノーの「アヴェ・マリア」を演奏したとされる。 ミサの終了後、作曲家の遺灰を納めた骨壷は、国立パンテオンの地下室に安置された。 代表作は「広島の犠牲者に捧げる哀歌」など150以上のオーケストラ作品や器楽コンチェルト、4つのオペラ、8つの交響曲を作曲した。『バロック様式による3つの小品』の1曲目のアリアは哀愁に満ちたメロディー、わかりやすい古典的な和音進行で、しばしば演奏される。 ヴォイチェフ・ポラック大司教は「音楽界全体が音楽が人生をより良くすると信じていた人物に別れを告げている」と述べた。
受賞[編集]
- 1977年、ヘルダー賞
- 1988年、グラミー賞 クラシック現代作品部門(交響曲第3番)
- 2004年、第16回高松宮殿下記念世界文化賞
- 2005年、白鷹騎士団勲章
- 2011年、ヴィアドリナ賞
- 2014年、テッラ・マリアナ十字勲章