「相原貞三尼」の版間の差分

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'''相原 貞三尼'''(あいはら ていさんに、[[1792年]] - [[1865年]])は、[[淘宮術]]の創始者・[[横山丸三]]の直弟子。免許皆伝を受けた6人のうちの1人。{{Sfn|大井|1868|p=13}}
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'''相原 貞三尼'''(あいはら ていさんに、[[1793年]] - [[1865年]])は、[[淘宮術]]の創始者・[[横山丸三]]の直弟子。免許皆伝を受けた6人のうちの1人。{{Sfn|大井|1868|p=13}}
  
推定寛政4年(1792)生まれ{{Sfn|大井|1868|p=38}}。日高氏に生まれた{{Sfn|大井|1868|p=38}}。[[両国]]の割烹料理屋の娘だった{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘道』による。}}。
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寛政5年(1793)生まれ{{Sfn|大井|1868|p=38}}。日高氏に生まれた{{Sfn|大井|1868|p=38}}。[[両国]]の[[割烹料理屋]]の娘だった{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘道』による。}}。
  
 
浅草[[蔵前]]で{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘道』による。}}[[札差]]「上総屋」を経営していた相原随岸に嫁いだ{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
 
浅草[[蔵前]]で{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘道』による。}}[[札差]]「上総屋」を経営していた相原随岸に嫁いだ{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
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天保6年(1835)、43歳のとき、天源淘宮学を称していた横山に入門{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
 
天保6年(1835)、43歳のとき、天源淘宮学を称していた横山に入門{{Sfn|大井|1868|p=38}}。
  
寛政5年癸丑(嘉永6癸丑・1853?)皆伝を許され、'''陽気庵貞讃'''と号す。のちに「(貞)三」と改めた。{{Sfn|大井|1868|p=38}}
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年月日不詳で、皆伝を許され、'''陽気庵貞讃'''と号す。のちに「(貞)三」と改めた。{{Sfn|大井|1868|p=38}}
  
 
慶応元年(1865)4月14日没。享年73。法名「祥徳院殿讃日詠法尼」。{{Sfn|大井|1868|p=38}}
 
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相原 貞三尼(あいはら ていさんに、1793年 - 1865年)は、淘宮術の創始者・横山丸三の直弟子。免許皆伝を受けた6人のうちの1人。[1]

寛政5年(1793)生まれ[2]。日高氏に生まれた[2]両国割烹料理屋の娘だった[3]

浅草蔵前[3]札差「上総屋」を経営していた相原随岸に嫁いだ[2]

天保6年(1835)、43歳のとき、天源淘宮学を称していた横山に入門[2]

年月日不詳で、皆伝を許され、陽気庵貞讃と号す。のちに「(貞)三」と改めた。[2]

慶応元年(1865)4月14日没。享年73。法名「祥徳院殿讃日詠法尼」。[2]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 大井 1868 13
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 大井 1868 38
  3. 3.0 3.1 藤田 2019 352 - 日本淘道会『淘道』による。

参考文献[編集]

  • 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
  • 藤田 (2019) 藤田英昭「幕末維新期の大奥と『淘宮術』」『論集大奥人物研究』東京堂出版、pp.345-371、ISBN 978-4490210200