「狩野友信」の版間の差分

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[[1843年]]に江戸の築地で生まれる。[[江戸狩野四家]]の一つ浜町狩野家第8代、狩野董川中信の長男であった。母は『徳川実紀』を編纂した幕府の奥儒者成島司直の娘の歌子。1854年(嘉永6年)3月、11歳のとき従兄弟に当たる狩野雅信の絵所に入り、7年間修行する。1859年、16 歳のとき将軍[[徳川家茂]]により奥絵師に任用された。江戸城本丸の杉戸絵 10 枚、屏風 5 双、掛物 3 幅、和宮を迎える待受調度品として屏風 1 双、掛物 2 幅、ほかに西の丸の杉戸絵 15 枚、小襖 2 通などを制作した。1859 年(安政6年)に、英米両国へ送付する掛物絵 15 幅を制作する。幕府の命により開成所に入学して二年間洋画を修行し、翌年より[[川上冬崖]]に三年間、チャールズ・ワーグマンに二年間師事し、 洋画を学んだ。
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[[1843年]]に江戸の築地で生まれる。[[江戸狩野四家]]の一つ浜町狩野家第8代、狩野董川中信の長男であった。母は『徳川実紀』を編纂した幕府の奥儒者成島司直の娘の歌子。1854年(嘉永6年)3月、11歳のとき従兄弟に当たる狩野雅信の絵所に入り、橋本雅邦、加納芳崖等とともに7年間修行する。1859年、16 歳のとき将軍[[徳川家茂]]により奥絵師に任用された。江戸城本丸の杉戸絵 10 枚、屏風 5 双、掛物 3 幅、和宮を迎える待受調度品として屏風 1 双、掛物 2 幅、ほかに西の丸の杉戸絵 15 枚、小襖 2 通などを制作した。1859 年(安政6年)に、英米両国へ送付する掛物絵 15 幅を制作する。幕府の命により開成所に入学して二年間洋画を修行し、翌年より[[川上冬崖]]に三年間、チャールズ・ワーグマンに二年間師事し、 洋画を学んだ。
 
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[[1870年]](明治3年9月、民部省より準十五等出仕図籍掛を命じられる。1872年から大蔵省租税寮に出仕。1881年(明治14年)東京大学予備門の助教諭(画学教師)となる。東京大学予備門で画学を教えることになった背景には、幕末の洋画修行がある。1885年(明治18年)9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「羅漢」を出品し、四等賞を得て金五円を授与される。
 
[[1870年]](明治3年9月、民部省より準十五等出仕図籍掛を命じられる。1872年から大蔵省租税寮に出仕。1881年(明治14年)東京大学予備門の助教諭(画学教師)となる。東京大学予備門で画学を教えることになった背景には、幕末の洋画修行がある。1885年(明治18年)9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「羅漢」を出品し、四等賞を得て金五円を授与される。
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狩野友信翁は先月、愛女の嫁ぎ先である水戸市に赴きたる際、同家にて中風症を発し、直ちに帰京して本郷区駒込富士見前町の自宅に静養中のところ、遂に十五日午後三時逝去せり。葬儀は行列を廃し二十一日仏式染井墓地にて執行する由(明治45年7月19日、東京朝日新聞)<ref name=news1>新聞集成明治編年史編纂会編(1940)『新聞集成明治編年史. 第十四卷』林泉社</ref>。
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2021年10月17日 (日) 21:58時点における最新版

狩野友信(かのう とものぶ, 旧暦天保14年3月25日(1843年4月24日) - 明治45年(1912年)7月15日)は幕末から明治に活動した狩野派の絵師。江戸幕府の奥絵師。号は春川、一青斎。

概要[編集]

江戸時代[編集]

1843年に江戸の築地で生まれる。江戸狩野四家の一つ浜町狩野家第8代、狩野董川中信の長男であった。母は『徳川実紀』を編纂した幕府の奥儒者成島司直の娘の歌子。1854年(嘉永6年)3月、11歳のとき従兄弟に当たる狩野雅信の絵所に入り、橋本雅邦、加納芳崖等とともに7年間修行する。1859年、16 歳のとき将軍徳川家茂により奥絵師に任用された。江戸城本丸の杉戸絵 10 枚、屏風 5 双、掛物 3 幅、和宮を迎える待受調度品として屏風 1 双、掛物 2 幅、ほかに西の丸の杉戸絵 15 枚、小襖 2 通などを制作した。1859 年(安政6年)に、英米両国へ送付する掛物絵 15 幅を制作する。幕府の命により開成所に入学して二年間洋画を修行し、翌年より川上冬崖に三年間、チャールズ・ワーグマンに二年間師事し、 洋画を学んだ。

明治時代[編集]

1870年(明治3年9月、民部省より準十五等出仕図籍掛を命じられる。1872年から大蔵省租税寮に出仕。1881年(明治14年)東京大学予備門の助教諭(画学教師)となる。東京大学予備門で画学を教えることになった背景には、幕末の洋画修行がある。1885年(明治18年)9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「羅漢」を出品し、四等賞を得て金五円を授与される。 1891年(明治24年)8月、東京美術学校(現東京芸大)助教授となり、狩野派の画法を教える。1896年(明治29年)4月に大学を退官し、その後は東京聾唖学校の教諭となって亡くなるまで勤務した。 1912年(明治45年)7月15日水戸を漫遊中脳溢血により死去。70歳没。

逝去時報道[編集]

狩野友信翁は先月、愛女の嫁ぎ先である水戸市に赴きたる際、同家にて中風症を発し、直ちに帰京して本郷区駒込富士見前町の自宅に静養中のところ、遂に十五日午後三時逝去せり。葬儀は行列を廃し二十一日仏式染井墓地にて執行する由(明治45年7月19日、東京朝日新聞)[1]

逸話[編集]

平素は謡曲・狂歌を楽しみ、明治45年6月29日、古希の宴を開催したとき、紙を広げて女達磨を描いたのが絶筆になったという[1]

作品[編集]

「平治合戦」は博覧会事務局から帝国美術館(現東京国立博物館)に引き継がれた友信の代表作とされている。その技量に関しては、父祖の風を守るに止まったと評される。

作品 所蔵 製作年 寸法 技法 指定
羅漢 東京芸術大学大学美術館 1885年 185.6×83.9 掛幅装,絹本着色
平治合戦 東京国立博物館 1893年(明治26年) 99.5×160.6 絹本着色
山水図 東京国立博物館 明治時代 165.2×83.5 絹本墨画
枯木鴛鴦 東京芸術大学大学美術館 75.0×86.9 表具長200.0 軸幅114.4 掛幅装,絹本着色
山水図 フィラデルフィア美術館 43.4 x 72.1 cm 紙本墨画
僧と小がらす 神奈川県立近代美術館 1895年 21.8×31.0 木版、紙
花鳥図・生花図(Flowers and Birds) エルミタージュ美術館 19th century 131.6x56.6 cm roll on silk

弟子[編集]

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  1. 1.0 1.1 新聞集成明治編年史編纂会編(1940)『新聞集成明治編年史. 第十四卷』林泉社