「住友ボルネオ殖産」の版間の差分
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+ | 1942年9月頃、軍政要員がまだ少なかった頃、S社社員だった[[保田克己]]は[[ポンチアナク州]]の米田知事の依頼で[[クタパン県]]の知事を務めた{{Sfn|赤道会|1975|p=76}}。 | ||
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+ | 1945年6月下旬、保田を含むS社社員3人は、西ボルネオ北部の[[ダリット]]で、同地が[[連合軍]]上陸時の疎開先となることを想定して、作戦地帯の宣撫工作と半年間持ちこたえるだけの食糧の準備を担当することになり、製塩をしていた[[パシルパンジャン (メンパワ)|パシルパンジャン]]から[[塩]]を搬入し、周辺の[[ダイヤ族]]の部落にあった[[杏]]の実を[[人絹布]]と交換して入手し、[[梅干]]様の塩漬けを製造した{{Sfn|赤道会|1976|pp=5-6}}。また[[郡長]]を通じて各部落から[[米]]を供出させ、ダイヤ族の部落に野菜の種子を配布して野菜を栽培させた{{Sfn|赤道会|1976|pp=6-7}}。 | ||
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+ | そのうちに社員2人が[[現地召集]]を受けてポンチアナクの[[榊原部隊]]に編入され、保田が1人で設営を続けた{{Sfn|赤道会|1976|p=7}}。 | ||
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+ | 同年7月に現地召集された同社社員の土持則雄は、[[中島部隊]]の司令部付兼[[玉田部隊]]配属となり、[[ガバン|ナバン]]から玉田部隊が司令部を置いた[[スリンブー|スリンボウ]]へ糧秣を輸送。同年8月12日に[[第一特務機関]]のスリンボウ支部長に任じられ、終戦後もしばらくナバンや[[ジャタ]]の周辺で活動を続けていた。{{Sfn|赤道会|1975|p=76}} | ||
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+ | *{{Aya|赤道会|year=1976}} ポンチアナク赤道会『続赤道標』{{JPNO|73015036}} | ||
*{{Aya|赤道会|year=1975}} ポンチアナク赤道会『赤道標』{{JPNO|73012073}} | *{{Aya|赤道会|year=1975}} ポンチアナク赤道会『赤道標』{{JPNO|73012073}} | ||
2020年6月22日 (月) 20:43時点における最新版
住友ボルネオ殖産(すみともボルネオしょくさん)は、日本占領下の西ボルネオで活動していた日本の商社。
ポンチアナク市を拠点として、カプアス河上流のシンタンから南のカンダワンガンに至る広い地域で林業業務を展開[1]。
また1943年中頃に南洋興発に業務を引き継ぐまで、野村東印度殖産とともにコプラの集荷事業に携わっていた[2]。
1942年9月頃、軍政要員がまだ少なかった頃、S社社員だった保田克己はポンチアナク州の米田知事の依頼でクタパン県の知事を務めた[3]。
1945年6月下旬、保田を含むS社社員3人は、西ボルネオ北部のダリットで、同地が連合軍上陸時の疎開先となることを想定して、作戦地帯の宣撫工作と半年間持ちこたえるだけの食糧の準備を担当することになり、製塩をしていたパシルパンジャンから塩を搬入し、周辺のダイヤ族の部落にあった杏の実を人絹布と交換して入手し、梅干様の塩漬けを製造した[4]。また郡長を通じて各部落から米を供出させ、ダイヤ族の部落に野菜の種子を配布して野菜を栽培させた[5]。
そのうちに社員2人が現地召集を受けてポンチアナクの榊原部隊に編入され、保田が1人で設営を続けた[6]。
同年7月に現地召集された同社社員の土持則雄は、中島部隊の司令部付兼玉田部隊配属となり、ナバンから玉田部隊が司令部を置いたスリンボウへ糧秣を輸送。同年8月12日に第一特務機関のスリンボウ支部長に任じられ、終戦後もしばらくナバンやジャタの周辺で活動を続けていた。[3]