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'''リマウ作戦'''(リマウさくせん)は、[[1944年]]10月に、英国陸軍の{{仮リンク|イバン・ライアン|en|Ivan Lyon}}中佐ら英濠軍の特殊部隊([[:en:Z Special Unit]])が、日本軍が占領統治していた昭南特別市([[シンガポール]])の昭南港で、前年の[[ジェイウィック作戦]]に続いて2度目の日本艦船爆破を計画した作戦。「リマウ」はマレー語で「虎」を意味するため、'''虎作戦'''とも呼ばれる。日本の監視船に発見されて計画は未遂に終わり、日本軍との戦闘でライアン中佐らは戦死、隊員10人が捕虜となった。捕虜は1945年7月にシンガポールで開かれた日本軍の軍律裁判により全員処刑された。<ref>この記事の主な出典は、遠藤(1996)および篠崎(1976) 196-203頁。</ref>
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[[画像:Australian War Memorial P01447 001.JPG|thumb|西濠の基地でリマウ作戦に向けて2艘の"眠れる美女"を載せた小型船「ポンポン」号で訓練をするZ特殊部隊の隊員]]
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'''リマウ作戦'''(リマウさくせん)は、[[1944年]]10月に、英国陸軍の{{仮リンク|イバン・ライアン|en|Ivan Lyon}}中佐ら英濠軍の特殊部隊([[:en:Z Special Unit]])が、[[日本軍占領下のシンガポール]]の[[シンガポール港]]で、前年の[[ジェイウィック作戦]]に続いて2度目の日本艦船爆破を計画した作戦。「リマウ」はマレー語で「虎」を意味するため、'''虎作戦'''とも呼ばれる。日本の監視船に発見されて計画は未遂に終わり、日本軍との戦闘でライアン中佐らは戦死、隊員10人が捕虜となった。捕虜は日本軍の軍律裁判により死刑判決を受け、1945年7月にシンガポールで全員処刑された。
  
 
== リマウ作戦 ==
 
== リマウ作戦 ==
[[File:Australian War Memorial P01447 001.JPG|thumb|西濠の基地でリマウ作戦に向けて2艘の"眠れる美女"を載せた小型船「ポンポン」号で訓練をするZ特殊部隊の隊員]]
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1944年3月以降、前年9月の[[ジェイウィック作戦]]の成功を受けて、[[イギリス]][[特殊作戦執行部]]は{{仮リンク|イバン・ライアン|en|Ivan Lyon}}中佐と作戦会議を重ね、[[シンガポール]]の日本軍を攻撃対象とする2度目のゲリラ的な破壊活動「リマウ作戦」(リマウは[[マレー語]]で「虎」の意{{Sfn|遠藤|1996|p=71}})の実行を決めた。隊長のライアン中佐を含めて23人の隊員が作戦に参加した。{{Sfn|遠藤|1996|pp=67-74}}
1944年3月以降、前年9月の[[ジェイウィック作戦]]の成功を受けてイギリスの[[特殊作戦執行部]]は{{仮リンク|イバン・ライアン|en|Ivan Lyon}}中佐と作戦会議を重ね、シンガポールを攻撃対象とする2度目のゲリラ的な破壊活動「リマウ<ref>マレー語で「虎」の意味(遠藤(1996) 71頁)。</ref>作戦」の実行を決めた<ref>遠藤(1996) 67-74頁</ref>。隊長のライアン中佐を含めて23人の隊員が作戦に参加した<ref>遠藤(1996) 67-74頁</ref>。
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リマウ作戦では、攻撃目標とする船舶に[[リムペットマイン|リムペット(吸着爆弾)]]を取り付ける作業を超小型の特殊潜水艇<ref>1942年5月の日本軍による[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]の際に、シドニー湾を襲撃して自爆した日本の[[特殊潜航艇]]を引揚げて、それを見本として魚雷を装備せず機雷設置を行うための潜水艇を開発したもので(篠崎(1976) 196頁)、本来の英名「Submergible Boat」から「Sleeping Beauty(眠れる美女)」の愛称で呼ばれていた(遠藤(1996) 69頁、篠崎(1976) 196頁)。</ref>を用いて行い、潜水艦でシンガポールに接近した後、特殊潜水艇を運ぶ船を現地調達する計画だった<ref>遠藤(1996) 67-74頁</ref>。
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リマウ作戦では、潜水艦でシンガポールに接近した後、船を現地調達して[[シンガポール港]]に入り、超小型の特殊潜水艇を使用して攻撃目標とする船舶に[[リムペットマイン|リムペット(吸着爆弾)]]を取り付ける計画だった{{Sfn|遠藤|1996|pp= 67-74}}。
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*特殊潜水艇は、本来の英名「Submergible Boat」から「Sleeping Beauty(眠れる美女)」の愛称で呼ばれていた{{Sfn|遠藤|1996|p=69}}{{Sfn|篠崎|1976|p=196}}。
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同年9月14日{{Sfn|遠藤|1996|pp=74-78}}{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=151,162は、9月11日、としている。}}、ライアン中佐ら23人の決死隊員と超小型潜水艇の開発者で英国陸軍のチャップマン少佐は、{{仮リンク|西オーストラリア州・ガーデン島|en|Garden Island (Western Australia)}}の軍港{{Sfn|遠藤|1996|pp=74-78}}{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=151。同書p.162の引用文中では、[[パース (西オーストラリア州)|西オーストラリア州パース]]から出港したとされている。}}を潜水艦「[[ポーパス (SS-172)|ポーパス]]」号で出港し、同月23日に{{仮リンク|メラパス島|en|Merapas Island}}に到着、中継基地を設営した{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=151-152,162}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=74-78}}
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ライアン中佐らは、メラパス島の南270キロにあるペジャンタン(Pejantan)島<ref group="map">{{Coord|0.121966|N|107.221584|E|name=ペジャンタン(Pejantan)島}}</ref>周辺で[[プラウ (船)|プラウ]]を鹵獲して「ムスティカ(Mustika)」号と名付け、以後、この船で現地船を装って移動した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=152}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=78-80}}。
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*その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=152}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=78-80}}
  
1944年9月14日<ref>遠藤(1996) 74-78頁。ブラッドリー(2001) 151,162頁では「9月11日」</ref>、ライアン中佐ら23人の決死隊員と超小型潜水艇の開発者で英国陸軍のチャップマン少佐は、{{仮リンク|西オーストラリア州・ガーデン島|en|Garden Island (Western Australia)}}の軍港<ref>遠藤(1996)74-78頁、ブラッドリー(2001)151頁。ブラッドリー(2001)162頁の引用文中では「[[パース (西オーストラリア州)|西オーストラリア州パース]]」。</ref>を潜水艦「[[ポーパス (SS-172)|ポーパス]]」号で出港し、同月23日に{{仮リンク|メラパス島|en|Merapas Island}}に到着、中継基地を設営した<ref>ブラッドリー(2001)151-152,162頁、遠藤(1996) 74-78頁。</ref>。ライアン中佐らは、メラパス島の南270キロにあるペジャンタン(Pejantan)島<ref>{{Coord|0.121966|N|107.221584|E|name=ペジャンタン(Pejantan)島}}</ref>周辺で[[プラウ (船)|プラウ]]を鹵獲して「ムスティカ(Mustika)」号と名付け、以後この船で現地船を装って移動した<ref>ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁</ref><ref>その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁)</ref>。
 
 
== 作戦の失敗 ==
 
== 作戦の失敗 ==
 
{{GeoGroup|article=リマウ作戦}}
 
{{GeoGroup|article=リマウ作戦}}
同年10月5日、ライアン中佐はメラパス島に隊員4人を残し、残りの隊員19人で作戦決行のためムスティカ号でシンガポールへ出発した<ref>遠藤(1996) 81頁</ref>。同月10日、カス(Kasu)島<ref>{{Coord|1.073507|N|103.823762|E|name=カス(Kasu)島}}</ref>近くで風待ちをしていたところ、同島にあった水上警察詰所の[[兵補]]に見咎められ、接近してきた警備艇を銃撃してマレー人の兵補3人を殺害することとなった<ref>遠藤(1996) 84-86,145頁</ref>。ライアン中佐は計画の失敗と中止を宣言し、ゴムボートに乗り移った後、ムスティカ号を爆破し沈没させた<ref>遠藤(1996) 86-87頁。このとき生き残ったマレー人の兵補が11日に事件をブランカン(Belakang)島({{Coord|1.149705|N|103.884879|E|name=ブランカン(Belakang)島}})の係官に連絡したが、係官から憲兵隊本部への連絡は2日ほど遅れたとされる(遠藤(1996) 90頁)。<!--遠藤(1996) 145頁に「10月13日に第7方面軍司令部に緊急情報が入った」とあるが、この連絡がブランカン島からの連絡だったのか、後述するパンキル島からの連絡だったのかは不明。--></ref>。
 
<!--以下の「日本船3隻を爆破した」という話は遠藤(1996)にあり、wikipediaのen版にもあるが、篠崎(1976)やブラッドリー(2001)およびその他の邦語文献に出てこない:ライアン中佐は、ペイジ大尉ら隊員12人にメラパス島へ戻るように命じた後、残りの5人でスバール(Subar)島へ向かい、別行動をとっていた隊員2人と合流すると、10月11日午前3時頃にカヌーでシンガポール港の外部防護施設内に潜入し、停泊中の日本船3隻にリンペットを仕掛け、爆破したとされる<ref>遠藤(1996) 88-91頁</ref>。-->
 
  
10月14日、ライアン中佐ら7人がメラパス島へ戻る途中で日本軍の情報を得ようとパンキル(Pangkil)島<ref>{{Coord|0.831541|N|104.359517|E|name=パンキル(Pangkil)島}}</ref>に立ち寄った際に、島の酋長が日本軍に通報し、16日にソレ(Soreh)島<ref>{{Coord|0.858275|N|104.387798|E|name=ソレ(Soreh)島}}</ref>で日本軍の討伐隊の攻撃を受けてライアン中佐ら2人が銃撃戦の末に戦死、18日には銃撃戦で負傷した別の隊員2人がタパイ(Tapai)島<ref>{{Coord|0.774824|N|104.433450|E|name=タパイ(Tapai)島}}</ref>で死亡しているのが発見された<ref>遠藤(1996) 90-102,146頁。</ref><ref>ソレ島の銃撃戦では日本軍の兵士4名が戦死、数名が負傷した(遠藤(1996) 146頁)。</ref><ref>残る隊員のうち2人はメラパス島へ戻り(遠藤(1996) 106-107頁)、1人は行方不明となって後に日本軍に逮捕された(遠藤(1996) 111頁)。</ref>。
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1944年10月5日、ライアン中佐はメラパス島に隊員4人を残し、残りの隊員19人で作戦決行のためムスティカ号でシンガポールへ出発した{{Sfn|遠藤|1996|p=81}}。同月10日、カス(Kasu)島<ref group="map">{{Coord|1.073507|N|103.823762|E|name=カス(Kasu)島}}</ref>近くで風待ちをしていたところ、同島にあった水上警察詰所の[[兵補]]に見咎められ、接近してきた警備艇を銃撃して[[マレー人]]の兵補3人を殺害することとなった{{Sfn|遠藤|1996|pp=84-86,145}}。ライアン中佐は計画の失敗と中止を宣言し、ゴムボートに乗り移った後、ムスティカ号を爆破し沈没させた{{Sfn|遠藤|1996|pp=86-87}}。
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*このとき生き残ったマレー人の兵補が11日に事件をブランカン(Belakang)島<ref group="map">{{Coord|1.149705|N|103.884879|E|name=ブランカン(Belakang)島}}</ref>の係官に連絡したが、係官から憲兵隊本部への連絡は2日ほど遅れたとされる{{Sfn|遠藤|1996|p=90。同書 p.145に「10月13日に第7方面軍司令部に緊急情報が入った」とあるが、この連絡がブランカン島からの連絡だったのか、後述するパンキル島からの連絡だったのかは不明。}}。
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*{{Harvtxt|遠藤|1996|pp= 88-91}}は、ライアン中佐は、ペイジ大尉ら隊員12人にメラパス島へ戻るように命じた後、残りの5人でスバール(Subar)島<ref group="map">{{Coord|1.145458|N|103.830768|E|name=スバール(Subar)島}}</ref>へ向かい、別行動をとっていた隊員2人と合流すると、10月11日午前3時頃にカヌーでシンガポール港の外部防護施設内に潜入し、停泊中の日本船3隻にリンペットを仕掛け、爆破した、としている。{{Harvtxt|篠崎|1976}}および{{Harvtxt|ブラッドリー|2001}}には、この件に言及がない。
  
死亡した4人と行方不明になった隊員1人を除く18人の隊員は、10月末にはメラパス島の基地に戻り、同年11月8日に潜水艦が迎えに来るのを待っていたところ、11月3日に、たまたま日本軍の小型の軍用機が機体のトラブルで[[ビンタン島]]のキジャン(Kijang)に不時着する事故があり、事故の連絡を受けた日本軍が特殊部隊の関与を疑ってメラパス島を捜索、隊員を発見して銃撃戦となり、隊員2人が死亡した<ref>遠藤(1996) 102-106,146-147頁。</ref>。
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同月14日、ライアン中佐ら7人がメラパス島へ戻る途中で日本軍の情報を得ようとパンキル(Pangkil)島<ref group="map">{{Coord|0.831541|N|104.359517|E|name=パンキル(Pangkil)島}}</ref>に立ち寄った際に、島のアミール(酋長)が日本軍に通報し、16日にソレ(Soreh)島<ref group="map">{{Coord|0.858275|N|104.387798|E|name=ソレ(Soreh)島}}</ref>で日本軍の討伐隊の攻撃を受けてライアン中佐ら2人が銃撃戦の末に戦死、18日には銃撃戦で負傷した別の隊員2人がタパイ(Tapai)島<ref group="map">{{Coord|0.774824|N|104.433450|E|name=タパイ(Tapai)島}}</ref>で死亡しているのが発見された{{Sfn|遠藤|1996|pp=90-102,146}}
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*ソレ島の銃撃戦では日本軍の兵士4名が戦死、数名が負傷した{{Sfn|遠藤|1996|p=146}}。
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*残る隊員のうち2人はメラパス島へ戻り{{Sfn|遠藤|1996|pp=106-107}}、1人は行方不明となって後に日本軍に逮捕された{{Sfn|遠藤|1996|p=111}}
  
残る隊員16人はメラパス島を脱出してマポール(Mapur)島<ref>{{Coord|0.989750|N|104.828796|E|name=マポール(Mapur)島}}</ref>に潜伏していたが、12月初旬になっても潜水艦と合流できなかったため、数人のグループに分かれて第2の基地があったポンポン(Pompong)島<ref>{{Coord|1.135873|N|103.827109|E|name=ポンポン(Pompong)島}}</ref>を目指した<ref>遠藤(1996) 106-108頁。潜水艦「ポーパス」でオーストラリアに戻っていたチャップマン少佐は、1944年10月16日に「{{仮リンク|タンタラス (潜水艦)|label=潜水艦「タンタラス」|en|HMS Tantalus (P318)}}で隊員救出のため[[フリーマントル (西オーストラリア州)|西オーストラリアのフリーマントル]]港を出港しメラパス島へ向かったが、隊員と合流できずに同年12月6日に帰港した(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996)107-108頁)。タンタラス号は攻撃的巡回も任務としており、「リマウ」隊員との待合せ予定日の11月8日になってもまだ魚雷等が残っていたため、救出の日程を一方的に11月21-22日に延期して攻撃的巡回を続けていた(ブラッドリー(2001)152-153頁、遠藤(1996)107-108頁)。帰港後の調査でチャップマン少佐が予定の救出の場所・日程を守っておらず、隊員の合図を見落とすなどの違反行為があったことが判明したが、隊員が日本軍に逮捕されたことが伝わると、違反行為の問題はうやむやになった(遠藤(1996) 216-218頁)。1964年になって、ある歴史研究家が本人にこの問題を追及したところ、チャップマンは自殺した(遠藤(1996) 216,218頁)。</ref>。しかし3人はボルネオ方面で日本軍との戦闘で死亡し<ref>遠藤(1996) 109-110頁</ref>、12月下旬にポンポン島近くのボアジャ(Buaja)島<ref>{{Coord|0.177083|N|104.222593|E|name=ボアジャ(Buaja)島}}</ref>で3人<ref>このうち、負傷しながら逃亡していたマーシュ一等兵は12月末に逮捕されたが高熱で意識障害を起こし、翌1945年1月11日にシンガポールの憲兵隊本部の医務室で死亡した(遠藤(1996) 110頁)</ref>、セラジャール(Selajar)島<ref>{{Coord|0.299376|S|104.448395|E|name=セラジャール(Selajar)島}}</ref>で1人(ペイジ中尉)が逮捕され<ref>遠藤(1996) 10-111頁</ref>、<!--{{仮リンク|シンゲップ|en|Singkep}}島で?-->この他の隊員6人も逮捕された<ref>遠藤(1996) 111,147-148頁</ref><ref>ブラッドリー(2001)163頁および篠崎(1976)198頁では、生存者は{{仮リンク|シンゲップ|en|Singkep}}警察署から昭南水上憲兵隊(シンガポールのケッペル波止場にあった(篠崎(1976) 41頁、遠藤(1996) 143頁))に護送された、としており、遠藤(1996)はシトク(Setoko)島({{Coord|0.944138|N|104.062178|E|name=シトク(Setoko)島}})に連行されたとしている(148頁)。</ref>
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死亡した4人と行方不明になった隊員1人を除く18人の隊員は、10月末にはメラパス島の基地に戻り、同年11月8日に迎えに来る予定だった潜水艦を待っていたところ、同年11月3日に、たまたま日本軍の小型の軍用機が機体のトラブルで[[ビンタン島]]のキジャン(Kijang)に不時着する事故があり、事故の連絡を受けた日本軍が特殊部隊の関与を疑ってメラパス島を捜索、隊員を発見して銃撃戦となり、隊員2人が死亡した{{Sfn|遠藤|1996|pp=102-106,146-147}}。
  
こうしてリマウ隊員23人のうち10人が戦死し、10人が逮捕され、3人は行方不明となった<ref>遠藤(1996) 111頁</ref><ref>戦後チモール方面で捕まった日本兵の戦犯裁判の記録から、行方不明となった隊員3人はなおも南下を続け、カタポンガン島で高熱で意識障害を起こしたウォーン一等兵が脱落し、その後意識を回復して[[マカッサル]]へ下ったものの、日本軍に捕獲され、他の連合国軍の捕虜と共に第二南海方面艦隊付きの軍医の生体実験の実験台になり、スラバヤの海軍病院で死亡したこと、ウイラーズドルフ准尉とペイス上等兵の2人は、ロマン(Romang)島({{Coord|7.543807|S|127.403273|E|name=ロマン(Romang)島}})で日本軍に捕えられ、拷問にかけられた後放置されて死亡していたことが分かっている(遠藤(1996) 111-113頁)。</ref>
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残る隊員16人はメラパス島を脱出してマポール(Mapur)島<ref group="map">{{Coord|0.989750|N|104.828796|E|name=マポール(Mapur)島}}</ref>に潜伏していたが、12月初旬になっても潜水艦と合流できなかったため、数人のグループに分かれて第2の基地があったポンポン(Pompong)島<ref group="map">{{Coord|1.135873|N|103.827109|E|name=ポンポン(Pompong)島}}</ref>を目指した{{Sfn|遠藤|1996|pp=106-108}}。
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*潜水艦「ポーパス」でオーストラリアに戻っていたチャップマン少佐は、1944年10月16日に{{仮リンク|タンタラス (潜水艦)|label=潜水艦「タンタラス」|en|HMS Tantalus (P318)}}で隊員救出のため[[フリーマントル (西オーストラリア州)|西オーストラリアのフリーマントル]]港を出港しメラパス島へ向かったが、隊員と合流できずに同年12月6日に帰港した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=152}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=107-108}}
  
== 軍律裁判 ==
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:タンタラス号は攻撃的巡回も任務としており、「リマウ」隊員との待合せ予定日の11月8日になってもまだ魚雷等が残っていたため、救出の日程を一方的に11月21-22日に延期して攻撃的巡回を続けていた{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=152-153}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=107-108頁}}。
日本軍は、1942年5月の[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]の際に、戦死した特殊潜航艇の乗組員に対して、濠州側がその勇敢な行動を称賛し丁重な海軍葬を以て報いたことを意識して、捕虜となった隊員を厚遇した<ref>篠崎(1976) 199頁。</ref><ref>捕虜6人を迎えた水上憲兵隊の隊長は、身なりを整えさせるなど異例の対応を行い、第7方面軍から通訳として派遣されてきた[[古田博之]]の助言を受けて丁寧な訊問を行い、初期調査は2ヶ月という異例の長さで行われた(遠藤(1996) 142-159頁)。水上憲兵隊での初期調査の後、1945年3月に隊員はオートラム刑務所に移されたが、ここでも他の囚人や捕虜とは別の特別室に移され、書籍や甘味、特別食が与えられ、世話係として古田通訳がつけられた(篠崎(1976)199頁、遠藤(1996)142-159,194頁)。</ref>
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:帰港後の調査でチャップマン少佐が予定の救出の場所・日程を守っておらず、隊員の合図を見落とすなどの違反行為があったことが判明したが、隊員が日本軍に逮捕されたことが伝わると、違反行為の問題はうやむやになった{{Sfn|遠藤|1996|pp=216-218}}。
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:1964年になって、ある歴史研究家が本人にこの問題を追及したところ、チャップマンは自殺した{{Sfn|遠藤|1996|pp=216,218}}
  
水上憲兵隊から報告を受けたシンガポールの軍司令部では、隊員を戦時国際法に反した犯罪者として軍律裁判で裁くか<ref>その場合、隊員は間違いなく死刑になると予想された(遠藤(1996) 165頁)</ref>、あるいは彼等の行為を戦時下の戦闘行為として認め、捕虜として収容所に送るかで意見が分かれたが、第7方面軍法務部の[[神谷春雄]]少佐は前者を主張し、事件を法的に再検証することになった<ref>遠藤(1996) 159頁</ref>
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しかし、うち3人は[[ボルネオ]]方面で日本軍との戦闘で死亡し{{Sfn|遠藤|1996|pp=109-110}}、12月下旬にポンポン島近くのボアジャ(Buaja)島<ref group="map">{{Coord|0.177083|N|104.222593|E|name=ボアジャ(Buaja)島}}</ref>で3人<ref>3人のうち、負傷しながら逃亡していたマーシュ一等兵は12月末に逮捕されたが、高熱で意識障害を起こし、翌1945年1月11日にシンガポールの憲兵隊本部の医務室で死亡した{{Harv|遠藤|1996|p=110}}。</ref>、セラジャール(Selajar)島<ref group="map">{{Coord|0.299376|S|104.448395|E|name=セラジャール(Selajar)島}}</ref>で1人(ペイジ中尉)が逮捕され{{Sfn|遠藤|1996|pp=10-111}}、({{仮リンク|シンゲップ|en|Singkep}}島で?)この他の隊員6人も逮捕された{{Sfn|遠藤|1996|pp=111,147-148}}。
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*{{Harvtxt|ブラッドリー|2001|p=163}}および{{Harvtxt|篠崎|1976|p=198}}は、生存者は{{仮リンク|シンゲップ|en|Singkep}}警察署から[[昭南憲兵隊#水上憲兵隊|昭南水上憲兵隊]]<ref>シンガポールのケッペル波止場にあった({{Harvnb|篠崎|1976|p=41}}、{{Harvnb|遠藤|1996|p=143}})。</ref>に護送された、としており、{{Harvtxt|遠藤|1996|p=148}}は、シトク(Setoko)島<ref group="map">{{Coord|0.944138|N|104.062178|E|name=シトク(Setoko)島}}</ref>に連行されたとしている。
  
1945年4月中に神谷少佐は再調査を終了し、「日本国旗を掲げ原住民に扮して日本占領地域内で行われた隊員の行動はスパイ行為にあたり、南方軍軍律第2条第1項第1節の『反逆、諜報活動の罪』の範疇に入る」と結論付けた<ref>5月末に南方軍総司令部の法務部長・日高少将の承認を受け、起訴が決定したため、軍律裁判の準備が進められた(遠藤(1996) 159-165頁)</ref>。
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こうしてリマウ隊員23人のうち10人が戦死し、10人が逮捕され、3人は行方不明となった{{Sfn|遠藤|1996|pp= 111}}。
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*戦後、[[チモール]]方面で捕まった日本兵の戦犯裁判の記録から、行方不明となった隊員3人はなおも南下を続け、[[カタポンガン島]]で高熱で意識障害を起こしたウォーン1等兵が脱落し、その後意識を回復して[[マカッサル]]へ下ったものの、日本軍に捕獲され、他の連合国軍の捕虜と共に[[第2南海方面艦隊]]付きの軍医の生体実験の実験台になり、[[スラバヤ]]の海軍病院で死亡したこと、ウイラーズドルフ准尉とペイス上等兵の2人は、ロマン(Romang)島<ref group="map">{{Coord|7.543807|S|127.403273|E|name=ロマン(Romang)島}}</ref>で日本軍に捕えられ、拷問にかけられた後、放置されて死亡していたことが分かっている{{Sfn|遠藤|1996|pp=111-113}}
  
1945年7月3日<ref>ブラッドリー(2001) 163頁および篠崎(1976) 199頁では7月5日</ref>から第7方面軍の軍事法廷が開かれ、検察官の神谷少佐は、「偽装裏切り行為(Perfidy Charge)」およびスパイ行為を起訴理由として被告人10人全員の銃殺刑を求刑し、求刑どおり判決が下された<ref>ブラッドリー(2001) 163-164頁、遠藤(1996) 167-193頁、篠崎(1976) 199-200頁</ref>。論告求刑の中で検察官は、隊員は決死的行動を行った英雄であるとし、その勇敢な行動を称賛した<ref>ブラッドリー(2001) 163-164頁、遠藤(1996) 190-192頁、篠崎(1976) 199-200頁</ref>
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== 軍律裁判 ==
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日本軍は、1942年5月の[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]の際に、戦死した特殊潜航艇の乗組員に対して、濠州側がその勇敢な行動を称賛し丁重な海軍葬を以て報いたことを意識して、捕虜となった隊員を厚遇した{{Sfn|篠崎|1976|p=199}}。
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*捕虜6人を迎えた水上憲兵隊の隊長は、身なりを整えさせるなど異例の対応を行い、[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]から通訳として派遣されてきた[[古田博之]]の助言を受けて丁寧な訊問を行い、初期調査は2ヶ月という異例の長さで行われた{{Sfn|遠藤|1996|pp=142-159}}。水上憲兵隊での初期調査の後、1945年3月に隊員は[[オートラム刑務所]]に移されたが、ここでも他の囚人や捕虜とは別の特別室に移され、書籍や甘味、特別食が与えられ、世話係として古田通訳がつけられた{{Sfn|篠崎|1976|p=199}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=142-159,194}}
  
軍司令部でも助命の機運が高まり、隊員に嘆願書の提出を促したが、隊員たちは軍法会議の決定に従うとしてこれを拒否した<ref>ブラッドリー(2001) 166頁、篠崎(1976)199頁</ref>
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水上憲兵隊から報告を受けたシンガポールの軍司令部では、隊員を戦時国際法に反した犯罪者として軍律裁判で裁くか(その場合、隊員は間違いなく死刑になると予想された{{Sfn|遠藤|1996|p=165}})、あるいは彼等の行為を戦時下の戦闘行為として認め、捕虜として収容所に送るかで意見が分かれたが、第7方面軍法務部の[[神谷春雄]]少佐は前者を主張し、事件を法的に再検証することになった{{Sfn|遠藤|1996|p=159}}
  
同月7日、{{仮リンク|パッシール・パンジャン|en|Pasir Panjang}}の森の中、[[ブキッ・ティマ|ブキテマ]]の高台の一角にある刑場で<ref>篠崎(1976) 200-201頁によると「{{仮リンク|ブキテマ路|en|Bukit Timah Road}}から西へ入るレホマトリー(Reformatory)路(現{{仮リンク|クレメンティ路|en|Clementi Road}})の少年院の裏庭<!--編注:en版に Clementi Road was originally named Reformatory Road due to a boys' home located at 503 Clementi Road とある-->、ゴムのまだらな丘の上で」</ref>10人の銃殺刑が執行された<ref>遠藤(1996) 193-201頁、篠崎(1976) 200-201頁</ref><ref>古田通訳の戦後のインタビューによると、処刑の方法は報告上は銃殺刑とされたが、実際には斬首されていた(遠藤(1996) 197-199頁)。</ref><ref>処刑の数日後、憲兵隊の1人が刑場の片隅に「虎工作隊終焉の地」と書かれた簡素な碑を立てた(遠藤(1996) 196頁)。</ref>
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1945年4月中に神谷少佐は再調査を終了し、「日本国旗を掲げ原住民に扮して日本占領地域内で行われた隊員の行動はスパイ行為にあたり、南方軍軍律第2条第1項第1節の『反逆、諜報活動の罪』の範疇に入る」と結論付けた。5月末に南方軍総司令部の法務部長・日高少将の承認を受け、起訴が決定したため、軍律裁判の準備が進められた。{{Sfn|遠藤|1996|pp=159-165}}。
  
== 戦犯調査 ==
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1945年7月3日<ref>{{Harvtxt|ブラッドリー|2001|p=163}}および{{Harvtxt|篠崎|1976|p=199}}は、7月5日、としている。</ref>から第7方面軍の軍事法廷が開かれ、検察官の神谷少佐は、「偽装裏切り行為(Perfidy Charge)」およびスパイ行為を起訴理由として被告人10人全員の銃殺刑を求刑し、求刑どおり判決が下された{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=163-164}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=167-193}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=199-200}}。
戦後の1946年9月、英軍[[シリル・ワイルド|ワイルド]]戦犯調査局長は、シンガポールを訪れたシンゲップ島の元[[アミール]]・シララビから「1944年12月に襲撃隊の10人がリンガ列島で捕えられ、シンゲップ島に捕虜として抑留された後、シンガポールに連行された」という話を聞き、同年10月にシンゲップ島に居残っていた憲兵隊を拘束した際、地元警察署が作成した入島記録で1944年12月18・19日に白人6人が入島し同月23日にシンガポールに送られ、12月28日に別の白人3人が入島し1945年1月8日にシンガポールへ護送されていたことを確認した<ref>ブラッドリー(2001) 158-161頁</ref>。またシトク島の憲兵詰所を捜索した際に押収した書類の中からリマウ隊員逮捕のメモを発見し、古田通訳を逮捕してリマウ作戦と軍律裁判の経緯について尋問した<ref>遠藤(1996) 139-142,202-205頁</ref>
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*論告求刑の中で検察官は、隊員は決死的行動を行った英雄であるとし、その勇敢な行動を称賛した{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=163-164}}{{Sfn|遠藤|1996|pp=190-192}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=199-200}}。
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*軍司令部でも助命の機運が高まり、隊員に嘆願書の提出を促したが、隊員たちは軍法会議の決定に従うとしてこれを拒否した{{Sfn|ブラッドリー|2001|p=166}}{{Sfn|篠崎|1976|p=199}}
  
またワイルドは、第7方面軍法務部の神谷少佐が司令部の焼却命令に反して事務所に残していた日本軍の軍律裁判の公式記録を入手し、内容を吟味した<ref>遠藤(1996) 167-168頁</ref>。
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同月7日、{{仮リンク|パッシール・パンジャン|en|Pasir Panjang}}の森の中、[[ブキッ・ティマ|ブキテマ]]の高台の一角にある刑場({{Harvnb|篠崎|1976|pp=200-201}}によると、「{{仮リンク|ブキテマ路|en|Bukit Timah Road}}から西へ入るレホマトリー路の少年院の裏庭、ゴムのまだらな丘の上」)で、10人の銃殺刑が執行された{{Sfn|遠藤|1996|pp=193-201}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=200-201}}。
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*編注:[[:en:Clementi Road]]に、''Clementi Road was originally named Reformatory Road due to a boys' home located at 503 Clementi Road''<ref group="map">{{Coord|1.330375|N|103.777701|E|name=クレメンティ路503号}}</ref>とある。
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*古田通訳への戦後のインタビューによると、処刑の方法は報告上は銃殺刑とされていたが、実際には斬首していた{{Sfn|遠藤|1996|pp=197-199}}。
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*処刑の数日後、憲兵隊の1人が刑場の片隅に「虎工作隊終焉の地」と書かれた簡素な碑を立てたという{{Sfn|遠藤|1996|p=196}}
  
その結果ワイルドは正式に古田を釈放し、オーストラリア陸軍本部に、事件を裁いた日本軍の裁判に違反は見られないため、「リマウ」の事件についてそれ以上訴追しない旨の報告を行った<ref>遠藤(1996) 203-206頁</ref><ref>その後ワイルドは古田に通訳を依頼し、1946年1月に始まったシンガポールでのBC級戦犯裁判でも古田に通訳を依頼している(遠藤(1996) 206頁)。</ref><ref>ブラッドリー(2001) 162頁のワイルドの手記では、日本人関係者のうち1人は監視の網をくぐって脱走し、降伏のときに自殺したとされている。</ref>
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== 戦犯調査 ==
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戦後の1946年9月、英軍[[シリル・ワイルド|ワイルド]]戦犯調査局長は、シンガポールを訪れたシンゲップ島の元アミール・シララビから「1944年12月に襲撃隊の10人が[[リンガ列島]]で捕えられ、シンゲップ島に捕虜として抑留された後、シンガポールに連行された」という話を聞き、同年10月にシンゲップ島に居残っていた憲兵隊を拘束した際に地元警察署が作成した入島記録を参照して、1944年12月18・19日に白人6人が入島し、同月23日にシンガポールに送られ、12月28日に別の白人3人が入島し、1945年1月8日にシンガポールへ護送されていたことを確認した{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=158-161}}
  
== 墓碑銘 ==
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また、シトク島の憲兵詰所を捜索した際に押収した書類の中から、リマウ隊員逮捕のメモを発見し、古田通訳を逮捕してリマウ作戦と軍律裁判の経緯について尋問した{{Sfn|遠藤|1996|pp=139-142,202-205}}。
戦後、オーストラリアの戦略調査団は決死隊員の足取りを調査し、ジェイウィック作戦とリマウ作戦について1946年8月にオーストラリア陸軍大臣{{仮リンク|フォーデ|en|Frank Forde}}の声明として発表し、ジェイウィック作戦の参加者が進級、叙勲された<ref>篠崎(1976) 202頁</ref><ref>リマウ作戦については隊員全員が死亡しており、証言者が不在だったため勲功は行われなかった(篠崎(1976) 202頁)。</ref>。
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*{{Harvtxt|ブラッドリー|2001|p=162}}にあるワイルドの手記からの引用では、日本人関係者のうち1人は監視の網をくぐって脱走し、降伏のときに自殺したとされている。
  
ソレ島で戦死したライアン中佐とロス中尉の遺骸は、軍法会議で刑死した隊員の遺骸とともに、シンガポールの[[クランジ戦没者共同墓地]]に移葬された<ref>篠崎(1976) 201頁</ref>。またシンガポールの{{仮リンク|聖ジョージ・ギャリソン教会|en|Saint George's Church, Singapore}}内に、ライアン中佐の夫人により記念碑が建てられた<ref>篠崎(1976) 202-203頁</ref>
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またワイルドは、第7方面軍法務部の神谷少佐が、司令部の焼却命令に反して事務所に残していた日本軍の軍律裁判の公式記録を入手し、内容を吟味した{{Sfn|遠藤|1996|pp=167-168}}。
  
== 脚注 ==
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その結果、ワイルドは古田を釈放し、オーストラリア陸軍本部に、事件を裁いた日本軍の裁判に違反は見られないため、「リマウ」の事件についてそれ以上訴追しない旨の報告を行った{{Sfn|遠藤|1996|pp=203-206}}。
<references />
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*その後、ワイルドは古田に通訳を依頼し、1946年1月に始まった[[イギリス軍シンガポール裁判|シンガポールでのBC級戦犯裁判]]でも古田に通訳を依頼している{{Sfn|遠藤|1996|p=206}}。
  
== 参考文献 ==
+
== 墓碑銘 ==
* ブラッドリー(2001): ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド-泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、2001年8月。
+
戦後、オーストラリアの戦略調査団は決死隊員の足取りを調査し、ジェイウィック作戦とリマウ作戦について1946年8月にオーストラリア陸軍大臣{{仮リンク|フォーデ|en|Frank Forde}}の声明として発表し、ジェイウィック作戦の参加者が進級、叙勲された。リマウ作戦については、隊員全員が死亡しており、証言者が不在だったため、勲功は行われなかった。{{Sfn|篠崎|1976|p=202}}
* 遠藤(1996):遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年。
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<!--篠崎(1976)と同じ内容:* 戸川(1990b): 戸川幸夫『昭南島物語』下巻、読売新聞社、1990年。-->
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ソレ島で戦死したライアン中佐とロス中尉の遺骸は、軍法会議で刑死した隊員の遺骸とともに、シンガポールの[[クランジ戦没者共同墓地]]に移葬された{{Sfn|篠崎|1976|p=201}}。またシンガポールの{{仮リンク|聖ジョージ・ギャリソン教会|en|Saint George's Church, Singapore}}内に、ライアン中佐の夫人により記念碑が建てられた{{Sfn|篠崎|1976|pp=202-203}}。
<!--篠崎(1976)と同じ内容:* シンガポール市政会(1986): シンガポール市政会編『昭南特別市史-戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986年8月。-->
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* 篠崎(1976):篠崎護『シンガポール占領秘録-戦争とその人間像』原書房、1976年。
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<!--*古田(1957):古田博之「虎工作隊ここに眠る」『文藝春秋』1957年5月号。-->
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== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
* [[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]
 
* [[昭南港爆破事件]]
 
 
* [[南十字星 (映画)]]
 
* [[南十字星 (映画)]]
* [[シンガポールの歴史]]
+
 
* [[オーストラリアの歴史]]
+
== 付録 ==
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=== 関連文献 ===
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*{{Aya|古田|year=1957}} 古田博之「虎工作隊ここに眠る」『文藝春秋』v.35 n.2、1957年5月号、{{NDLJP|3198099/170}}{{閉}}
 +
*{{Aya|ワイルド|year=1946}} シリル・ワイルド「シンゲップへの壮途」『{{仮リンク|ブラックウッド・マガジン|en|Blackwood's Magazine}}』1946年10月号 - [[シリル・ワイルド]]が、作戦と隊員処刑事件の調査の経緯を紹介した記事{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=145-170}}。
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=== 座標 ===
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{{Reflist|group="map"|20em}}
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=== 脚注 ===
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{{Reflist|20em}}
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 +
=== 参考文献 ===
 +
*{{Aya|ブラッドリー|year=2001}} ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』[[明石書店]]、ISBN 9784750314501
 +
*{{Aya|遠藤|year=1996}} 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』[[集英社]]、ISBN 4087811379
 +
*{{Aya|篠崎|year=1976}} 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、{{JPNO|73016313}}
 +
**編注:篠崎の著書の内容は、出典の記載がない他書からの引用について、内容が改変されている場合があるため、注意を要する。
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====篠崎(1976)を引用したと推測される文献====
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* 戸川幸夫『昭南島物語 下巻』読売新聞社、1990、ISBN 4643900644
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* シンガポール市政会編『昭南特別市史 - 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986、{{JPNO|87031898}}
  
 
{{デフォルトソート:りまうさくせん}}
 
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[[Category:日本占領下のシンガポール]]
 
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[[Category:日豪関係]]
 
[[Category:日豪関係]]
[[Category:1944年のアジア]]
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[[Category:オーストラリア軍の特殊工作]]
[[Category:1944年の日本]]
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[[Category:1944年のシンガポール]]
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[[Category:1945年のシンガポール]]
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[[en:Operation Rimau]]

2020年5月9日 (土) 19:00時点における最新版

西濠の基地でリマウ作戦に向けて2艘の"眠れる美女"を載せた小型船「ポンポン」号で訓練をするZ特殊部隊の隊員

リマウ作戦(リマウさくせん)は、1944年10月に、英国陸軍のイバン・ライアンEnglish版中佐ら英濠軍の特殊部隊(en:Z Special Unit)が、日本軍占領下のシンガポールシンガポール港で、前年のジェイウィック作戦に続いて2度目の日本艦船爆破を計画した作戦。「リマウ」はマレー語で「虎」を意味するため、虎作戦とも呼ばれる。日本の監視船に発見されて計画は未遂に終わり、日本軍との戦闘でライアン中佐らは戦死、隊員10人が捕虜となった。捕虜は日本軍の軍律裁判により死刑判決を受け、1945年7月にシンガポールで全員処刑された。

リマウ作戦[編集]

1944年3月以降、前年9月のジェイウィック作戦の成功を受けて、イギリス特殊作戦執行部イバン・ライアンEnglish版中佐と作戦会議を重ね、シンガポールの日本軍を攻撃対象とする2度目のゲリラ的な破壊活動「リマウ作戦」(リマウはマレー語で「虎」の意[1])の実行を決めた。隊長のライアン中佐を含めて23人の隊員が作戦に参加した。[2]

リマウ作戦では、潜水艦でシンガポールに接近した後、船を現地調達してシンガポール港に入り、超小型の特殊潜水艇を使用して攻撃目標とする船舶にリムペット(吸着爆弾)を取り付ける計画だった[2]

  • 特殊潜水艇は、本来の英名「Submergible Boat」から「Sleeping Beauty(眠れる美女)」の愛称で呼ばれていた[3][4]

同年9月14日[5][6]、ライアン中佐ら23人の決死隊員と超小型潜水艇の開発者で英国陸軍のチャップマン少佐は、西オーストラリア州・ガーデン島English版の軍港[5][7]を潜水艦「ポーパス」号で出港し、同月23日にメラパス島English版に到着、中継基地を設営した[8][5]

ライアン中佐らは、メラパス島の南270キロにあるペジャンタン(Pejantan)島[map 1]周辺でプラウを鹵獲して「ムスティカ(Mustika)」号と名付け、以後、この船で現地船を装って移動した[9][10]

  • その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った[9][10]

作戦の失敗[編集]

座標一覧
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1944年10月5日、ライアン中佐はメラパス島に隊員4人を残し、残りの隊員19人で作戦決行のためムスティカ号でシンガポールへ出発した[11]。同月10日、カス(Kasu)島[map 2]近くで風待ちをしていたところ、同島にあった水上警察詰所の兵補に見咎められ、接近してきた警備艇を銃撃してマレー人の兵補3人を殺害することとなった[12]。ライアン中佐は計画の失敗と中止を宣言し、ゴムボートに乗り移った後、ムスティカ号を爆破し沈没させた[13]

  • このとき生き残ったマレー人の兵補が11日に事件をブランカン(Belakang)島[map 3]の係官に連絡したが、係官から憲兵隊本部への連絡は2日ほど遅れたとされる[14]
  • 遠藤 (1996 88-91)は、ライアン中佐は、ペイジ大尉ら隊員12人にメラパス島へ戻るように命じた後、残りの5人でスバール(Subar)島[map 4]へ向かい、別行動をとっていた隊員2人と合流すると、10月11日午前3時頃にカヌーでシンガポール港の外部防護施設内に潜入し、停泊中の日本船3隻にリンペットを仕掛け、爆破した、としている。篠崎 (1976 )およびブラッドリー (2001 )には、この件に言及がない。

同月14日、ライアン中佐ら7人がメラパス島へ戻る途中で日本軍の情報を得ようとパンキル(Pangkil)島[map 5]に立ち寄った際に、島のアミール(酋長)が日本軍に通報し、16日にソレ(Soreh)島[map 6]で日本軍の討伐隊の攻撃を受けてライアン中佐ら2人が銃撃戦の末に戦死、18日には銃撃戦で負傷した別の隊員2人がタパイ(Tapai)島[map 7]で死亡しているのが発見された[15]

  • ソレ島の銃撃戦では日本軍の兵士4名が戦死、数名が負傷した[16]
  • 残る隊員のうち2人はメラパス島へ戻り[17]、1人は行方不明となって後に日本軍に逮捕された[18]

死亡した4人と行方不明になった隊員1人を除く18人の隊員は、10月末にはメラパス島の基地に戻り、同年11月8日に迎えに来る予定だった潜水艦を待っていたところ、同年11月3日に、たまたま日本軍の小型の軍用機が機体のトラブルでビンタン島のキジャン(Kijang)に不時着する事故があり、事故の連絡を受けた日本軍が特殊部隊の関与を疑ってメラパス島を捜索、隊員を発見して銃撃戦となり、隊員2人が死亡した[19]

残る隊員16人はメラパス島を脱出してマポール(Mapur)島[map 8]に潜伏していたが、12月初旬になっても潜水艦と合流できなかったため、数人のグループに分かれて第2の基地があったポンポン(Pompong)島[map 9]を目指した[20]

タンタラス号は攻撃的巡回も任務としており、「リマウ」隊員との待合せ予定日の11月8日になってもまだ魚雷等が残っていたため、救出の日程を一方的に11月21-22日に延期して攻撃的巡回を続けていた[22][23]
帰港後の調査でチャップマン少佐が予定の救出の場所・日程を守っておらず、隊員の合図を見落とすなどの違反行為があったことが判明したが、隊員が日本軍に逮捕されたことが伝わると、違反行為の問題はうやむやになった[24]
1964年になって、ある歴史研究家が本人にこの問題を追及したところ、チャップマンは自殺した[25]

しかし、うち3人はボルネオ方面で日本軍との戦闘で死亡し[26]、12月下旬にポンポン島近くのボアジャ(Buaja)島[map 10]で3人[27]、セラジャール(Selajar)島[map 11]で1人(ペイジ中尉)が逮捕され[28]、(シンゲップEnglish版島で?)この他の隊員6人も逮捕された[29]

こうしてリマウ隊員23人のうち10人が戦死し、10人が逮捕され、3人は行方不明となった[18]

  • 戦後、チモール方面で捕まった日本兵の戦犯裁判の記録から、行方不明となった隊員3人はなおも南下を続け、カタポンガン島で高熱で意識障害を起こしたウォーン1等兵が脱落し、その後意識を回復してマカッサルへ下ったものの、日本軍に捕獲され、他の連合国軍の捕虜と共に第2南海方面艦隊付きの軍医の生体実験の実験台になり、スラバヤの海軍病院で死亡したこと、ウイラーズドルフ准尉とペイス上等兵の2人は、ロマン(Romang)島[map 13]で日本軍に捕えられ、拷問にかけられた後、放置されて死亡していたことが分かっている[31]

軍律裁判[編集]

日本軍は、1942年5月の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の際に、戦死した特殊潜航艇の乗組員に対して、濠州側がその勇敢な行動を称賛し丁重な海軍葬を以て報いたことを意識して、捕虜となった隊員を厚遇した[32]

  • 捕虜6人を迎えた水上憲兵隊の隊長は、身なりを整えさせるなど異例の対応を行い、第7方面軍から通訳として派遣されてきた古田博之の助言を受けて丁寧な訊問を行い、初期調査は2ヶ月という異例の長さで行われた[33]。水上憲兵隊での初期調査の後、1945年3月に隊員はオートラム刑務所に移されたが、ここでも他の囚人や捕虜とは別の特別室に移され、書籍や甘味、特別食が与えられ、世話係として古田通訳がつけられた[32][34]

水上憲兵隊から報告を受けたシンガポールの軍司令部では、隊員を戦時国際法に反した犯罪者として軍律裁判で裁くか(その場合、隊員は間違いなく死刑になると予想された[35])、あるいは彼等の行為を戦時下の戦闘行為として認め、捕虜として収容所に送るかで意見が分かれたが、第7方面軍法務部の神谷春雄少佐は前者を主張し、事件を法的に再検証することになった[36]

1945年4月中に神谷少佐は再調査を終了し、「日本国旗を掲げ原住民に扮して日本占領地域内で行われた隊員の行動はスパイ行為にあたり、南方軍軍律第2条第1項第1節の『反逆、諜報活動の罪』の範疇に入る」と結論付けた。5月末に南方軍総司令部の法務部長・日高少将の承認を受け、起訴が決定したため、軍律裁判の準備が進められた。[37]

1945年7月3日[38]から第7方面軍の軍事法廷が開かれ、検察官の神谷少佐は、「偽装裏切り行為(Perfidy Charge)」およびスパイ行為を起訴理由として被告人10人全員の銃殺刑を求刑し、求刑どおり判決が下された[39][40][41]

  • 論告求刑の中で検察官は、隊員は決死的行動を行った英雄であるとし、その勇敢な行動を称賛した[39][42][41]
  • 軍司令部でも助命の機運が高まり、隊員に嘆願書の提出を促したが、隊員たちは軍法会議の決定に従うとしてこれを拒否した[43][32]

同月7日、パッシール・パンジャンEnglish版の森の中、ブキテマの高台の一角にある刑場(篠崎 1976 200-201によると、「ブキテマ路English版から西へ入るレホマトリー路の少年院の裏庭、ゴムのまだらな丘の上」)で、10人の銃殺刑が執行された[44][45]

  • 編注:en:Clementi Roadに、Clementi Road was originally named Reformatory Road due to a boys' home located at 503 Clementi Road[map 14]とある。
  • 古田通訳への戦後のインタビューによると、処刑の方法は報告上は銃殺刑とされていたが、実際には斬首していた[46]
  • 処刑の数日後、憲兵隊の1人が刑場の片隅に「虎工作隊終焉の地」と書かれた簡素な碑を立てたという[47]

戦犯調査[編集]

戦後の1946年9月、英軍ワイルド戦犯調査局長は、シンガポールを訪れたシンゲップ島の元アミール・シララビから「1944年12月に襲撃隊の10人がリンガ列島で捕えられ、シンゲップ島に捕虜として抑留された後、シンガポールに連行された」という話を聞き、同年10月にシンゲップ島に居残っていた憲兵隊を拘束した際に地元警察署が作成した入島記録を参照して、1944年12月18・19日に白人6人が入島し、同月23日にシンガポールに送られ、12月28日に別の白人3人が入島し、1945年1月8日にシンガポールへ護送されていたことを確認した[48]

また、シトク島の憲兵詰所を捜索した際に押収した書類の中から、リマウ隊員逮捕のメモを発見し、古田通訳を逮捕してリマウ作戦と軍律裁判の経緯について尋問した[49]

  • ブラッドリー (2001 162)にあるワイルドの手記からの引用では、日本人関係者のうち1人は監視の網をくぐって脱走し、降伏のときに自殺したとされている。

またワイルドは、第7方面軍法務部の神谷少佐が、司令部の焼却命令に反して事務所に残していた日本軍の軍律裁判の公式記録を入手し、内容を吟味した[50]

その結果、ワイルドは古田を釈放し、オーストラリア陸軍本部に、事件を裁いた日本軍の裁判に違反は見られないため、「リマウ」の事件についてそれ以上訴追しない旨の報告を行った[51]

墓碑銘[編集]

戦後、オーストラリアの戦略調査団は決死隊員の足取りを調査し、ジェイウィック作戦とリマウ作戦について1946年8月にオーストラリア陸軍大臣フォーデEnglish版の声明として発表し、ジェイウィック作戦の参加者が進級、叙勲された。リマウ作戦については、隊員全員が死亡しており、証言者が不在だったため、勲功は行われなかった。[53]

ソレ島で戦死したライアン中佐とロス中尉の遺骸は、軍法会議で刑死した隊員の遺骸とともに、シンガポールのクランジ戦没者共同墓地に移葬された[54]。またシンガポールの聖ジョージ・ギャリソン教会English版内に、ライアン中佐の夫人により記念碑が建てられた[55]

関連項目[編集]

付録[編集]

関連文献[編集]

座標[編集]

脚注[編集]

  1. 遠藤 1996 71
  2. 2.0 2.1 遠藤 1996 67-74
  3. 遠藤 1996 69
  4. 篠崎 1976 196
  5. 5.0 5.1 5.2 遠藤 1996 74-78
  6. ブラッドリー 2001 151,162は、9月11日、としている。
  7. ブラッドリー 2001 151。同書p.162の引用文中では、西オーストラリア州パースから出港したとされている。
  8. ブラッドリー 2001 151-152,162
  9. 9.0 9.1 9.2 ブラッドリー 2001 152
  10. 10.0 10.1 遠藤 1996 78-80
  11. 遠藤 1996 81
  12. 遠藤 1996 84-86,145
  13. 遠藤 1996 86-87
  14. 遠藤 1996 90。同書 p.145に「10月13日に第7方面軍司令部に緊急情報が入った」とあるが、この連絡がブランカン島からの連絡だったのか、後述するパンキル島からの連絡だったのかは不明。
  15. 遠藤 1996 90-102,146
  16. 遠藤 1996 146
  17. 遠藤 1996 106-107
  18. 18.0 18.1 遠藤 1996 111
  19. 遠藤 1996 102-106,146-147
  20. 遠藤 1996 106-108
  21. 遠藤 1996 107-108
  22. ブラッドリー 2001 152-153
  23. 遠藤 1996 107-108頁
  24. 遠藤 1996 216-218
  25. 遠藤 1996 216,218
  26. 遠藤 1996 109-110
  27. 3人のうち、負傷しながら逃亡していたマーシュ一等兵は12月末に逮捕されたが、高熱で意識障害を起こし、翌1945年1月11日にシンガポールの憲兵隊本部の医務室で死亡した(遠藤 1996 110)。
  28. 遠藤 1996 10-111
  29. 遠藤 1996 111,147-148
  30. シンガポールのケッペル波止場にあった(篠崎 1976 41、遠藤 1996 143)。
  31. 遠藤 1996 111-113
  32. 32.0 32.1 32.2 篠崎 1976 199
  33. 遠藤 1996 142-159
  34. 遠藤 1996 142-159,194
  35. 遠藤 1996 165
  36. 遠藤 1996 159
  37. 遠藤 1996 159-165
  38. ブラッドリー (2001 163)および篠崎 (1976 199)は、7月5日、としている。
  39. 39.0 39.1 ブラッドリー 2001 163-164
  40. 遠藤 1996 167-193
  41. 41.0 41.1 篠崎 1976 199-200
  42. 遠藤 1996 190-192
  43. ブラッドリー 2001 166
  44. 遠藤 1996 193-201
  45. 篠崎 1976 200-201
  46. 遠藤 1996 197-199
  47. 遠藤 1996 196
  48. ブラッドリー 2001 158-161
  49. 遠藤 1996 139-142,202-205
  50. 遠藤 1996 167-168
  51. 遠藤 1996 203-206
  52. 遠藤 1996 206
  53. 篠崎 1976 202
  54. 篠崎 1976 201
  55. 篠崎 1976 202-203
  56. ブラッドリー 2001 145-170

参考文献[編集]

  • ブラッドリー (2001) ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店ISBN 9784750314501
  • 遠藤 (1996) 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社ISBN 4087811379
  • 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
    • 編注:篠崎の著書の内容は、出典の記載がない他書からの引用について、内容が改変されている場合があるため、注意を要する。

篠崎(1976)を引用したと推測される文献[編集]

  • 戸川幸夫『昭南島物語 下巻』読売新聞社、1990、ISBN 4643900644
  • シンガポール市政会編『昭南特別市史 - 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986、JPNO 87031898