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== 昭南港爆破事件 == | == 昭南港爆破事件 == | ||
− | + | 1943年9月27日の未明に[[シンガポール港]]の東西で大きな爆発音が起こり、ケッペル港の西と東正面に碇泊していた輸送船6隻とタンカー1隻が爆沈した{{Sfn|篠崎|1976|p=191}}{{Sfn|遠藤|1996|p=63}}。 | |
+ | *シンガポールでは、島の南側にある港を「ケッペル港」と呼び、通常は商船が使用、島の北側([[ジョホール州|ジョホール]]側)にある港は「セレタ軍港」と呼ばれ、軍用の港として知られていた。ケッペル港を更に細かくローズ錨地、検査錨地に分けることもあった{{Sfn|遠藤|1996|p=58}}。 | ||
− | シンガポール市内ではサイレンが鳴り響いて警備隊、憲兵隊が緊急出動し、{{仮リンク|カラン飛行場|en|Kallang Airport}}から偵察機が緊急発進して捜索にあたり、[[昭南憲兵隊#第1次粛清終了後の編成|水上憲兵隊]]の舟艇も港内を捜索したが、手がかりになるものは何も発見されなかった | + | シンガポール市内ではサイレンが鳴り響いて警備隊、憲兵隊が緊急出動し、{{仮リンク|カラン飛行場|en|Kallang Airport}}から偵察機が緊急発進して捜索にあたり、[[昭南憲兵隊#第1次粛清終了後の編成|水上憲兵隊]]の舟艇も港内を捜索したが、手がかりになるものは何も発見されなかった{{Sfn|篠崎|1976|pp=191-192}}。 |
== ジェイウィック作戦 == | == ジェイウィック作戦 == | ||
− | + | 爆破は[[英国陸軍]]のイバン・ライアン少佐らイギリス軍・[[オーストラリア軍]]混成の特殊部隊による作戦行動(ジェイウィック作戦 {{Lang-en|Operation Jaywick}})によるものだった{{Sfn|遠藤|1996|p=45-64}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=192-193}}。 | |
+ | *「ジェイウィック」は当時シンガポールで売られていた防臭剤の名前で、日本軍を便所に見立てて、その臭いを一掃するという意味で作戦名とされた{{Sfn|遠藤|1996|p=46}}。 | ||
− | ライアン少佐は、太平洋戦争の開戦当時、イギリスの[[特殊作戦執行部]] | + | ライアン少佐は、太平洋戦争の開戦当時、イギリスの[[特殊作戦執行部]]に所属し、シンガポールからの一般住民の脱出を支援していたが、シンガポールが陥落する直前にシンガポールを脱出して[[コロンボ]]へ逃れ、その後[[オーストラリア]]へ渡って、{{仮リンク|エクスマウス湾|en|Exmouth Gulf}}を基地としてオーストラリア軍の将兵から志願者を募り、将校4人、兵士10人から成る決死隊を組織した{{Sfn|遠藤|1996|pp=29-35}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=193-194。同書は、ライアン少佐が[[ダルフォース]]の組織化に関与していた、としているが、{{Harvtxt|遠藤|1996}}にはない。}}。 |
− | + | 1943年9月2日、決死隊の14名は、日本漁船「幸福丸」を偽装した「クレイト号」([[:en:MV Krait]])でエクスマウス湾を出発し、9月18日に[[リアウ諸島]]中の無人島パンジャン島(Pulau Panjang)<ref group="map">{{Coord|1.012702|N|103.759768|E|format=dms}}</ref>に到着した。そこで6名の隊員を3隻のカヌーに分乗させ、カヌーは9月20日にパンジャン島を出発し、9月26日夜、スバール島(Pulau Subar)<ref group="map">{{Coord|1.145458|N|103.830768|E|format=dms}}</ref>からケッペル港に侵入し、目標とした船に[[リムペットマイン|リムペット(吸着爆弾)]]を装置して退却、10月2-3日にポンポン島(Pulau Pompong)<ref group="map">{{Coord|0.111019|N|104.458508|E|format=dms}}</ref>で「クレイト号」に収容され、エクスマウス湾の基地に帰投していた{{Sfn|遠藤|1996|pp=50-63}}{{Sfn|篠崎|1976|p=194}}。 | |
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+ | *{{Aya|篠崎|year=1976}} 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、{{JPNO|73016313}} | ||
+ | **編注:篠崎の著書の内容は信憑性が低く、裏付けを要する。出典の記載がない他書からの引用で、内容が改変されている場合がある。 | ||
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+ | ====篠崎(1976)を引用したと推測される文献==== | ||
+ | * 戸川幸夫『昭南島物語 下巻』読売新聞社、1990、ISBN 4643900644 | ||
+ | * シンガポール市政会編『昭南特別市史 - 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986、{{JPNO|87031898}} | ||
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昭南港爆破事件(しょうなんこうばくはじけん)は、太平洋戦争中の1943年9月27日に、日本軍が占領統治していたシンガポールのケッペル港で、停泊中の輸送船やタンカー7隻が爆沈した事件。事件はイバン・ライアン 少佐らイギリス軍およびオーストラリア軍の特殊部隊(en:Z Special Unit)のジェイウィック作戦(英語:Operation Jaywick)によるものだったが、当時の日本軍は犯人を特定できず、同年10月に事件への関与を疑って連合国人約50人を逮捕・拷問し、15人を拷問死させた(双十節事件)。第7方面軍は事件を契機に昭南を戦時体制に移行して監視・防諜体制を強化し、昭南特別市に市民の疎開を命じた。
目次
昭南港爆破事件[編集]
1943年9月27日の未明にシンガポール港の東西で大きな爆発音が起こり、ケッペル港の西と東正面に碇泊していた輸送船6隻とタンカー1隻が爆沈した[1][2]。
- シンガポールでは、島の南側にある港を「ケッペル港」と呼び、通常は商船が使用、島の北側(ジョホール側)にある港は「セレタ軍港」と呼ばれ、軍用の港として知られていた。ケッペル港を更に細かくローズ錨地、検査錨地に分けることもあった[3]。
シンガポール市内ではサイレンが鳴り響いて警備隊、憲兵隊が緊急出動し、カラン飛行場 から偵察機が緊急発進して捜索にあたり、水上憲兵隊の舟艇も港内を捜索したが、手がかりになるものは何も発見されなかった[4]。
ジェイウィック作戦[編集]
爆破は英国陸軍のイバン・ライアン少佐らイギリス軍・オーストラリア軍混成の特殊部隊による作戦行動(ジェイウィック作戦 英語:Operation Jaywick)によるものだった[5][6]。
- 「ジェイウィック」は当時シンガポールで売られていた防臭剤の名前で、日本軍を便所に見立てて、その臭いを一掃するという意味で作戦名とされた[7]。
ライアン少佐は、太平洋戦争の開戦当時、イギリスの特殊作戦執行部に所属し、シンガポールからの一般住民の脱出を支援していたが、シンガポールが陥落する直前にシンガポールを脱出してコロンボへ逃れ、その後オーストラリアへ渡って、エクスマウス湾 を基地としてオーストラリア軍の将兵から志願者を募り、将校4人、兵士10人から成る決死隊を組織した[8][9]。
1943年9月2日、決死隊の14名は、日本漁船「幸福丸」を偽装した「クレイト号」(en:MV Krait)でエクスマウス湾を出発し、9月18日にリアウ諸島中の無人島パンジャン島(Pulau Panjang)[map 1]に到着した。そこで6名の隊員を3隻のカヌーに分乗させ、カヌーは9月20日にパンジャン島を出発し、9月26日夜、スバール島(Pulau Subar)[map 2]からケッペル港に侵入し、目標とした船にリムペット(吸着爆弾)を装置して退却、10月2-3日にポンポン島(Pulau Pompong)[map 3]で「クレイト号」に収容され、エクスマウス湾の基地に帰投していた[10][11]。
双十節事件[編集]
上述の経緯は戦後になってオーストラリア側から発表されたことで、当時の日本軍はその後の調査でも誰が爆破したかを特定できなかった[12]。シンガポールに残ったスパイの協力を疑った昭南憲兵隊は、市民千数百人を検挙して厳重な取調べを行い[13]、1943年10月以降、事件に関連したとして50数名の連合国人を逮捕・拷問し、15人を拷問死させた(双十節事件)[14][15]。
戦時体制への移行[編集]
事件で衝撃を受けた第7方面軍司令部は、昭南を急速に戦時体制に移行し、昭南特別市に対し、かねてから計画していた市民の疎開を命じた[16]。また防諜体制を強化し、浪機関・茨木機関を設置してそれぞれ海上・内陸の謀略にあたらせた[17]。
海軍は潮機関を設置して海上情報の収集に努め[16]、マラッカ海峡・スマトラの東西海岸・リオ群島・リンガ群島およびボルネオの海岸に監視哨を置いて各島々の警察署に白人を見つけたら警備隊、憲兵隊に通報するよう伝えた[12]。
関連項目[編集]
付録[編集]
座標[編集]
脚注[編集]
- ↑ 篠崎 1976 191
- ↑ 遠藤 1996 63
- ↑ 遠藤 1996 58
- ↑ 篠崎 1976 191-192
- ↑ 遠藤 1996 45-64
- ↑ 篠崎 1976 192-193
- ↑ 遠藤 1996 46
- ↑ 遠藤 1996 29-35
- ↑ 篠崎 1976 193-194。同書は、ライアン少佐がダルフォースの組織化に関与していた、としているが、遠藤 (1996 )にはない。
- ↑ 遠藤 1996 50-63
- ↑ 篠崎 1976 194
- ↑ 12.0 12.1 篠崎 1976 195
- ↑ 篠崎 1976 192,195
- ↑ 東京裁判ハンドブック 1989 116
- ↑ 篠崎 1976 163,166-167,192-193
- ↑ 16.0 16.1 篠崎 1976 98,195
- ↑ 篠崎 1976 97,195
参考文献[編集]
- 遠藤 (1996) 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、ISBN 4087811379
- 東京裁判ハンドブック (1989) 東京裁判ハンドブック編集委員会(編)『東京裁判ハンドブック』青木書店、ISBN 4250890139
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
- 編注:篠崎の著書の内容は信憑性が低く、裏付けを要する。出典の記載がない他書からの引用で、内容が改変されている場合がある。
篠崎(1976)を引用したと推測される文献[編集]
- 戸川幸夫『昭南島物語 下巻』読売新聞社、1990、ISBN 4643900644
- シンガポール市政会編『昭南特別市史 - 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986、JPNO 87031898