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'''東京高等師範学校・東京文理科大学'''
 
'''東京高等師範学校・東京文理科大学'''
 
*東京高等師範学校は、はじめ'''師範学校'''と称し、明治5年5月29日 ([[1872年]]7月)、[[東京府]]第四[[大区小区制|大区]]五小区宮本町(東京市神田区宮本町、現・千代田区外神田二丁目)の[[昌平坂学問所|昌平黌]](現[[湯島聖堂]])移転跡地に、[[小学校]]の授業の方式を授けるという目的で創設された。翌年、'''[[東京師範学校]]'''となり、[[1879年]](明治12年)、全科を予科、高等予科および本科に別け、[[1885年]](明治18年)、[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]](現・[[お茶の水女子大学]])を合併し、さらに[[体操伝習所]]を附属した。
 
*東京高等師範学校は、はじめ'''師範学校'''と称し、明治5年5月29日 ([[1872年]]7月)、[[東京府]]第四[[大区小区制|大区]]五小区宮本町(東京市神田区宮本町、現・千代田区外神田二丁目)の[[昌平坂学問所|昌平黌]](現[[湯島聖堂]])移転跡地に、[[小学校]]の授業の方式を授けるという目的で創設された。翌年、'''[[東京師範学校]]'''となり、[[1879年]](明治12年)、全科を予科、高等予科および本科に別け、[[1885年]](明治18年)、[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]](現・[[お茶の水女子大学]])を合併し、さらに[[体操伝習所]]を附属した。
*[[1886年]](明治19年)4月、官制により'''[[高等師範学校]]'''に改称し、[[1889年]](明治22年)、東京教育博物館(現・[[国立科学博物館]])を附属し(のち[[1915年]](大正4年)に分離)、[[1893年]](明治26年)、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]([[東京芸術大学]]の前身の一つ)を附属し(のち[[1899年]](明治32年)に分離)、[[1896年]](明治29年)、附属学校を附属中学校と附属小学校に分離し、[[1902年]](明治35年)、広島高等師範学校が設置されるとともに'''東京高等師範学校'''に改称した。[[1903年]](明治36年)、東京市小石川区大塚窪町(現・文京区大塚三丁目)に移転した。
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*[[1886年]](明治19年)4月、官制により高等師範学校に改称し、[[1889年]](明治22年)、東京教育博物館(現・[[国立科学博物館]])を附属し(のち[[1915年]](大正4年)に分離)、[[1893年]](明治26年)、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]([[東京芸術大学]]の前身の一つ)を附属し(のち[[1899年]](明治32年)に分離)、[[1896年]](明治29年)、附属学校を附属中学校と附属小学校に分離し、[[1902年]](明治35年)、広島高等師範学校が設置されるとともに[[東京高等師範学校]]に改称した。[[1903年]](明治36年)、東京市小石川区大塚窪町(現・文京区大塚三丁目)に移転した。
 
*[[1929年]](昭和4年)、勅令により高等師範学校官制が定められ、[[東京文理科大学]]に附属された。組織としては、学科は文科(4部)、理科(3部)のほかに体育科が置かれ、いずれも修業年限は4箇年。ほかに研究科、専攻科、専修科、選科が置かれた。生徒の定員は900名。校長は、初代・[[諸葛信澄]]、以下、[[箕作秋坪]]、[[秋山恒太郎]]、[[伊沢修二]]、[[高嶺秀夫]]、[[山川浩]]、[[嘉納治五郎]]、[[矢田部良吉]]、[[沢柳政太郎]]、[[三宅米吉]]、[[大瀬甚太郎]]、[[森岡常蔵]]、[[河原春作]]、[[務台理作]]、[[杉村欣次郎]]その他。
 
*[[1929年]](昭和4年)、勅令により高等師範学校官制が定められ、[[東京文理科大学]]に附属された。組織としては、学科は文科(4部)、理科(3部)のほかに体育科が置かれ、いずれも修業年限は4箇年。ほかに研究科、専攻科、専修科、選科が置かれた。生徒の定員は900名。校長は、初代・[[諸葛信澄]]、以下、[[箕作秋坪]]、[[秋山恒太郎]]、[[伊沢修二]]、[[高嶺秀夫]]、[[山川浩]]、[[嘉納治五郎]]、[[矢田部良吉]]、[[沢柳政太郎]]、[[三宅米吉]]、[[大瀬甚太郎]]、[[森岡常蔵]]、[[河原春作]]、[[務台理作]]、[[杉村欣次郎]]その他。
 
*附属小学校は[[1873年]](明治6年)、附属中学校([[旧制中学校]])は[[1888年]](明治21年)の設立である。
 
*附属小学校は[[1873年]](明治6年)、附属中学校([[旧制中学校]])は[[1888年]](明治21年)の設立である。
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***以下の4校を包括し、新制'''東京教育大学'''が開学。文学部・理学部・教育学部・農学部・体育学部の5学部を設置。
 
***以下の4校を包括し、新制'''東京教育大学'''が開学。文学部・理学部・教育学部・農学部・体育学部の5学部を設置。
 
***# [[東京高等師範学校]]([[高等師範学校]])
 
***# [[東京高等師範学校]]([[高等師範学校]])
***# [[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]]([[旧二文理大|旧制文理科大学]])
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***# [[東京文理科大学]]([[旧二文理大|旧制文理科大学]])
 
***# [[東京農業教育専門学校 (旧制)|東京農業教育専門学校]]
 
***# [[東京農業教育専門学校 (旧制)|東京農業教育専門学校]]
 
***# [[東京体育専門学校 (旧制)|東京体育専門学校]]
 
***# [[東京体育専門学校 (旧制)|東京体育専門学校]]
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旧制以前のことは、ここでは省略する。旧制諸学校を参照されたい。
 
旧制以前のことは、ここでは省略する。旧制諸学校を参照されたい。
  
東京教育大学の母体となった東京高等師範学校と東京文理科大学は文京区大塚に、東京農業教育専門学校は目黒区駒場に、東京体育専門学校は渋谷区幡ヶ谷にあった。そこで、そのままに引き継ぐ形で、上記「キャンパス」に見られるように、3キャンパスにそれぞれの5学部が成立した。なお、教養部制をとらず、1年生でも専門課程を履修でき、4年生でも教養課程を履修できた。
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東京教育大学の母体となった[[東京高等師範学校]]と[[東京文理科大学]]は文京区大塚に、[[東京農業教育専門学校]]は目黒区駒場に、[[東京体育専門学校]]は渋谷区幡ヶ谷にあった。そこで、そのままに引き継ぐ形で、上記「キャンパス」に見られるように、3キャンパスにそれぞれの5学部が成立した。なお、教養部制をとらず、1年生でも専門課程を履修でき、4年生でも教養課程を履修できた。
  
 
筑波大学発足後は、東京教育大学が管理していた校地は、次のように変化している(不明部分の加筆訂正を待ちます)。
 
筑波大学発足後は、東京教育大学が管理していた校地は、次のように変化している(不明部分の加筆訂正を待ちます)。
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==関係者==
 
==関係者==
 
*[[東京教育大学の人物一覧]]
 
*[[東京教育大学の人物一覧]]
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*[[愛国高等学校]]
  
 
==関連項目==
 
==関連項目==
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==外部リンク==
 
==外部リンク==
*[http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/ 東京教育大学新聞会OB会]
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*[http://tue.news.coocan.jp/ 東京教育大学新聞会OB会]
 
*:かつて大学新聞を発行していた団体に所属していた人による会である。
 
*:かつて大学新聞を発行していた団体に所属していた人による会である。
 
*[http://www.shugiin.go.jp/itdb_housei.nsf/html/houritsu/07119730929103.htm 国立学校設置法等の一部を改正する法律(昭和48年法律第103号)] 通称:筑波大学法 ([[衆議院]])
 
*[http://www.shugiin.go.jp/itdb_housei.nsf/html/houritsu/07119730929103.htm 国立学校設置法等の一部を改正する法律(昭和48年法律第103号)] 通称:筑波大学法 ([[衆議院]])

2022年5月7日 (土) 20:19時点における最新版

東京教育大学

東京教育大学は、東京都文京区に本部を置いていた日本国立大学である。1949年に設置された。大学の略称は東京教大、東教大、教育大。

1978年に閉学し、現在の筑波大学茨城県つくば市に所在)の母体となった。同窓会茗渓会である。

その名称から教員養成を目的にした大学と誤解されやすいが、文学部理学部教育学部体育学部農学部からなる総合大学であった。

沿革[編集]

東京高等師範学校 も参照

前身[編集]

東京高等師範学校・東京文理科大学

新制大学[編集]

校章[編集]

東京教育大学の校章は「五三の桐葉型」である。この桐章は東京高等師範学校の附属小中学校(現・筑波大附属小同附属中・高)で1888年11月に校章として制定されたことに起源を持つ。これは明治天皇の行幸の際、皇室の御紋章である五七の桐章を校章に用いるようご沙汰を頂いたことによる。しかし五七の桐では不敬にわたることがあってはとの理由で五三の桐となった。

その後、母体である東京高師においても1903年に改定された「東京高等師範学校生徒徽章」で制定され、1949年製作の東京教育大学学生バッジや、筑波大学のシンボルマークに受け継がれて現在に至る。「桐紋」と呼ばれる図形は、菊花紋章と並んで日本国の伝統的な紋章および国章として用いられているが、当校の校章は花の部分のみ「蔭」で表現される独特なものである。

歴代学長[編集]

キャンパス[編集]

東京教育大学には、次の3つの主要キャンパスがあった。

  • 大塚キャンパス
    文学部・理学部・教育学部
  • 駒場キャンパス
    農学部
  • 幡ヶ谷キャンパス
    体育学部

教育研究組織[編集]

学部[編集]

一般教養の課程はなく、学生は入学の時点で、各学科または専攻に所属していた。

  • 文学部
    • 哲学科
      • 哲学専攻
      • 倫理学専攻
    • 史学科
      • 史学方法論専攻
      • 日本史学専攻
      • 東洋史学専攻
      • 西洋史学専攻
    • 文学科
      • 国語国文学専攻
      • 漢文学専攻
      • 英語英文学専攻
      • アメリカ文学専攻(1965年創設)
      • ドイツ語ドイツ文学専攻
      • フランス語フランス文学専攻
      • 言語学専攻
    • 社会科学科
      • 社会学専攻
      • 法律政治学専攻
      • 経済学専攻
  • 理学部
  • 教育学部
    • 教育学科
    • 心理学科
    • 特殊教育学科
    • 芸術学科
      • 芸術学専攻
      • 絵画専攻(1957年までは絵画学専攻であった)
      • 彫塑専攻(1957年までは彫塑学専攻であった)
      • 書専攻(1957年創設、1957年までは書学専攻であった))
      • 構成専攻(1957年までは構成学専攻であった)
      • 工芸・工業デザイン専攻(1957年までは工芸建築学専攻であった)
  • 農学部
    • 農学科
    • 農芸化学科
    • 農業工学科
      • 農業土木専攻
      • 農業機械学専攻
    • 林学科
      • 林学専攻
      • 木材工学専攻
    • 農村経済学科
    • 生物化学工学科
  • 体育学部

大学院[編集]

研究所[編集]

附属学校[編集]

東京教育大学の附属学校は、師範学校(創設時には東京師範学校ではなく師範学校と呼称された)と同時に創設された附属小、東京高等師範学校時代に創設された附属中・高と、それら以外の戦後に設立・編入された各学校に分けられる。いずれも東京教育大学の閉学に伴い、筑波大学に移管された。

校地の変遷と継承[編集]

旧制以前のことは、ここでは省略する。旧制諸学校を参照されたい。

東京教育大学の母体となった東京高等師範学校東京文理科大学は文京区大塚に、東京農業教育専門学校は目黒区駒場に、東京体育専門学校は渋谷区幡ヶ谷にあった。そこで、そのままに引き継ぐ形で、上記「キャンパス」に見られるように、3キャンパスにそれぞれの5学部が成立した。なお、教養部制をとらず、1年生でも専門課程を履修でき、4年生でも教養課程を履修できた。

筑波大学発足後は、東京教育大学が管理していた校地は、次のように変化している(不明部分の加筆訂正を待ちます)。

関係者[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

テンプレート:筑波大学の源流・前身諸機関 テンプレート:筑波大学学長