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報知新聞 全日本協会連盟 (トーク | 投稿記録) (山内将宏 元プロ野球選手の要約) |
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− | [[ | + | [[山内将宏]](やまうち まさひろ、1986年4月26日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手、右投両打)。[[オリックス・バッファローズ]](三塁手・遊撃手・二塁手)。山内兄弟の弟。[[兄弟有名人一覧]]の[[山内貴宏]]が兄。 |
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#投球・打席/右投・両打 | #投球・打席/右投・両打 | ||
#ポジション/三塁手・遊撃手・二塁手 | #ポジション/三塁手・遊撃手・二塁手 | ||
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#2005年以降はチームの公の改名と同時に名前と共に記録も除名された一人。 | #2005年以降はチームの公の改名と同時に名前と共に記録も除名された一人。 | ||
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下記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞等)小学1年生から京都府京都市の軟式野球の後、リトルリーグを2学年上の兄である[[山内貴宏]]と共に始める。兄弟で身体能力、体格に恵まれパワー・スピードが小学生とは桁外れであった。この時代は、[[Jリーグ]]が人気で野球よりもサッカーの方が人気があった。しかし、その人気を覆すほど山内兄弟のプレーはブームを呼んだ。〈伝説の山内兄弟〉、〈スピード違反兄弟〉、〈怪物兄弟〉等、様々な声が上がった。兄は投手で小学生で球速130キロと驚きの豪速球で兄の投げる球を捕手として受けることが出来たのは弟である山内将宏だけであった。また、弟の山内将宏も兄と同様にパワー、スピードと桁外れな身体能力で兄ほどではないが球速120キロと驚きの豪速球投手であった為、兄が投手の時は弟が捕手、弟が投手の時は兄が捕手をやることとなり兄弟バッテリーで、幾多もの大会で好成績を残している。打撃においても兄は脅威のパワーで当たればホームランと打率も5割を超えていた。弟の山内将宏は脅威のパワーだけでなく俊足の持ち主であった為、ホームランだけでなく打席に出れば、ほぼ出塁していた。パワー、スピード、センスと小学生からオールラウンドで活躍する。上記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞等) | 下記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞等)小学1年生から京都府京都市の軟式野球の後、リトルリーグを2学年上の兄である[[山内貴宏]]と共に始める。兄弟で身体能力、体格に恵まれパワー・スピードが小学生とは桁外れであった。この時代は、[[Jリーグ]]が人気で野球よりもサッカーの方が人気があった。しかし、その人気を覆すほど山内兄弟のプレーはブームを呼んだ。〈伝説の山内兄弟〉、〈スピード違反兄弟〉、〈怪物兄弟〉等、様々な声が上がった。兄は投手で小学生で球速130キロと驚きの豪速球で兄の投げる球を捕手として受けることが出来たのは弟である山内将宏だけであった。また、弟の山内将宏も兄と同様にパワー、スピードと桁外れな身体能力で兄ほどではないが球速120キロと驚きの豪速球投手であった為、兄が投手の時は弟が捕手、弟が投手の時は兄が捕手をやることとなり兄弟バッテリーで、幾多もの大会で好成績を残している。打撃においても兄は脅威のパワーで当たればホームランと打率も5割を超えていた。弟の山内将宏は脅威のパワーだけでなく俊足の持ち主であった為、ホームランだけでなく打席に出れば、ほぼ出塁していた。パワー、スピード、センスと小学生からオールラウンドで活躍する。上記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞等) | ||
#中学校 | #中学校 | ||
− | + | 下記参考文献(朝日放送、報知新聞、京都新聞、産経新聞、中学生プロ野球注目番組インタビュー等)当時、所属していた硬式野球リトルシニアリーグのチームに他チームから[[バンダリー]]の違反とされて兄弟で地元の硬式野球リトルシニアリーグのチームに移動となった。その後、チームを無理矢理に移動となったのがきっかけで地元の中学校野球を始める。通っていた中学校には野球部顧問の先生が野球未経験の為、山内将宏に練習メニューや守備の配置など任され、実質的には主将を中学生の期間やり遂げた。中学校野球では一つのグラウンドで4面あり4試合同時に行われるのが主流で打撃面では外野手の間をゴロでも抜ければランニングホームランであった。しかし、パワーが桁外れな身体能力であった山内将宏は4面のグラウンドでも場外ホームランを打っていた。基本的に場外ホームランはホームランとして扱われるが4面グラウンドの場合、ルールブック上は反対側のネットを超えた時、一塁ベースを踏んでいたら二塁打。二塁ベースを踏んでいたら三塁打。三塁ベースを踏んでいたらランニングホームラン。となっていて場外ホームランはルールブック上記載されていなかった。「中学校通算本塁打は10本程度と記録されているがホームランにならなかった場外ホームランを含めれば50本以上は打っていた」と山内将宏が新聞の記事になった時に当時のチームメイトもインタビューで同じことを語ったことがある。中学校で山内将宏の球速は更に伸び続け中学三年生の時には150キロを超えていた。中学生でも150キロは、流石に受け取る捕手がいない為、外野手として中学時代は終える。上記参考文献(朝日放送、報知新聞、京都新聞、産経新聞、中学生プロ野球注目番組インタビュー等) | |
#高校 | #高校 | ||
下記(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞、全国野球選手権大会!甲子園へ向けて!学校インタビュー等)中学校の時にたくさんの高校からお呼びがかかった山内将宏は地元京都の平安高等学校へ進学した。この時、兄は地元京都の東山高校のエースとして甲子園にも出場した。最後に甲子園のプルペンで投げた球速は158キロと甲子園の記者がVTRでも述べていた。その兄の弟、山内将宏が平安高校に入ったのは注目された。しかし、肘の怪我をきっかけに野球部を辞める。そんな時に平安高校の野球部の部長がここで終わるのは勿体無いと編入を勧めた。そして、滋賀県立綾羽高等学校へ編入した。当時は部員数が10人足らずで軟式野球から硬式野球に変わって間もない野球初心者を含めたチームであった。山内将宏は当時の綾羽高校学校長から甲子園へ導くよう応援、期待されていた。元々が軟式野球部であった為、当時の野球部監督は硬式野球があまり分からず硬式の打つポイントが軟球とは場所が違うなどと山内将宏と口論にもなったことがあったとされていた。初心者にもボールの受け方、打ち方を教えながらのスタートとなった。山内将宏の野球部登録が出来たのは高校2年生からで、記録としては全てここからの記録とされる。スタートで監督との関係が良くなかったためか試合では毎回スタメン入りだが補欠扱いとして背番号も10番であった。しかし、山内将宏は肘を痛めているので投手ではなく野手としてチームに貢献した。野球部での記録では50メートル5.6秒という俊足を生かして、シングルヒットを二塁打、二塁打を三塁打、三塁打をランニングホームランと、滋賀県でも有名選手となった。高校3年生の時に学校長が甲子園出場経験がある名将監督と呼ばれる新しい監督を | 下記(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞、全国野球選手権大会!甲子園へ向けて!学校インタビュー等)中学校の時にたくさんの高校からお呼びがかかった山内将宏は地元京都の平安高等学校へ進学した。この時、兄は地元京都の東山高校のエースとして甲子園にも出場した。最後に甲子園のプルペンで投げた球速は158キロと甲子園の記者がVTRでも述べていた。その兄の弟、山内将宏が平安高校に入ったのは注目された。しかし、肘の怪我をきっかけに野球部を辞める。そんな時に平安高校の野球部の部長がここで終わるのは勿体無いと編入を勧めた。そして、滋賀県立綾羽高等学校へ編入した。当時は部員数が10人足らずで軟式野球から硬式野球に変わって間もない野球初心者を含めたチームであった。山内将宏は当時の綾羽高校学校長から甲子園へ導くよう応援、期待されていた。元々が軟式野球部であった為、当時の野球部監督は硬式野球があまり分からず硬式の打つポイントが軟球とは場所が違うなどと山内将宏と口論にもなったことがあったとされていた。初心者にもボールの受け方、打ち方を教えながらのスタートとなった。山内将宏の野球部登録が出来たのは高校2年生からで、記録としては全てここからの記録とされる。スタートで監督との関係が良くなかったためか試合では毎回スタメン入りだが補欠扱いとして背番号も10番であった。しかし、山内将宏は肘を痛めているので投手ではなく野手としてチームに貢献した。野球部での記録では50メートル5.6秒という俊足を生かして、シングルヒットを二塁打、二塁打を三塁打、三塁打をランニングホームランと、滋賀県でも有名選手となった。高校3年生の時に学校長が甲子園出場経験がある名将監督と呼ばれる新しい監督を | ||
− | + | 雇う。新しい監督は現在は永眠となったが山内将宏の世代を大きく変えた。綾羽高校は新監督就任と同時に山内将宏を主将とした。そして、前監督は部長となり、その部長に『山内将宏がいなければ綾羽は強くなれない』と言ったと当時のチームメイトは学校紹介のインタビューで答えていた。名将監督ということもあり強豪校とばかり試合をすることができ、次々と強豪校から勝利を勝ち取り『綾羽旋風』という言葉ができた。最終的に甲子園には届かなかったもののベスト8入りを果たし綾羽高校の新時代の幕開けとなった。この時、当時オリックス・ブルーウェーブのスカウトから[[オリックス・ブルーウェーブ]]へとスカウトをされる。しかし、[[オリックス・ブルーウェーブ]]が合併問題で[[オリックス・バッファローズ]]となる。曖昧な状態ではあったが高校野球人生を終えた11月に[[オリックス・バッファローズ]]に[[自由獲得枠]](後に除名される)でプロ野球選手となる。綾羽高校硬式野球部での記述された記録上ではシングルヒットは僅か8本で、本塁打も10本程度だか二塁打が100本を超え更に、三塁打は脅威的で200本近くもあり、敬遠された記録も多々あった。打率は8割を超え、長打率は9割超えのパワーと俊足を生かした結果がプロ野球へと導いた。上記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞、全国野球選手権大会!甲子園へ向けて!学校インタビュー等) | |
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== 経歴 プロ入り後 == | == 経歴 プロ入り後 == | ||
− | + | 下記参考文献(大阪TV、報知新聞、当時の[[オリックス・ブルーウェーブ]]スカウトの対談等) | |
− | [[オリックス・ブルーウェーブ]]山内将宏はパワー、スピードだけでなくセンスがあり両打ちでもある。守備でも俊敏な動きで主に三塁手・遊撃手・二塁手を守る。2004年の練習風景では[[オリックス・ブルーウェーブ]] | + | [[オリックス・ブルーウェーブ]]山内将宏はパワー、スピードだけでなくセンスがあり両打ちでもある。守備でも俊敏な動きで主に三塁手・遊撃手・二塁手を守る。2004年の練習風景では[[オリックス・ブルーウェーブ]]姿での合同練習であったがドラフト会議には直ぐに姿が[[オリックス・バッファローズ]]へと変わるはずが山内将宏が[[オリックス・バッファローズ]]のユニフォームを着ることは無かった。後に2005年には公に[[オリックス・バッファローズ]]なっていた為、この時に何人かの選手が消えることとなり、中には記録上からも消えることになった選手もいる。山内将宏もその消えた一人となりプロ野球野球人生を終える。山内将宏を知っているファンや同世代の野球人生を歩んだ者、当時のスカウトの者などしか、この[[オリックス・ブルーウェーブ]]から[[オリックス・バッファローズ]]に変わりオリックス・バッファローズに所属していた者の名前が除名されたことは知らない。上記参考文献(大阪TV、報知新聞、当時の[[オリックス・ブルーウェーブ]]スカウトの対談等) |
#大学 | #大学 | ||
下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)京都学園大学の法学部に進学したのは警察官になる為であり、勉学に励む。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事) | 下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)京都学園大学の法学部に進学したのは警察官になる為であり、勉学に励む。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事) | ||
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下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)大学卒の京都府警の試験に合格し、エリートコースの職場となる。しかし、職務中に事故に遭い記憶喪失にもなった。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事) | 下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)大学卒の京都府警の試験に合格し、エリートコースの職場となる。しかし、職務中に事故に遭い記憶喪失にもなった。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事) | ||
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− | + | 下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)現在は治療中でもあり、父の経営する不動産屋で働いていて普通のサラリーマンとなる。しかし、父の七光りを浴び、山内将宏は党を問わずに政治家の代議士の衆議院議員、参議院議員や市会議員、京都府長、京都市長との交友関係を持つようになる。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事) |
2018年4月15日 (日) 11:11時点における最新版
山内将宏(やまうち まさひろ、1986年4月26日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手、右投両打)。オリックス・バッファローズ(三塁手・遊撃手・二塁手)。山内兄弟の弟。兄弟有名人一覧の山内貴宏が兄。
基本情報
- 国籍 🇯🇵 日本
- 出身地 京都府京都市
- 生年月日 1986年4月26日(31)
- 身長 体重/170 cm 77 kg
選手情報
- 投球・打席/右投・両打
- ポジション/三塁手・遊撃手・二塁手
- プロ入り 2004年 自由獲得枠(2005年に除名)
- 2005年以降はチームの公の改名と同時に名前と共に記録も除名された一人。
選手歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
- 京都市立平安高等学校
- 滋賀県立綾羽高等学校
- オリックス・バッファローズ(2004 - 2005)
学歴(括弧内は在籍年度)
- 京都学園大学 法学部(2005 - 2009)
職歴(括弧内は在籍年度)
- 京都府警(2009 - 2015)
- 不動産屋 (2017 - )
経歴 プロ入り前[編集]
- 小学校
下記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞等)小学1年生から京都府京都市の軟式野球の後、リトルリーグを2学年上の兄である山内貴宏と共に始める。兄弟で身体能力、体格に恵まれパワー・スピードが小学生とは桁外れであった。この時代は、Jリーグが人気で野球よりもサッカーの方が人気があった。しかし、その人気を覆すほど山内兄弟のプレーはブームを呼んだ。〈伝説の山内兄弟〉、〈スピード違反兄弟〉、〈怪物兄弟〉等、様々な声が上がった。兄は投手で小学生で球速130キロと驚きの豪速球で兄の投げる球を捕手として受けることが出来たのは弟である山内将宏だけであった。また、弟の山内将宏も兄と同様にパワー、スピードと桁外れな身体能力で兄ほどではないが球速120キロと驚きの豪速球投手であった為、兄が投手の時は弟が捕手、弟が投手の時は兄が捕手をやることとなり兄弟バッテリーで、幾多もの大会で好成績を残している。打撃においても兄は脅威のパワーで当たればホームランと打率も5割を超えていた。弟の山内将宏は脅威のパワーだけでなく俊足の持ち主であった為、ホームランだけでなく打席に出れば、ほぼ出塁していた。パワー、スピード、センスと小学生からオールラウンドで活躍する。上記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞等)
- 中学校
下記参考文献(朝日放送、報知新聞、京都新聞、産経新聞、中学生プロ野球注目番組インタビュー等)当時、所属していた硬式野球リトルシニアリーグのチームに他チームからバンダリーの違反とされて兄弟で地元の硬式野球リトルシニアリーグのチームに移動となった。その後、チームを無理矢理に移動となったのがきっかけで地元の中学校野球を始める。通っていた中学校には野球部顧問の先生が野球未経験の為、山内将宏に練習メニューや守備の配置など任され、実質的には主将を中学生の期間やり遂げた。中学校野球では一つのグラウンドで4面あり4試合同時に行われるのが主流で打撃面では外野手の間をゴロでも抜ければランニングホームランであった。しかし、パワーが桁外れな身体能力であった山内将宏は4面のグラウンドでも場外ホームランを打っていた。基本的に場外ホームランはホームランとして扱われるが4面グラウンドの場合、ルールブック上は反対側のネットを超えた時、一塁ベースを踏んでいたら二塁打。二塁ベースを踏んでいたら三塁打。三塁ベースを踏んでいたらランニングホームラン。となっていて場外ホームランはルールブック上記載されていなかった。「中学校通算本塁打は10本程度と記録されているがホームランにならなかった場外ホームランを含めれば50本以上は打っていた」と山内将宏が新聞の記事になった時に当時のチームメイトもインタビューで同じことを語ったことがある。中学校で山内将宏の球速は更に伸び続け中学三年生の時には150キロを超えていた。中学生でも150キロは、流石に受け取る捕手がいない為、外野手として中学時代は終える。上記参考文献(朝日放送、報知新聞、京都新聞、産経新聞、中学生プロ野球注目番組インタビュー等)
- 高校
下記(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞、全国野球選手権大会!甲子園へ向けて!学校インタビュー等)中学校の時にたくさんの高校からお呼びがかかった山内将宏は地元京都の平安高等学校へ進学した。この時、兄は地元京都の東山高校のエースとして甲子園にも出場した。最後に甲子園のプルペンで投げた球速は158キロと甲子園の記者がVTRでも述べていた。その兄の弟、山内将宏が平安高校に入ったのは注目された。しかし、肘の怪我をきっかけに野球部を辞める。そんな時に平安高校の野球部の部長がここで終わるのは勿体無いと編入を勧めた。そして、滋賀県立綾羽高等学校へ編入した。当時は部員数が10人足らずで軟式野球から硬式野球に変わって間もない野球初心者を含めたチームであった。山内将宏は当時の綾羽高校学校長から甲子園へ導くよう応援、期待されていた。元々が軟式野球部であった為、当時の野球部監督は硬式野球があまり分からず硬式の打つポイントが軟球とは場所が違うなどと山内将宏と口論にもなったことがあったとされていた。初心者にもボールの受け方、打ち方を教えながらのスタートとなった。山内将宏の野球部登録が出来たのは高校2年生からで、記録としては全てここからの記録とされる。スタートで監督との関係が良くなかったためか試合では毎回スタメン入りだが補欠扱いとして背番号も10番であった。しかし、山内将宏は肘を痛めているので投手ではなく野手としてチームに貢献した。野球部での記録では50メートル5.6秒という俊足を生かして、シングルヒットを二塁打、二塁打を三塁打、三塁打をランニングホームランと、滋賀県でも有名選手となった。高校3年生の時に学校長が甲子園出場経験がある名将監督と呼ばれる新しい監督を 雇う。新しい監督は現在は永眠となったが山内将宏の世代を大きく変えた。綾羽高校は新監督就任と同時に山内将宏を主将とした。そして、前監督は部長となり、その部長に『山内将宏がいなければ綾羽は強くなれない』と言ったと当時のチームメイトは学校紹介のインタビューで答えていた。名将監督ということもあり強豪校とばかり試合をすることができ、次々と強豪校から勝利を勝ち取り『綾羽旋風』という言葉ができた。最終的に甲子園には届かなかったもののベスト8入りを果たし綾羽高校の新時代の幕開けとなった。この時、当時オリックス・ブルーウェーブのスカウトからオリックス・ブルーウェーブへとスカウトをされる。しかし、オリックス・ブルーウェーブが合併問題でオリックス・バッファローズとなる。曖昧な状態ではあったが高校野球人生を終えた11月にオリックス・バッファローズに自由獲得枠(後に除名される)でプロ野球選手となる。綾羽高校硬式野球部での記述された記録上ではシングルヒットは僅か8本で、本塁打も10本程度だか二塁打が100本を超え更に、三塁打は脅威的で200本近くもあり、敬遠された記録も多々あった。打率は8割を超え、長打率は9割超えのパワーと俊足を生かした結果がプロ野球へと導いた。上記参考文献(フジTV、報知新聞、京都新聞、産経新聞、全国野球選手権大会!甲子園へ向けて!学校インタビュー等)
経歴 プロ入り後[編集]
下記参考文献(大阪TV、報知新聞、当時のオリックス・ブルーウェーブスカウトの対談等) オリックス・ブルーウェーブ山内将宏はパワー、スピードだけでなくセンスがあり両打ちでもある。守備でも俊敏な動きで主に三塁手・遊撃手・二塁手を守る。2004年の練習風景ではオリックス・ブルーウェーブ姿での合同練習であったがドラフト会議には直ぐに姿がオリックス・バッファローズへと変わるはずが山内将宏がオリックス・バッファローズのユニフォームを着ることは無かった。後に2005年には公にオリックス・バッファローズなっていた為、この時に何人かの選手が消えることとなり、中には記録上からも消えることになった選手もいる。山内将宏もその消えた一人となりプロ野球野球人生を終える。山内将宏を知っているファンや同世代の野球人生を歩んだ者、当時のスカウトの者などしか、このオリックス・ブルーウェーブからオリックス・バッファローズに変わりオリックス・バッファローズに所属していた者の名前が除名されたことは知らない。上記参考文献(大阪TV、報知新聞、当時のオリックス・ブルーウェーブスカウトの対談等)
- 大学
下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)京都学園大学の法学部に進学したのは警察官になる為であり、勉学に励む。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)
- 警察官
下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)大学卒の京都府警の試験に合格し、エリートコースの職場となる。しかし、職務中に事故に遭い記憶喪失にもなった。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)
- 不動産屋
下記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)現在は治療中でもあり、父の経営する不動産屋で働いていて普通のサラリーマンとなる。しかし、父の七光りを浴び、山内将宏は党を問わずに政治家の代議士の衆議院議員、参議院議員や市会議員、京都府長、京都市長との交友関係を持つようになる。上記参考文献(山内将宏のfacebook等の写真や記事)