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'''岩本薫'''(いわもと かおる、[[1902年]][[2月5日]] - [[1999年]][[11月29日]])は囲碁棋士。タイトルは第3、4期の本因坊。広瀬平治郎八段門下。
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'''岩本薫'''(いわもと かおる、[[1902年]][[2月5日]] - [[1999年]][[11月29日]])は囲碁棋士。タイトルは第3、4期の本因坊。[[広瀬平治郎]]八段門下。囲碁殿堂入り。
  
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
 
島根県美濃郡高津村(現[[益田市]])に生まれる。3歳で[[韓国]]の[[釜山広域市|釜山]]へ移住。10歳で父から囲碁を習う。1913年(大正2年)11歳の時に釜山に立ち寄った[[高部道平]]と6子で打って東京での修行を勧められ、上京して[[方円社]]の広瀬平治郎六段(当時)に入門。1917年(大正6年)入段、1920年三段昇段、記念に各務の主催で[[小岸壮二]]と十番碁を打つ。大正11年4段。1924年の碁界大合同で日本棋院に加わる。
 
島根県美濃郡高津村(現[[益田市]])に生まれる。3歳で[[韓国]]の[[釜山広域市|釜山]]へ移住。10歳で父から囲碁を習う。1913年(大正2年)11歳の時に釜山に立ち寄った[[高部道平]]と6子で打って東京での修行を勧められ、上京して[[方円社]]の広瀬平治郎六段(当時)に入門。1917年(大正6年)入段、1920年三段昇段、記念に各務の主催で[[小岸壮二]]と十番碁を打つ。大正11年4段。1924年の碁界大合同で日本棋院に加わる。
1926年に六段、[[棋正社]]との院社対抗戦で[[雁金準一]]に勝ち、[[小野田千代太郎]]に敗退。
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1926年に六段、[[棋正社]]との[[院社対抗戦]]で[[雁金準一]]に勝ち、[[小野田千代太郎]]に敗退。
1945年に[[本因坊]]挑戦者となり、橋本昭宇本因坊との六番勝負で3勝3敗となり、翌年に再決戦三番勝負に2連勝して本因坊に就位、薫和と号する。1947年の第4期は、初のコミ4目半を導入した五番勝負で、挑戦者の[[木谷実]]八段に3勝2敗で防衛した。
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1945年に[[本因坊]]挑戦者となり、橋本昭宇([[橋本宇太郎]])本因坊との六番勝負で3勝3敗となり、翌年に再決戦三番勝負に2連勝して本因坊に就位、薫和と号する。1947年の第4期は、初のコミ4目半を導入した五番勝負で、挑戦者の[[木谷実]]八段に3勝2敗で防衛した。
 
翌年本因坊2期の実績により、当時の最高段位である八段に推挙された。
 
翌年本因坊2期の実績により、当時の最高段位である八段に推挙された。
 
1949年には[[呉清源]]と十番碁を行い、第6局までで呉の5勝1敗で先相先に打込まれた。
 
1949年には[[呉清源]]と十番碁を行い、第6局までで呉の5勝1敗で先相先に打込まれた。
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1955年(昭和30年)、第2期NHK杯戦優勝。
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1983年(昭和58年)4月、81歳で現役を引退する。
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1999年(平成11年)11月29日逝去する。97歳。
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平成23年、[[日本棋院]][[囲碁殿堂]]入り。
  
 
== 棋風 ==
 
== 棋風 ==
序盤は石をあちこちに散在させるため「豆まき碁」と呼ばれた。
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序盤は石をあちこちに散在させるため「豆まき碁」と呼ばれた。軽妙にも見える打ち回しの裏に恐ろしい力を秘めている。中終盤の強烈無比の寄り付きに定評がある。
  
 
== 人物 ==
 
== 人物 ==
1948年から[[日本棋院]]理事長、1954年から中央会館館長を歴任。
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*1948年から[[日本棋院]]理事長、1954年から中央会館館長を歴任。
1961年から米国に1年半滞在し、囲碁の海外普及に情熱を注いだ。
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*1961年から米国に1年半滞在し、囲碁の海外普及に情熱を注いだ。
アメリカ・[[ヨーロッパ]]各国・[[南アメリカ|南米]]等を訪問して囲碁の指導と普及を行った。
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*昭和4年に碁界を退いてブラジルに移住した。昭和6年に帰国し碁界に復帰した。
岩本基金により[[サンパウロ]]、[[アムステルダム]]、[[ニューヨーク]]、[[シアトル]]の囲碁会館設立を支援した。
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*アメリカ・[[ヨーロッパ]]各国・[[南アメリカ|南米]]等を訪問して囲碁の指導と普及を行った。
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*岩本基金により[[サンパウロ]]、[[アムステルダム]]、[[ニューヨーク]]、[[シアトル]]の囲碁会館設立を支援した。
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*恵比寿に昭和44年、囲碁サロンを開設したが、昭和61年に囲碁サロンを売却し、日本棋院に5億3千万円を寄付した。
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*1945年(昭和20年)の日本棋院が戦災で焼失した後は自宅を仮事務所にし棋院新館の復興に尽力した。
  
 
== 門下生 ==
 
== 門下生 ==
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門下に[[曲励起]]九段、[[福井正明]]九段、[[福井進]]九段、[[中岡二郎]]七段、[[梅木英]]八段、[[野口仁]]七段、[[河野征夫]]五段、[[新海洋子]]五段、[[中村邦子]]二段、[[吉田晴美]]初段。
  
門下には[[曲励起]]九段、[[福井正明]]九段、[[福井進]]九段、中岡二郎七段。
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== 対戦相手別成績 ==
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*①[[小野田千代太郎]] 52局(26勝26敗)
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*②[[木谷実]] 46局(22勝22敗2持碁)
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*③[[林有太郎]] 44局(32勝9敗3持碁)
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*④[[橋本宇太郎]] 40局(15勝24敗1持碁)
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*⑤[[向井一男]] 37局(24勝12敗1持碁)
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*⑥[[呉清源]] 35局(10勝23敗2持碁)
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*⑦[[前田陳爾]] 34局(18勝16敗)
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*⑧[[藤沢朋斎]] 31局(12勝19敗)
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*⑨[[長谷川章]] 30局(19勝9敗2持碁)
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*⑩[[篠原正美]] 28局(14勝12敗2持碁)
  
 
===著作===
 
===著作===

2017年11月3日 (金) 23:07時点における最新版

岩本薫(いわもと かおる、1902年2月5日 - 1999年11月29日)は囲碁棋士。タイトルは第3、4期の本因坊。広瀬平治郎八段門下。囲碁殿堂入り。

経歴[編集]

島根県美濃郡高津村(現益田市)に生まれる。3歳で韓国釜山へ移住。10歳で父から囲碁を習う。1913年(大正2年)11歳の時に釜山に立ち寄った高部道平と6子で打って東京での修行を勧められ、上京して方円社の広瀬平治郎六段(当時)に入門。1917年(大正6年)入段、1920年三段昇段、記念に各務の主催で小岸壮二と十番碁を打つ。大正11年4段。1924年の碁界大合同で日本棋院に加わる。 1926年に六段、棋正社との院社対抗戦雁金準一に勝ち、小野田千代太郎に敗退。 1945年に本因坊挑戦者となり、橋本昭宇(橋本宇太郎)本因坊との六番勝負で3勝3敗となり、翌年に再決戦三番勝負に2連勝して本因坊に就位、薫和と号する。1947年の第4期は、初のコミ4目半を導入した五番勝負で、挑戦者の木谷実八段に3勝2敗で防衛した。 翌年本因坊2期の実績により、当時の最高段位である八段に推挙された。 1949年には呉清源と十番碁を行い、第6局までで呉の5勝1敗で先相先に打込まれた。 1955年(昭和30年)、第2期NHK杯戦優勝。 1983年(昭和58年)4月、81歳で現役を引退する。 1999年(平成11年)11月29日逝去する。97歳。 平成23年、日本棋院囲碁殿堂入り。

棋風[編集]

序盤は石をあちこちに散在させるため「豆まき碁」と呼ばれた。軽妙にも見える打ち回しの裏に恐ろしい力を秘めている。中終盤の強烈無比の寄り付きに定評がある。

人物[編集]

  • 1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。
  • 1961年から米国に1年半滞在し、囲碁の海外普及に情熱を注いだ。
  • 昭和4年に碁界を退いてブラジルに移住した。昭和6年に帰国し碁界に復帰した。
  • アメリカ・ヨーロッパ各国・南米等を訪問して囲碁の指導と普及を行った。
  • 岩本基金によりサンパウロアムステルダムニューヨークシアトルの囲碁会館設立を支援した。
  • 恵比寿に昭和44年、囲碁サロンを開設したが、昭和61年に囲碁サロンを売却し、日本棋院に5億3千万円を寄付した。
  • 1945年(昭和20年)の日本棋院が戦災で焼失した後は自宅を仮事務所にし棋院新館の復興に尽力した。

門下生[編集]

門下に曲励起九段、福井正明九段、福井進九段、中岡二郎七段、梅木英八段、野口仁七段、河野征夫五段、新海洋子五段、中村邦子二段、吉田晴美初段。

対戦相手別成績[編集]

著作[編集]

  • 岩本薫(1955)『棋聖秀策の布石(上下)』, 東京創元社
  • 岩本薫(1975)『算砂・道碩 (日本囲碁大系第1巻) 』,筑摩書房
  • 岩本薫(1979)『囲碁を世界に(本因坊薫和回顧録)』,講談社
  • 岩本薫(1954)『囲碁学校〔第1〕置碁篇』,誠文堂新光社
  • 岩本薫(1965)『碁の打ち方―手筋の基礎知識』,新星出版社
  • 岩本薫(1996)『打込の戦術 (囲碁双書 9)』,棋苑図書
  • 岩本薫(1954)『攻防要義』,棋園図書