「中川亀三郎」の版間の差分
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*巌崎健造いわく、先生平生性格温厚、珠のごとしと評す。対局時の手厳しい打ち方は別人のようであったとする<ref name=abdo></ref>。 | *巌崎健造いわく、先生平生性格温厚、珠のごとしと評す。対局時の手厳しい打ち方は別人のようであったとする<ref name=abdo></ref>。 | ||
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*雑誌「囲棋新報」を発行した。 | *雑誌「囲棋新報」を発行した。 | ||
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+ | *「囲碁段級人名録」(1894年(明治27年)1月)には九段、八段は空席、七段に中川亀三郎(方円社社長)、六段に[[巌崎健造]]、[[梅津長江]]の2名であった<ref>中川亀三郎『囲碁段級人名録』,方円社,1894年</ref>。 | ||
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門下に[[雁金準一]]。 | 門下に[[雁金準一]]。 | ||
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+ | *中川亀三郎・小林鉄次郎・巌埼健造『囲碁大鑑 (上)(下)』(和装),日昌館,1893年 | ||
+ | *中川亀三郎『囲碁段級人名録』(和装),方円社,1894年 | ||
==参考文献== | ==参考文献== |
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中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、1837年(天保8年) - 1903年(明治36年)10月13日)は、囲碁棋士。2代目方円社社長。2代目中川亀三郎(石井千治)と区別して、初代中川亀三郎ともいわれる。
経歴[編集]
十二世名人本因坊丈和の第三子として、武蔵国・江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上節山因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。幼名を長三郎とし、後に亀三郎となった。本姓は葛野。叔父の家を相続し、中川姓となる。幼児のころ囲碁で身を立てる気がなく、11歳で父が亡くなり石を持つ。13歳で秀策に伴われ、本因坊秀和に入門。16歳で初段となる。20歳で三段、26歳で五段、1866年(慶応2年)、29歳で六段[1]。 1873年(明治6年)、小林鉄次郎と十番碁。1876年(明治9年)、林秀栄と十番碁。
明治維新後、井上家の小林鉄次郎、高橋周徳等と研究会を組織し、越後にいた村瀬秀輔を呼び寄せ、1879年(明治12年)4月、方円社を神田区表神保町に設立し、中川亀三郎は副社長に就任した。方円社の設立者は、秀甫ではなく、中川である。明治14年方円社の会議で村瀬秀輔を准名人、中川亀三郎を上手、小林鉄次郎を六段に進めた。このあとの対局で秀甫に敗れて先二に打込まれる。方円社の常置指南役の一人を務める。
秀栄と秀甫が和解すると、中川は本因坊家は実子相続しても差し支えないとはいえ、技芸を考えると、技量卓絶の士をもって相続すべしと語る。秀栄これを聞いて、明治18年7月、本因坊家を秀甫に譲った。亀三郎は本因坊家相続の意思がなく、秀栄が争碁をもって十二世を定めようとの申込を退けたため、秀栄は十二世本因坊となる。 秀甫没後は、1886年に方円社二代目社長となる。1899年に社長を引退、巌崎健造が3代目社長となる。同年、准名人八段に推される。 1903年(明治36年)9月13日、悪性感冒により死去[1]。
人物[編集]
- 墓は谷中の共同墓地。
- 戒名は「俊照院殿恭誉義山英智居士」。
- 巌崎健造いわく、先生平生性格温厚、珠のごとしと評す。対局時の手厳しい打ち方は別人のようであったとする[1]。
- あまりに暢気すぎて、要領を得ないことがあったと言われる[1]。
- 趣味は義太夫であった[1]。
- 子弟は三男三女。長子安二郎は早く没す。他はすべて他姓であった。
- 雑誌「囲棋新報」を発行した。
- 1900年(明治33年)1月に発行された方円社の「囲碁段級人名録」で、住所は「東京市神田区五軒町2番地(現千代田区外神田六丁目)」であった[2]。1894年(明治27年)1月の住所は「東京本郷区表町61番地」であった。
- 「囲碁段級人名録」(1894年(明治27年)1月)には九段、八段は空席、七段に中川亀三郎(方円社社長)、六段に巌崎健造、梅津長江の2名であった[3]。
棋風[編集]
- 若い頃は非力であったが、25、6歳頃から腕力家になったといわれる。
門下 [編集]
門下に雁金準一。
著作[編集]
- 中川亀三郎・小林鉄次郎・巌埼健造『囲碁大鑑 (上)(下)』(和装),日昌館,1893年
- 中川亀三郎『囲碁段級人名録』(和装),方円社,1894年