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2018年1月31日 (水) 18:01時点における最新版
南方科学委員会(なんぽうかがくいいんかい)は、1943年に、南方軍軍政総監部調査部の提言によって設置された、日本軍の南方占領地域における各種調査・研究機関を統轄する委員会。各機関の研究内容を、戦争遂行のために必要な研究が優先的に効率よく行なわれ、研究成果が軍事的に活用されるように調整しようとした。1943年11月27日に第1回会合が開催されたが、戦況の悪化により、活動にはそれ以上の展開は見られなかった。
設置の提言[編集]
1943年2月23日に、同年1月に南方軍軍政総監部に設置された調査部(部長・赤松要東京商科大学経済学部教授)は、南方占領地域の各調査・研究機関に日本から司政官・技師が派遣されて要員が揃ったことから[1]、昭南博物館の付属研究室として南方民族研究室の設置を提言、研究室を母体として南方科学委員会を組織し、同委員会によって南方各地に設置された各種調査・研究機関の研究内容を、戦争遂行のために必要な研究が優先的に、効率よく行なわれ、研究成果が軍事的に活用されるように調整しようとした[2]。
このとき昭南博物館長だった徳川義親は、調査部から委員会の運営について相談を受け、調整機関の恒久的設置と、定期刊行物の発行を提言した[3]。
設置の打合せ会[編集]
1943年7月19日に、昭南博物館で「南方学術機関に関する打合せ会」が開催され、「研究所間の連絡不足や研究の重複を避ける」方針、「戦時下の調査として必須なるものから着手」する方針が確認された[4]。
研究機関は、便宜的に「基礎的研究を主とするもの(生物、民族、地学、文化方面)」と応用的調査研究を主とするもの(衛生、産業方面)」に大別された[5]。
出席者は、
- 調査部:赤松部長、河合諄太郎、石田龍次郎ら
- 昭南博物館:徳川館長、郡場寛、羽根田弥太ら
- ジャワ、スマトラ、北ボルネオ、フィリピンの各研究機関の主任
- 南方総軍総参謀長・清水規矩中将以下、参謀部(兵要地誌班)、経理部、軍医部、獣医部の関係将校
だった[6]。
調査項目・組織編成の決定[編集]
1943年10月に「南方学術機関会同」が開かれ、「緊急調査研究」項目を決定[7]。
生物学関係では、
- 咬刺動物・伝染病媒介動物・寄生虫・毒魚・害虫の地理的分布・生態・毒性・被害に関する調査
- 薬用植物・有毒植物・染料植物の地理的分布と成分に関する研究
- 救荒植物・繊維植物・材用植物の種類と利用に関する研究
が優先事項とされ[7]、
民族学関係では、
- 治安維持のための民俗調査
- 各種民族言語に対する調査
が優先事項とされた[7]。
同年11月には「南方科学委員会専門分科会編成要領」がまとめられ、農林、地下資源、化学、工業、医学、衛生、民族の5分科会が設置された[7]。清水規矩総参謀長が南方科学委員会の委員長に就任し、各委員の所属先も決められた[8]。
同月中に、南方軍軍政総監部・南方軍総司令部が研究を要望する事項のリストを提出した[9]。軍政総監部からの要望事項は、
- 農地開発とマラリア発生との関係並にその予防について
- 各種族現地人採用使用につき風俗、習慣、その他必要なる民族性の調査
- 民族別に見た工業技術者、労務者の適性調査
だった[9]。
第1回会合[編集]
1943年11月27日に、南方科学委員会の第1回会合が開かれた[10]。
徳川が所属していた「民族専門分科会」では、
- 「宗教(回教、仏教、ヒンドゥー教、道教)」
- 「各民族の取扱方法、之が参考となるべき風俗習慣に関する研究」
- 「各民族に対する民族別適応性の調査」
- 「華僑対策に資すべき研究(南支研究機関との連絡問題)」
- 「言語対策の研究(マライ語、日本語)」
が研究課題とされた[10]。
立ち消え[編集]
シンガポール市政会(1986,pp.211-212)によると、戦局の悪化により、活動にはそれ以上の展開はなかった。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- シンガポール市政会(1986) シンガポール市政会(編)『昭南特別市史−戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986年8月、全国書誌番号:87031898。