「四書五経」の版間の差分
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− | '''四書五経''' | + | '''四書五経'''(ししょごぎょう)は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う<ref>竹内照夫『四書五経入門―中国思想の形成と展開』平凡社,2000年</ref>。 |
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『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。 | 『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の[[武帝]]が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は[[孔子]]の弟子・[[孟子]]による、『論語』に似た言行録である。 | ||
『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。 | 『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。[[朱熹]]は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。 | ||
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『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。 | 『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。 | ||
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+ | 日本書紀に[[513年]]、継体天皇(450-531)の時代に、[[百済]]が大和朝廷に[[五経博士]]を派遣したと記録がある。前漢の武帝(在位紀元前 141-87)が、五経を講じる職務として[[五経博士]]を設置した。 | ||
+ | 13 世紀初頭の[[新注]](中国、宋代の儒学者、特に朱熹(朱子 1130-1200)により経典につけられた注釈)がもたらされ、主任教授である博士家などにより講読された。江戸時代、藤原惺窩(1561-1619)とその門人・林羅山(1583-1657)により、新注が本格的に紹介されて広まった。 | ||
+ | 江戸時代の[[藩校]]の教育の中心となる儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』であった。[[孝経]]は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、国民道徳に深く影響を与えた[[経書]]である。 | ||
+ | 四書五経は、[[江戸時代]]後期に下級武士や庶民の間にまで普及し、君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識を浸透させた半面、読書能力を養い教養を身に付けるなど、人民の文化水準の向上に果たした功績は大きい<ref>石川謙『日本庶民教育史』玉川大学出版部,1998年</ref>。 | ||
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+ | 『増補文選字引』<ref>山崎美成編『増補文選字引:四書五経』甘泉堂,明治11年12月</ref> 序には、四書五経と文選は古来から初学者が素読してきた、と述べている。これらの書を読めるようになれば、たいていの書は読めるようになるとしている。読み書きの基本書として用いられていたことが分かる。 | ||
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2017年9月27日 (水) 12:06時点における最新版
四書五経(ししょごぎょう)は、儒教の経典の中で特に重要とされる四書と五経の書物を言う[1]。
四書[編集]
四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」の4書物をいう。 『大学』は前430年頃書かれた書物で、もとは『礼記』の一篇。漢の武帝が儒教を国教と定めて大学を設置した 際、その教育理念を示し、君子の学習方法を論じている。『中庸』は前430年頃書かれたもので、道徳の原理、不変の道理を教える。『孟子』は孔子の弟子・孟子による、『論語』に似た言行録である。 『論語』は人の上に立つ者の生き方を教える。朱熹は『礼記』から『大学』と『中庸』を抜き出し、『論語』と『孟子』と合わせて「四子書」とした。
五経[編集]
『詩経』は文の風雅、『書経』は歴史、『礼記』は君臣・親子・男女のあり方、『易経』は予言の論理を教える。『春秋』は魯国の歴史書である。
日本での受容[編集]
日本書紀に513年、継体天皇(450-531)の時代に、百済が大和朝廷に五経博士を派遣したと記録がある。前漢の武帝(在位紀元前 141-87)が、五経を講じる職務として五経博士を設置した。 13 世紀初頭の新注(中国、宋代の儒学者、特に朱熹(朱子 1130-1200)により経典につけられた注釈)がもたらされ、主任教授である博士家などにより講読された。江戸時代、藤原惺窩(1561-1619)とその門人・林羅山(1583-1657)により、新注が本格的に紹介されて広まった。 江戸時代の藩校の教育の中心となる儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』であった。孝経は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、国民道徳に深く影響を与えた経書である。 四書五経は、江戸時代後期に下級武士や庶民の間にまで普及し、君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識を浸透させた半面、読書能力を養い教養を身に付けるなど、人民の文化水準の向上に果たした功績は大きい[2]。
『増補文選字引』[3] 序には、四書五経と文選は古来から初学者が素読してきた、と述べている。これらの書を読めるようになれば、たいていの書は読めるようになるとしている。読み書きの基本書として用いられていたことが分かる。