「平塚為広」の版間の差分
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2015年6月15日 (月) 00:49時点における最新版
平塚 為広(ひらつか ためひろ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。怪力で、槍の名手。
父は平塚入道無心。相模国平塚の地頭三浦為高(為重)の7代目の子孫。要出典しかし、先祖に関する裏付けは乏しい。通称は孫九郎。
はじめ明智光秀に仕え、本能寺の変では織田信長襲撃に参加していたとも言われている。要出典別説では秀吉の中国出陣時、秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵が播磨の戦で黒田孝高に陣借りをし、高倉山城主福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えたとし、この平塚藤蔵を為広とする[1]。
後に豊臣秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。文禄4年(1595年)7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年(1598年)、醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加している。
秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられた。同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする石田三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなり、ハンセン病がかなり進行した大谷吉継に変わり、石田三成と共に総指揮を取った。 伏見城攻めでは軍功を挙げている。のちに吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日(9月11日)には東軍の前田利長に備えるために北庄城に入る。8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日(10月9日)に関ヶ原の西南の山中村に着陣。9月14日(10月20日)、吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている[2]。9月15日(10月21日)の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも孤軍奮闘したが、小川祐忠の家臣・小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれた。その際、吉継に討ち取った敵将の首と共に辞世の句(「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。
子の庄兵衛も討死したという。また、為広と同様に怪力で知られた弟の平塚久賀は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。
昭和15年(1940年)、為広の子孫らが、為広が討ち死にした藤川の地に「平塚為広の碑」を建立した。
子孫[編集]
- 嫡男・左馬助為景は大坂夏の陣に参加、若江の戦いにて戦死している。弟の平塚越中守久賀が家康の誘いを断り三成に仕えていたといわれる[3]。
- 江戸後期には将軍・徳川家斉の側室・於万の方(旗本・平塚為善の娘。為善は時代小説『鬼平犯科帳』に、主人公・長谷川平蔵の旧友として登場する)を出した。
- 運輸大臣の平塚常次郎。
- 女性運動家の平塚らいてう。上記「平塚為広の碑」の建立にも携わった。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 平塚為広の碑 関ケ原町地域振興課