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'''平塚 為広'''(ひらつか ためひろ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]の[[武将]]。怪力で、[[]]の名手。
 
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'''平塚 為広'''(ひらつか ためひろ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]の[[武将]]。大力で、[[長刀]]の名手といわれる。
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{{要出典範囲|父は平塚入道無心。[[相模国]]平塚の地頭三浦為高(為重)の7代目の子孫。|date=2010年10月}}しかし、先祖に関する裏付けは乏しい。通称は孫九郎。
 
{{要出典範囲|父は平塚入道無心。[[相模国]]平塚の地頭三浦為高(為重)の7代目の子孫。|date=2010年10月}}しかし、先祖に関する裏付けは乏しい。通称は孫九郎。
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後に[[豊臣秀吉]]の家臣([[馬廻]])として仕え、[[小牧・長久手の戦い]]や[[小田原征伐]]に参加して武功を挙げた。[[天正]]20年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参加し、[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に駐屯した。[[文禄]]4年([[1595年]])7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年([[1598年]])、[[醍醐の花見]]にも秀吉の護衛として参加している。
 
後に[[豊臣秀吉]]の家臣([[馬廻]])として仕え、[[小牧・長久手の戦い]]や[[小田原征伐]]に参加して武功を挙げた。[[天正]]20年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参加し、[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に駐屯した。[[文禄]]4年([[1595年]])7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年([[1598年]])、[[醍醐の花見]]にも秀吉の護衛として参加している。
  
秀吉死後は[[豊臣秀頼]]に仕え、慶長5年([[1600年]])には[[美濃国|美濃]]垂井に1万2000石の所領を与えられた。同年の[[関ヶ原の戦い]]直前、[[徳川家康]]に対して挙兵しようとする[[石田三成]]を[[大谷吉継]]と共に[[佐和山城]]にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなった。[[伏見城]]攻めでは軍功を挙げている。のちに吉継に属し北国口の防備に加わり、[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]([[9月11日]])には東軍の前田利長に備えるために北庄城に入る。8月下旬、吉継とともに美濃に南進、[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]([[10月9日]])に関ヶ原の西南の山中村に着陣。[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]([[10月20日]])、吉継より[[戸田勝成]]と共に[[小早川秀秋]]の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている<ref>[[徳富蘇峰]]『[[近世日本国民史]]』より「關原役」</ref>。[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[10月21日]])の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、[[脇坂安治]]らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも孤軍奮闘したが、[[小川祐忠]]の家臣・[[小川勘助]]の隊下の[[樫井太兵衛]]に討たれた。その際、吉継に討ち取った敵将の首と共に辞世の句(「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。
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秀吉死後は[[豊臣秀頼]]に仕え、慶長5年([[1600年]])には[[美濃国|美濃]]垂井に1万2000石の所領を与えられた。同年の[[関ヶ原の戦い]]直前、[[徳川家康]]に対して挙兵しようとする[[石田三成]]を[[大谷吉継]]と共に[[佐和山城]]にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなり、[[ハンセン病]]がかなり[[進行]]した[[大谷吉継]]に変わり、[[石田三成]]と共に総[[指揮]]を取った。
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子の庄兵衛も討死したという。また、為広と同様に怪力で知られた弟の[[平塚久賀]]は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。
 
子の庄兵衛も討死したという。また、為広と同様に怪力で知られた弟の[[平塚久賀]]は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。
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2015年6月15日 (月) 00:49時点における最新版

平塚 為広(ひらつか ためひろ)は、戦国時代から安土桃山時代武将。怪力で、の名手。

父は平塚入道無心。相模国平塚の地頭三浦為高(為重)の7代目の子孫。要出典しかし、先祖に関する裏付けは乏しい。通称は孫九郎。

はじめ明智光秀に仕え、本能寺の変では織田信長襲撃に参加していたとも言われている。要出典別説では秀吉の中国出陣時、秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵が播磨の戦で黒田孝高に陣借りをし、高倉山城主福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えたとし、この平塚藤蔵を為広とする[1]

後に豊臣秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦い小田原征伐に参加して武功を挙げた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵にも参加し、肥前名護屋城に駐屯した。文禄4年(1595年)7月、長年の忠義を認められて8000石を与えられた。慶長3年(1598年)、醍醐の花見にも秀吉の護衛として参加している。

秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられた。同年の関ヶ原の戦い直前、徳川家康に対して挙兵しようとする石田三成大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、西軍に与することとなり、ハンセン病がかなり進行した大谷吉継に変わり、石田三成と共に総指揮を取った。 伏見城攻めでは軍功を挙げている。のちに吉継に属し北国口の防備に加わり、8月4日9月11日)には東軍の前田利長に備えるために北庄城に入る。8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日10月9日)に関ヶ原の西南の山中村に着陣。9月14日10月20日)、吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている[2]9月15日10月21日)の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、予想通り裏切った秀秋の部隊相手に奮戦し数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも孤軍奮闘したが、小川祐忠の家臣・小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれた。その際、吉継に討ち取った敵将の首と共に辞世の句(「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。

子の庄兵衛も討死したという。また、為広と同様に怪力で知られた弟の平塚久賀は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが放免されている。

昭和15年(1940年)、為広の子孫らが、為広が討ち死にした藤川の地に「平塚為広の碑」を建立した。

子孫[編集]

脚注[編集]

  1. 「黒田家譜」:天正五年十二月五日付下村氏宛秀吉書状に「播州佐用内ニ敵城三ツ候、其内福原城より出人数、相防候、然者竹中半兵衛小寺官兵衛両人先ニ遣候処、於城下及一戦、数多討取候、我等者ニ平塚三郎兵衛と申者、城主討取候処、其弟助合候を同討取候」とあり、この平塚三郎兵衛を藤蔵=為広とする
  2. 徳富蘇峰近世日本国民史』より「關原役」
  3. 名将言行録

外部リンク[編集]