「25カ条綱領」の版間の差分
ウーソキマスラの戯言 (トーク | 投稿記録) (ページの作成:「'''25か条綱領'''(''25-Punkte-Programm'')はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、[[ミュン...」) |
細 (→概要) |
||
6行目: | 6行目: | ||
[[1919年]]に入党した[[アドルフ・ヒトラー]]は精力的な活動を行い、党内での地位を高めていった。ヒトラーは綱領策定などを通じて党の運動を拡大するべきと主張し、[[トゥーレ協会]]の支持を受け、間接的な影響拡大を目的とする第一議長[[カール・ハラー]]と対立した。ヒトラーはドレクスラーと結託し、党規則を改定してハラーを追放した。後継の議長となったドレクスラーとヒトラーは、綱領策定5人委員会を設置し党綱領の策定を検討しはじめた。 | [[1919年]]に入党した[[アドルフ・ヒトラー]]は精力的な活動を行い、党内での地位を高めていった。ヒトラーは綱領策定などを通じて党の運動を拡大するべきと主張し、[[トゥーレ協会]]の支持を受け、間接的な影響拡大を目的とする第一議長[[カール・ハラー]]と対立した。ヒトラーはドレクスラーと結託し、党規則を改定してハラーを追放した。後継の議長となったドレクスラーとヒトラーは、綱領策定5人委員会を設置し党綱領の策定を検討しはじめた。 | ||
− | [[ナチス・ドイツ]]時代にはヒトラーが一人で作成したとされていたが、現在は事実とは見られていない。綱領の策定にはヒトラーは関わっていないという[[ヘルマン・エッサー]]の主張はあるが、ドレクスラーはヒトラーと二人で策定したと述べており、[[コンラート・ハイデン]]([[:en:Konrad Heiden|en]])、[[村瀬興雄]]等の研究者も最終的にドレクスラーとヒトラーが綱領をまとめたと見ている。ハイデンによれば外交政策についてはヒトラー、利子制度打破の主張は[[ゴットフリート・フェーダー]]、人種政策は[[ディートリヒ・エッカート]]、国有化政策はドレクスラーが主張したとされている<ref>村瀬、ナチズム、67p</ref>。 | + | [[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]時代にはヒトラーが一人で作成したとされていたが、現在は事実とは見られていない。綱領の策定にはヒトラーは関わっていないという[[ヘルマン・エッサー]]の主張はあるが、ドレクスラーはヒトラーと二人で策定したと述べており、[[コンラート・ハイデン]]([[:en:Konrad Heiden|en]])、[[村瀬興雄]]等の研究者も最終的にドレクスラーとヒトラーが綱領をまとめたと見ている。ハイデンによれば外交政策についてはヒトラー、利子制度打破の主張は[[ゴットフリート・フェーダー]]、人種政策は[[ディートリヒ・エッカート]]、国有化政策はドレクスラーが主張したとされている<ref>村瀬、ナチズム、67p</ref>。 |
完成された綱領は1920年2月24日にホフブロイハウスで開催された党大会において発表された。発表を行ったのはヒトラーであり、一項目ごとに聴衆が理解するか問いかけた。ヒトラーは『[[我が闘争]]』において「一条また一条と、高まる歓呼の声でもって承認され、全会一致に次ぐ全会一致で採択された」(大意)としているが、当時の警察記録によると、時折反対党と支持者の間で騒ぎが起きたが、演説の最後には「いつまでも続く嵐のような賛成の声」が起こったという<ref>村瀬、ナチズム、64p</ref>。聴衆の一人であった[[ハンス・フランク]]は、「ドイツの運命を支配する者がいれば、それはヒトラーをおいて他にない」と感じたと記述している<ref>トーランド、203p</ref>。 | 完成された綱領は1920年2月24日にホフブロイハウスで開催された党大会において発表された。発表を行ったのはヒトラーであり、一項目ごとに聴衆が理解するか問いかけた。ヒトラーは『[[我が闘争]]』において「一条また一条と、高まる歓呼の声でもって承認され、全会一致に次ぐ全会一致で採択された」(大意)としているが、当時の警察記録によると、時折反対党と支持者の間で騒ぎが起きたが、演説の最後には「いつまでも続く嵐のような賛成の声」が起こったという<ref>村瀬、ナチズム、64p</ref>。聴衆の一人であった[[ハンス・フランク]]は、「ドイツの運命を支配する者がいれば、それはヒトラーをおいて他にない」と感じたと記述している<ref>トーランド、203p</ref>。 |
2014年6月2日 (月) 03:06時点における最新版
25か条綱領(25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホフブロイハウスで採択された。
概要[編集]
ナチス党の前身であるドイツ労働者党は、創設者アントン・ドレクスラーが起草した「原則」はあったものの、綱領は存在しなかった。この原則には熟練労働者の保護による中産階級の拡大、不労所得への反対、ユダヤ教への敵対等が含まれており、党をドイツ人指導者によって指導される社会主義的組織であると規定していた[1]。
1919年に入党したアドルフ・ヒトラーは精力的な活動を行い、党内での地位を高めていった。ヒトラーは綱領策定などを通じて党の運動を拡大するべきと主張し、トゥーレ協会の支持を受け、間接的な影響拡大を目的とする第一議長カール・ハラーと対立した。ヒトラーはドレクスラーと結託し、党規則を改定してハラーを追放した。後継の議長となったドレクスラーとヒトラーは、綱領策定5人委員会を設置し党綱領の策定を検討しはじめた。
ナチス・ドイツ時代にはヒトラーが一人で作成したとされていたが、現在は事実とは見られていない。綱領の策定にはヒトラーは関わっていないというヘルマン・エッサーの主張はあるが、ドレクスラーはヒトラーと二人で策定したと述べており、コンラート・ハイデン(en)、村瀬興雄等の研究者も最終的にドレクスラーとヒトラーが綱領をまとめたと見ている。ハイデンによれば外交政策についてはヒトラー、利子制度打破の主張はゴットフリート・フェーダー、人種政策はディートリヒ・エッカート、国有化政策はドレクスラーが主張したとされている[2]。
完成された綱領は1920年2月24日にホフブロイハウスで開催された党大会において発表された。発表を行ったのはヒトラーであり、一項目ごとに聴衆が理解するか問いかけた。ヒトラーは『我が闘争』において「一条また一条と、高まる歓呼の声でもって承認され、全会一致に次ぐ全会一致で採択された」(大意)としているが、当時の警察記録によると、時折反対党と支持者の間で騒ぎが起きたが、演説の最後には「いつまでも続く嵐のような賛成の声」が起こったという[3]。聴衆の一人であったハンス・フランクは、「ドイツの運命を支配する者がいれば、それはヒトラーをおいて他にない」と感じたと記述している[4]。
1921年7月29日にヒトラーが第一議長になり独裁権力を握ると、党綱領の意義は薄れていった。ミュンヘン一揆でヒトラーが収監された後、グレゴール・シュトラッサーらナチス左派は社会主義色を強める綱領改定案を出した。しかし既成勢力との関係は党勢の拡大に重要と考えたヒトラーは、バンベルクで開催されたバンベルク会議において「指導者原理」を強調し、反対派を沈黙させた。この会議で綱領は不変のものとされたが、ヒトラーは「指導者原理」により綱領を有名無実化していった。
ヒトラーは1926年に出版された『我が闘争』第二部において、綱領は「論理的に完全なものであるとは言えない」としながらも、綱領というものは政党の信条であり、信条は決して変更されてはいけないとしている。綱領は変更しようとすれば党内に内紛をもたらすだけであり、党員の信念に動揺を来すだけだとした。
綱領本文[編集]
- 我々は、民族の自決権を根拠として、全てのドイツ人の1つの大ドイツへの合同を要求する。
- 我々は、他国に対するドイツ民族の同権、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン条約の廃止を要求する。
- 我々は、我が民族を扶養し、過剰人口を移住させるための土地(植民地)を要求する。
- 民族同胞のみが国民たりうる。宗派にかかわらずドイツの血を引く者のみが民族同胞たりうる。ゆえにユダヤ人は民族同胞たりえない。
- 国民でない者は、ドイツにおいて来客としてのみ生活することができ、外国人法の適用を受けねばならない。
- 国家の指導と法律によって定められた権利は、国民のみがこれを有する。ゆえに我々は、いかなる公職も、それが国家のものであるか州のものであるか市町村のものであるかを問わず、国民のみによって占められることができるようにすることを要求する。我々は、人格や能力を考慮せずにただ政党の視点のみによって占領されている腐敗した議会の体たらくに対して闘争する。
- 我々は、国家がまず第一に国民の生活手段に配慮することを約束することを要求する。国家の全人口を扶養することが不可能であれば、外国籍の者(ドイツ国民でない者)は国外へ退去させられる。
- 非ドイツ人の今以上の移民は阻止される。我々は、1914年8月2日以降にドイツに移住してきた非ドイツ人が、直ちに国外退去を強制されることを要求する。
- 国民は全て同等の権利と義務を持たねばならない。
- 全国民の第一の義務は、精神的または肉体的に創造することであらねばならない。各人の活動は公共の利益に反してはならず、全て全体の枠において利益をもたらさねばならない。ゆえに我々は、以下のことを要求する:
- 不労所得の撤廃、寄生地主の打倒。
- あらゆる戦争において民族が払わされた財産や血の莫大な犠牲を考慮すれば、戦争による個人的な利得は民族に対する犯罪とみなされねばならない:ゆえに我々は、全ての戦時利得の回収を要求する。
- 我々は、(今までに)すでに社会のものとなった(トラスト)企業全ての国有化を要求する。
- 我々は、大企業の利益の分配を要求する。
- 我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
- 我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。
- 我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
- 我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
- 我々は、唯物主義的な世界秩序に奉仕するローマ法に代わるドイツ一般法を要求する。
- 高い教養を身につけ、それにより指導的な地位に就くことのできる有能で勤勉なドイツ人については、国家が我が民族の教育制度全般を賄うよう徹底的に拡充する。全ての教育機関の授業計画は実生活に即していることを必要とする。国家思想の理解はすでに学校(公民科)を通じて理解を始めねばならない。我々は、貧しい両親の特に素質のある子弟に対する、その地位や職業にかかわらず国費で行われる職業教育を要求する。
- 国家は、民族の健康を向上させるために、母子の保護、少年労働の禁止、体操とスポーツを義務として法的に定めることによる肉体鍛錬をもたらすこと、肉体的青少年専門教育に従事する団体による最大の援助を行わねばならない。
- 我々は、傭兵部隊の廃止と国民軍の形成を要求する。
- 我々は、故意の政治的虚言およびその報道による流布に対する法的な闘争を要求する。我々は、ドイツ的報道機関を創造することを可能にするため、以下のことを要求する:
- a. ドイツ語で発行される新聞の全ての編集者と従業員は民族同胞でなければならない。
- b. ドイツ以外の新聞はその発行にあたって国家の明確な許可を必要とする。それらをドイツ語で印刷することは許されない。
- c. 非ドイツ人によるドイツの新聞に対する出資または影響は、法律によって禁止される。違反に対する罰として、そのような新聞企業の閉鎖、および関与した非ドイツ人の即時国外追放を要求する。
- d. 公共の福祉に反する新聞は禁止される。我々は、我が民族生活に退廃的な影響を与える芸術・文学的傾向、および行事の閉会、上述の要求の違反に対する法的な闘争を要求する。
- 我々は、それが国家の存続を危うくせず、またはドイツ民族の公序良俗および道徳に反しない限りにおいて、国家における全ての宗教的信条の自由を要求する。党自体は、特定の信条に縛られることなく、積極的キリスト教の立場を支持する。積極的キリスト教は我々の内外のユダヤ的・唯物論的精神と戦い、根本的に内面からのみ達成される我が民族の永遠の救済を確信させる。
公益は私益に優先する。 - 我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。
党の指導者は、上記の条項が各人の生活に必要であるならこれを実行することを約束する。
参考文献[編集]
- 村瀬興雄 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』 (中公新書154、1968年) ISBN 978-4121001542
- 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー―「独裁者」出現の歴史的背景 』(中公新書478、1977年) ISBN 978-4121004789
- ジョン・トーランド著 永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)第一巻 ISBN 978-4087601800