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アナガーリカ・ダルマパーラ(1864~1933)は南アジアの仏教国スリランカ(旧セイロン)に生まれ、イギリスの植民地支配に喘ぐ祖国で、仏教の復興を図った先駆者、建国の父である。

生涯[編集]

シンハラ人エリート家系に生まれたダルマパーラは、幼少期にブラヴァッキー・オルコットの神智学協会に心酔し、神智学を媒介として仏教復興に生涯を捧げる決意をするに至った。

やがて彼は自ら創設した『大菩提会(Maha-Boddhi society)』の活動を通じて、西欧社会のインテリ層に仏教を普及させた。またインドの仏教聖地ブッダガヤの復興を呼びかけ、大乗仏教(北伝仏教)と小乗仏教(南伝上座仏教)の相違を越えた世界仏教徒の連帯を訴えた。「ユナイテッド・ブッディスト・ワールド」という彼の創刊した雑誌にはそんな大それたスローガンが掲げられていた。

その一方で、ダルマパーラは、生涯かけてスリランカ仏教を「ナショナリズムの柱」に仕立て上げた人物でもある。彼は世界三大宗教のひとつ、仏教の数少ないミッショナリーでありつつ、シンハラ民族の栄光を仏教と結びつけた民族主義者でもあった。

彼の一生は日本との密接な関係で彩られている。オルコット訪日のため、単身インドに乗り込んだ野口復堂(善四郎)とは終生の友情を結んだのをはじめ、生前四回も来日し、高楠順次郎田中智学大川周明岡倉天心といった思想家とも交流をもったといわれる。

日本は、“第二の祖国”であるインドと並び、ダルマパーラに強い影響を与えた国とされる。ダルマパーラは終生、日本に対して信仰にも似た期待をいだき続けていた。なぜなら、彼の眼に映った近代日本とは、世界で唯一、西欧キリスト教列強と敢然と対峙するアジア『仏教国』の希望の星だったからだ。

西欧の白人キリスト教諸国による支配に甘んじていた19世紀アジア、その屈辱の時代をアジアの隷従民として生きたダルマパーラは、偉大なるアーリアの教え、仏陀の教説こそが、アジア復興の精神的原動力となると信じていた。ゆえに彼は『仏教国』日本の発展に成長に期待したのである。

ユナイテッド・ブッディスト・ワールドの足跡[編集]

単なる仏教者としてではなく、あるときは民間外交家、あるときは反英闘争の志士、あるときは大アジア主義・汎アーリア主義のビジョンを説く預言者として、ダルマパーラは日本人の前にたちあらわれていた。

彼は必ずしも一貫して日本の仏教界から歓迎されたわけではない。熱狂的にもてはやされたこともあれば、誹謗中傷され、無視されたこともあった。ダルマパーラは日本に対して、物質・宗教の両面においてアジアをリードすることを望んでいた。しかし後者について、彼は失望させられる事も多かった。1913年頃、彼は友人(鈴木大拙であろう)に宛てた手紙のなかで「日本はインドにビールは送っても仏教的には一銭の支援も与えない」と怨言をこぼしていたという。

この地に留まれ、そしてこの聖地に奉仕せよ[編集]

最初の来日から1年後の1890年末、29歳のダルマパーラは釈興然(グナラタナ)・徳沢智恵藏の2人の日本人を伴って、南インド・アディヤールで開かれた神智学協会の年次総会に出席した。翌年1月12日、ダルマパーラ・興然・徳沢の3人は、インド北部の仏蹟を視察する旅に赴いた。釈興然にすれば、インド仏蹟視察はその師雲照から託された大きな使命であった。

一行3人はボンベイからインドを北上、ベナレス(ヴァラナシー)を経て21日にビハール州ガヤ市に着き、翌早朝、ガヤーから南方8キロメートルの場所にあるブッダガヤ大菩提寺に参拝した。いまから約2500年前、釈尊がその地で悟りを得たという、まさに仏教の根本聖地である。ダルマパーラの日記に曰く、

「(ガヤーから)六マイルのドライブの後、われわれはこの聖地に到着した。1マイル以内のここかしこに、あなた方は我らが偉大なブッダの壊れた像などが散乱しているのを見るだろう。マハントの寺院の入口柱廊の両側には、瞑想するブッダの像、説法するブッダの像がある。なんと高貴であることか!

聖なるお寺…王座にすわった救い主と、周囲に浸透した大いなる尊厳さとは、敬虔な信者の心を悲しましめる。何と喜ばしきことか!額を金剛座につけるや否、突然の衝動が心に拡がり、私をうながした。

『この地に留まれ、そしてこの聖地に奉仕せよ。あまりに神聖な、世界に比類なき、サキヤ・シンハ王子が菩提樹の下で悟りを成就したこの地に』…その時、私は興然師に彼が私と共に留まってくれるかと訊ねた。彼は嬉しげに同意した。それだけでなく、彼も同じことを考えていたのだ。二人は、何人かの仏教僧がこの寺院を管理するためにやってくるまで、ここに留まろうと、厳かに約束した。」

ダルマパーラは仏陀成道の聖地に立ち、そこで自らが生涯を賭けて取り組むべき事業を見出した。ベナレス(ヴァラナシー)に留学して婆羅門哲学を学ぶことが目的だった徳沢智恵藏は翌日ガヤーを発ったが、興然とダルマパーラは大菩提寺近くにあるビルマ・レストハウス(ビルマのミンドン王が1875年頃に建てた)に腰を据えた。そしてスリランカ、ビルマ、インドそして日本などの仏教関係者に向けて、聖地の荒廃とその復興の必要性について綿々とつづった書簡を送りつけた。

ブッダガヤと神権領主マハント[編集]

釈迦の死後、仏教の根本聖地とされたブッダガヤ(ボードガヤー)には西暦五~六世紀グプタ朝時代、現在ブッダガヤにそびえる大塔の原型が作られた。その後仏教の衰微とイスラム教徒による破壊を経て、ブッダガヤが仏教聖地として再興されるのは1870年代のこと。

当時はまだ独立国だったビルマ(ミャンマー)のミンドン王が巡礼者のためのレストハウスを建設し、70年代末には同じくビルマ仏教徒の手によって大塔の修繕事業がはじめられる。1881年からは英国インド政庁もブッダガヤ大塔の修復と周辺の発掘事業に乗り出し、現在我々がインドで目にする壮麗なブッダガヤ大塔が復元されたのである。

しかしその一方で、当時のブッダガヤはシヴァ神信仰の聖地としてヒンドゥー教徒の参拝を受けていた。興然は日本に向けた書簡に曰く、「…予の尤も嘆じるは此の地淫猥の風盛んにして純正の倫理行われざるに在り、彼れ等一般人種が常にマハーリンガンと名けて男根を崇とび之を模造に製し頻りに敬礼するの妄迷は嘆かはしき次第なり」

釈迦成道の仏教根本聖地に異教徒が跋扈し、男根の象徴であるシヴァ・リンガが祭られている事態は、潔癖な比丘である興然やダルマパーラにとって耐えがたい冒涜に感じられた。

さらに困ったことに、ブッダガヤ大菩提寺を所有していたのは『マハント(Mahant)』と呼ばれるバラモン階級の領主であった。イスラム教徒による破壊を受けて荒廃していたブッダガヤに、ヒンドゥー教シヴァ派の僧チャイタンニヤが居を据えたのは18世紀のはじめ。その弟子マハーデーヴァは広い尊敬を集め、イスラム教徒の王Shahalumより大菩提寺に属する二村の土地を与えられた。それがブッダガヤ周辺を支配する神権領主とも言うべきマハント(インド最貧と謂われるビハール州の、当時は二番目に裕福な地主)のルーツである。

約2ヵ月後、ダルマパーラと興然はガヤの地方長官G・A・グリルゾンから、大菩提寺を当時の日本円にして5000円程度で買い取ることが可能との言質を得た。ダルマパーラはそのうち4000円相当を得るためにビルマに向かい、興然は残りの1000円を日本から送るよう雲照などに書簡で訴えた。

ブラヴァッキーの訃報。ひるがえる仏教旗[編集]

ビルマからの帰途、ダルマパーラはロンドンでのブラヴァッキー夫人の訃報を聞く。「この損失は取り返しがつかない」ダルマパーラは衝撃を受けていた。日記に曰く、

「人類がこの損失を感ずるであろう。精神世界はそのもっとも親愛なる支持者、ガイド、教師を失った。誰が彼女の代わりを務めるというのか。私は彼女がこんなに早く死のうとは少しも予想していなかった。もしも神智学協会が生きていて役に立つなら奥義部(秘教セクション)は続けられるに違いない。しかし誰がこの世界とマスターたちを結ぶ代理人となるであろうか?」

悲嘆に暮れる間もなく、ダルマパーラは彼自身のミッションを遂行せねばならなかった。マドラス経由でスリランカに戻ったダルマパーラは、5月31日、スマンガラ僧正を総裁、オルコット大佐を理事長に担ぎ『ブッダガヤ大菩提会(Buddhagaya Maha Bodhi Society) 』(Buddhagaya Maha Bodhi Society) を設立した。

保守的なセイロンの教団は相変わらず腰が重く、ダルマパーラは聖地ブッダガヤに同行する僧侶を見つけることすら困難を感じた。彼はくじけずタイやビルマの教団にも同様の呼びかけを行い、七月中旬には四人の僧侶をブッダガヤに派遣することに成功した。

4人の僧侶がブッダガヤに到着した翌日の夕刻、くしくも明るい満月がガヤーの空に昇ろうとしていた。約700年の空白を経て、仏教復興の旗は再びブッダガヤにひるがえった。

日本でも燃え上がった仏蹟復興運動[編集]

ダルマパーラと釈興然の呼びかけに応える形で、日本でもブッダガヤ仏蹟復興の機運が高まった。興然の師僧であり、当時は仏教界の長老格の地位にあった釈雲照はその中心で活動していた。

雲照はブダガヤにいる興然から送られた、「…インド大陸は已(すで)に婆羅門徒のみとなり、全く仏教は絶えたり。然れども此「仏陀伽耶」の四周に於て甚だ秘密曼陀羅及び秘密の尊体三形等累多あるを見出せり。然らばインドに於て秘密仏教(真言密教)を再起せんとするの感は、予真に希望に耐えず。」との報告に強く惹かれた。

仏教ジャーナリズムの紙上においてもブッダガヤ復興運動はセンセーショナルに扱われ、「釈尊の故郷への報恩」を訴える論説が日本人のインド天竺への遠い憧れをかきたてていった。オルコットの来日時、彼と仏教をめぐって“論争”をした川合清丸は、『印度佛蹟興復会に賛成を請ふ書』と題した論説のなかで次のように檄を飛ばしている。

「我が仏教は宇宙の真理なり。世界の文明なり。人天の模範。賢聖の神髄なり。一念以て極楽国に往生すべく。一超以て如来地に直入すべし。かくの如き大恩大徳をこうむりながら。此の仏蹟興復に粉砕せざらば。異教徒に蔑笑せられん。外邦人に唾棄せられん。語を寄す本邦十万の僧侶諸師よ。熱血滴々を絞り出して。以て生死を救われし仏恩に報いられよ。また四千万の信徒諸君よ。赤心片々を掴み出だして。以て未来を助けられし仏徳に答えられよ。根本の仏蹟を興復して。正法の中心を確定するの日に至らば。必ずや南北の仏法を円融して。東洋の中心を合同する端緒を開かん。南北の仏法を円融して。東洋の人心を合同するの節に至らば。必ずや藹々たる法雲を起こして。アジア全州を覆育するの機軸を立てん。藹々たる法雲を起こして。アジア全州を覆育するの運に至らば。必ずや赫々たる仏日を掲げて。欧米諸州を普照するの基礎を定めん。」

『国際仏教会議』の開催[編集]

明治24(1891)年9月には、日本でも正式に『印度仏蹟興復会』が設立された。そして真言宗僧の阿刀宥乗が興復会の使者として大菩提寺買収資金1000円の浄財を託され、8月末にセイロンへと旅立った。

10月31日、ダルマパーラはブッダガヤで『国際仏教会議』を開催し、セイロン・中国・日本・チッタゴンの代表が出席した。日本の代表は興然と上述の阿刀宥乗、徳沢智恵藏であった。彼らは会議の席上、「日本の仏教徒には大菩提寺をマハントから買い取る意志がある」旨を表明した。

この会議ではマハントからの寺院買い取りのほか、仏教僧院の建設のための寄附金募集、仏教の宣伝の確立、聖典のインド地方語翻訳といった事項が決議された。会議の当日、ブッダガヤにはちょうどベンガル副知事が訪れていた。だが副知事は会見を求める仏教徒の要請を拒否したばかりか、大菩提寺買い取りに関する仏教徒の決議に対しても、ガヤーの地方長官G・A・グリルゾンを通じて否定的なメッセージを伝えてきた。

ブッダガヤに「日本の野望」を見た植民地当局[編集]

明治22(1889)年の最初の訪日以来、大日本帝国の熱心な称賛者となったダルマパーラは、金剛座(釈迦が悟りを開いたと伝えられる場所。かつてオウムの麻原某が上り込んで現地仏教徒の激怒を買った)脇の菩提樹の下に五色の仏教旗と並んで日章旗を掲げていた。

そんななか、イギリス植民地当局を代表するベンガル副知事とその一行がブッダガヤを訪問したのだから、「その光景は彼らに日露問題のみならず、日本人がブッダガヤをインド及び、アジア全域における、野望の槍の穂先として用いるかも知れない」と疑わせた。

ダルマパーラは当初、大菩提寺敷地の買収に楽観的な見通しを立てていたが、実際に英国当局の仲介でマハントとの交渉にあたると見解を改めざるを得なかった。ブッダガヤの聖地を巡っては、英国当局、マハント、運動内で主導権を狙う輩などの入り乱れたドロドロとした思惑が渦巻き、ダルマパーラの周囲にもその後様々なトラブルが絶えなかった。ブッダガヤ復興運動はダルマパーラがその活動の初期に取りかかった運動だったが、ついに彼の死に至るまで達成されることはなかった。

「アジアを救うことこそ日本の役割」[編集]

イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと 19世紀末に立ち上がったのがスリランカ建国の父と呼ばれるアナガーリカ・ダルマパーラであった。

敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。しかし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者) ・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗った。

ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、 ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902)年に3回目の来日を果たした。

3度目の来日の2か月前、日英同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。 その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。

日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。ダルマパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいていないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と語っている。

「次に生まれるときには日本に生まれたい」[編集]

3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダルマパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、 満洲と朝鮮も訪れた。 日本はこれらの地に惜しみない資本投下を行って、急速に近代化を進めていた。

ダルマパーラは「日本が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。

ダルマパーラの活動によって仏教に根ざしたシンハラ人の民族主義運動が高まっていった。イギリスの植民地当局はこれを警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年間もダルマパーラを拘束した。弟も捕らえられ、半年後に獄死した。

それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。

「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。