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− | + | 1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に十分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。 | |
− | + | 建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。総工費は650万[[フラン]]であった。 | |
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+ | * [[モーリス・ケクラン]] | ||
+ | *: 23歳でエッフェル社鉄骨構造物研究部長となり、技師のエミール・ヌーギエや、建築家のステファン・ソーウェストルとともに、エッフェル塔の設計案や鉄骨構造の計算に協力した。また、エッフェルのあとを継いで、ルヴァロワ・ベレ鉄骨構造物建設会社社長、エッフェル塔会社社長に任命された。ケクランが手がけたエッフェル塔設計図面は、母校のチューリッヒ工科学校ETHに飾られている。 | ||
+ | *: {{main|モーリス・ケクラン}} | ||
+ | * [[ステファン・ソーヴェストル]] | ||
+ | *: [[1846年]]生まれ。1868年、エコール・デ・ボザール建築科卒業。翌年、モン・サン=ミッシェル修道院建築に関する研究で受賞(シャルル・アルペール・ゴーティエと共同研究)。22歳でプレスト劇場改造の監督に任命され。次第に建築家として認められるようになる。パリの新開地プレーヌ・モンソ一地区に、多数の別荘や邸宅を建設。エッフェルとの最初の仕事は、1878年万博のガス・パビリオンの建造だった。のちエッフェル社の建築部長となり、モーリス・ケクランやエミール・ヌーギエらと協力して、エッフェル塔の設計監理に従事。その後、ムニエ一家をパトロンとして建築作品を残す。1905年には、ノワジエルのチョコレート工場近代化に貢献。1919年死去。 | ||
− | エッフェル塔は[[ | + | == その他 == |
− | + | * エッフェル塔自体の[[著作権]]は、既に[[パブリックドメイン]]に属しているが、[[2003年]]に施された[[ライトアップ]]装飾によって「エッフェル塔に新たな創作性が付与された」と解釈され、[[2005年]][[2月2日]]に改めてパリ市が著作権を取得した。このためライトアップされた夜景の映像を許諾無しに公表すると著作権侵害となってしまう。日本ではこのような規制はない。 | |
+ | * エッフェル塔内部にはパリの景色を一望できるレストランが開業している。特に有名なのが、[[ミシュランガイド]]でも1つ星を獲得したことのある「[[ジュールベルヌ]]」である。 | ||
+ | * エッフェル塔は[[自殺の名所]]でもあり、毎年多数の人が飛び降りている。現在でも、展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの[[吹きさらし]]である。[[1912年]]にはエッフェル塔最古の[[事故死]]の[[記録映像]]が撮影された。(参考:[[フランツ・ライヒェルト]]) | ||
+ | * [[チャールズ・リンドバーグ]]の「翼よ、あれがパリの灯だ」という名言の「パリの灯」とは、[[1925年]]から[[1936年]]まで[[自動車]]メーカーの[[シトロエン]]がエッフェル塔に掲げていた巨大な[[電飾広告]]の事だと言われることもあるが、「翼よ、あれがパリの灯だ」という台詞は日本でのみ人口に膾炙している後世の脚色である(リンドバーグの項を参照)。 | ||
+ | * [[大阪市|大阪]]の初代[[通天閣]]のモデルともなっている(下半分のモデルは[[エトワール凱旋門]]である)。 | ||
+ | * エッフェル塔に「正面」はない([[東京タワー]]にはある)。 | ||
+ | * [[ラスベガス]]の[[カジノ]][[ホテル]]である[[パリス (ホテル)|パリ・ラスベガス]]には、[[エトワール凱旋門]]とともにエッフェル塔の[[レプリカ]]が作られた。 | ||
+ | * 2011年12月に日刊紙[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]で、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道された。ただしパリ市や塔運営会社は否定している。 | ||
− | + | == 交通アクセス == | |
− | + | * [[メトロ (パリ)|地下鉄]](Métro)[[パリメトロ6号線|6号線]][[ビラケム駅]](Bir Hakeim)、[[RER (イル=ド=フランス)|RER]](郊外地下鉄)C線 [[シャン・ド・マルス=トゥール・エッフェル駅]](Champs de Mars - Tour Eiffel)下車。 | |
+ | * バスは42、69、82、87番を利用。 | ||
− | == | + | == 脚注 == |
+ | {{Reflist}} | ||
− | * | + | == 外部リンク == |
− | + | * [http://www.tour-eiffel.fr/ エッフェル塔公式サイト] {{fr icon}} {{en icon}} | [http://www.tour-eiffel.fr/teiffel/multi/jp.html 日本語の説明ページ] | |
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− | + | ||
* [http://www.paris-live.com エッフェル塔のウェブカム] | * [http://www.paris-live.com エッフェル塔のウェブカム] | ||
+ | * [http://myeiffeltower.com Eiffel Tower 素晴らしいエッフェル塔のための単純な話] | ||
− | [[Category: | + | {{DEFAULTSORT:えつふえるとう}} |
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− | [[Category:パリのセーヌ河岸 | + | [[Category:パリの建築物]] |
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2012年9月17日 (月) 11:58時点における最新版
エッフェル塔(エッフェルとう)は、フランスの首都パリの象徴的な名所となっている塔である。パリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。
経緯[編集]
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。
1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に十分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。
建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。総工費は650万フランであった。
建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年にニューヨークにクライスラービルが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。鋼製ではなく錬鉄製の塔である。塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。
あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。
なお万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに、軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。
現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた。この数字は、2006年に塔を訪れた6719200人を含んでいる。エッフェル塔は、世界でもっとも多くの人が訪れた有料建造物である。
関連人物[編集]
- モーリス・ケクラン
- 23歳でエッフェル社鉄骨構造物研究部長となり、技師のエミール・ヌーギエや、建築家のステファン・ソーウェストルとともに、エッフェル塔の設計案や鉄骨構造の計算に協力した。また、エッフェルのあとを継いで、ルヴァロワ・ベレ鉄骨構造物建設会社社長、エッフェル塔会社社長に任命された。ケクランが手がけたエッフェル塔設計図面は、母校のチューリッヒ工科学校ETHに飾られている。
- 詳細は モーリス・ケクラン を参照
- ステファン・ソーヴェストル
- 1846年生まれ。1868年、エコール・デ・ボザール建築科卒業。翌年、モン・サン=ミッシェル修道院建築に関する研究で受賞(シャルル・アルペール・ゴーティエと共同研究)。22歳でプレスト劇場改造の監督に任命され。次第に建築家として認められるようになる。パリの新開地プレーヌ・モンソ一地区に、多数の別荘や邸宅を建設。エッフェルとの最初の仕事は、1878年万博のガス・パビリオンの建造だった。のちエッフェル社の建築部長となり、モーリス・ケクランやエミール・ヌーギエらと協力して、エッフェル塔の設計監理に従事。その後、ムニエ一家をパトロンとして建築作品を残す。1905年には、ノワジエルのチョコレート工場近代化に貢献。1919年死去。
その他[編集]
- エッフェル塔自体の著作権は、既にパブリックドメインに属しているが、2003年に施されたライトアップ装飾によって「エッフェル塔に新たな創作性が付与された」と解釈され、2005年2月2日に改めてパリ市が著作権を取得した。このためライトアップされた夜景の映像を許諾無しに公表すると著作権侵害となってしまう。日本ではこのような規制はない。
- エッフェル塔内部にはパリの景色を一望できるレストランが開業している。特に有名なのが、ミシュランガイドでも1つ星を獲得したことのある「ジュールベルヌ」である。
- エッフェル塔は自殺の名所でもあり、毎年多数の人が飛び降りている。現在でも、展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。1912年にはエッフェル塔最古の事故死の記録映像が撮影された。(参考:フランツ・ライヒェルト)
- チャールズ・リンドバーグの「翼よ、あれがパリの灯だ」という名言の「パリの灯」とは、1925年から1936年まで自動車メーカーのシトロエンがエッフェル塔に掲げていた巨大な電飾広告の事だと言われることもあるが、「翼よ、あれがパリの灯だ」という台詞は日本でのみ人口に膾炙している後世の脚色である(リンドバーグの項を参照)。
- 大阪の初代通天閣のモデルともなっている(下半分のモデルはエトワール凱旋門である)。
- エッフェル塔に「正面」はない(東京タワーにはある)。
- ラスベガスのカジノホテルであるパリ・ラスベガスには、エトワール凱旋門とともにエッフェル塔のレプリカが作られた。
- 2011年12月に日刊紙フィガロで、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道された。ただしパリ市や塔運営会社は否定している。
交通アクセス[編集]
- 地下鉄(Métro)6号線ビラケム駅(Bir Hakeim)、RER(郊外地下鉄)C線 シャン・ド・マルス=トゥール・エッフェル駅(Champs de Mars - Tour Eiffel)下車。
- バスは42、69、82、87番を利用。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- エッフェル塔公式サイト (フランス語) (英語) | 日本語の説明ページ
- エッフェル塔のウェブカム
- Eiffel Tower 素晴らしいエッフェル塔のための単純な話