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坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋戦争終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。著書『大空のサムライ』がベストセラーになったため、日本で最も有名なエース・パイロットとして知られる。
目次
来歴・人物[編集]
海軍入隊[編集]
佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)に坂井晴市・ヒデの次男として生まれる(名前は祖父の勝三郎に由来している)。坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)、父・晴市が36歳で病没。残された一家5人の生活は困窮したが、坂井は小学校の成績が良かったこともあり、東京在住の伯父に引き取られる形でただ一人上京した。青山学院中等部に進学したが、素行不良を理由に退学処分となったため帰郷し、約2年間農作業に従事した。
この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、騎手になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れ、飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、佐世保海兵団へ入団した。
同年10月1日には、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となった。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。翌1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任ぜられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われ、発奮して年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。1937年(昭和12年)3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では。恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。
日中戦争[編集]
坂井は佐伯航空隊での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日には、三等航空兵曹に昇進して台湾の高雄航空隊に異動後、同年9月11日には、中国大陸の九江に進出していた歴戦の航空隊である第一二航空隊に配属となった。
1938年(昭和13年)10月5日の漢口空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗し、初出撃ながら中華民国国軍のI-16戦闘機1機を撃墜。翌1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加し、6月には占領された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB(エスベー)爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌1940年(昭和15年)5月には、運城基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。
1940年(昭和15年)6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)と初めて出会う。同年10月17日に再び高雄海軍航空隊に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島の三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場にも進出する。
1941年(昭和16年)4月10日、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。漢口基地から華中での作戦に従事し、5月3日には重慶攻撃に出撃した。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の成都攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲(攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流)で、中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となった。8月21日には、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜する。
坂井は、ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。これは日中戦争における日本海軍戦闘機隊の最後の出撃であった。
坂井は、1941年(昭和16年)10月に台湾の台南に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属された。ここで坂井は、下士官兵搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補助する先任搭乗員に任命され、本田敏秋二飛曹を始めとする下士官兵のみならず、上官で後に「ラバウルの貴公子」とも称される笹井醇一中尉らの教育まで任され、階級の垣根を越えて厳しく鍛えたとされる。
開戦[編集]
1941年(昭和16年)12月8日の開戦時はフィリピンに駐留するアメリカ陸軍航空隊と戦い、戦線の南下に伴ってインドネシア方面を転戦、この方面の制圧後はラバウル、ラエに移動、ニューギニアやソロモンに展開する連合国軍(米豪軍)と激戦を繰り広げた。
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。ラエ時代の1942年(昭和17年)5月17日には、坂井と並ぶ台南空の撃墜王であった西沢広義と太田敏夫の3人により、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたりしたことが、後に露見して笹井醇一から厳重な注意を受けたとする逸話を自著に記している。
負傷と復帰[編集]
1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。 そののちガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレスの編隊を「油断して直線飛行している」F4Fワイルドキャットの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。
坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させた。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした[1]。
その後内地に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の251空(台南空を改称)に病院を脱走して駆けつけた。新しい司令には小園安名中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。1943年(昭和18年)2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後、やはり戦闘部隊の搭乗員としてはまだ十分に回復しているとは言えず、小園司令の「坂井はもうしばらく内地で若い者の面倒をみろ」との言葉で教官の任に就く、1943年(昭和18年)4月大村航空隊に異動、1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属された。
硫黄島[編集]
戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもあった中島正少佐の指揮下、硫黄島へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった坂井は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった第252航空隊他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に入る。
坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン 、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がった。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する[2]。ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという、ガダルカナル時と同様のミスをおかし、敵戦闘機15機に包囲される。この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書「大空のサムライ」の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。
太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。
坂井の著書「大空のサムライ」の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった天山8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤金義飛曹長であった。 出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空特攻命令が下されることになる。 攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。 坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜[3]するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。結果的に坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹の貴重な搭乗員の命も守ることとなる。坂井は暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、「御苦労だった。詳しくは明日聞こう」の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。
しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機)となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還:零戦10機 天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。また坂井のF6F1機撃墜も、戦闘詳報ではF6F1機『撃破』とされている。 この攻撃の際、どのような指示がされたかは不明であるが、坂井の著書とは多くの点で違う事は事実である。 山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に攻撃した記録は無い。
硫黄島から帰還後の1944年(昭和19年)8月少尉に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「紫電改」を装備する第三四三航空隊(2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。1945年(昭和20年)7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の武藤金義少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。
坂井には、僚機の被撃墜記録がない。これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマンも1機撃墜(搭乗員は生還)されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。
第二次世界大戦最後の空戦[編集]
ポツダム宣言受諾後の1945年(昭和20年)8月17日、アメリカ軍をはじめとする連合国軍による占領下の沖縄の基地から日本本土偵察のために飛来したB-32ドミネーター2機と日本海軍機が房総半島から伊豆諸島の上空で交戦した第二次世界大戦最後の空中戦に坂井も参加している。この迎撃には、紫電改の他に零戦が準備されたが、坂井は紫電改には目もくれずに零戦52型で迎撃に上がった。また、この時に飛来した機を日本側は新型のB-32であるとは知らず、判明したのは戦後である。
結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷、日本側に損害なし。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた(この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者)。戦後、坂井はこの件で戦争犯罪人として訴追されることを懸念していたようだが、18日の時点では日本は正式に降伏していなかったこと(降伏文書調印は9月2日)、爆撃機への迎撃であり正当防衛といえること等から国際法上問題無しとされ、この件で戦後連合国軍より何ら追及されることはなかった。余談だが、この交戦に参加した小町定は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をしている為、零戦で離陸した坂井は攻撃が出来なかったと言う説もある。
戦後[編集]
戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。代表作となる戦記『大空のサムライ』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。
当時の欧米では、戦争中のプロパガンダの影響もあって、日本人に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。また、イラク空軍では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある[4]。
著書が売れた事により、何度も渡米する機会を得た。P-51ムスタングを操縦する機会を得た時は、その性能に脱帽し、零戦こそ最強という自説を撤回している。
なお、『大空のサムライ』は、坂井三郎役を藤岡弘が演じ企画を映画岸壁の母の制作で知られた大観プロダクションが行い、製作・配給を東宝が担当、1976年(昭和51年)に映画化された(丸山誠治監督作品。特撮監督は川北紘一)。
2000年(平成12年)9月22日、厚木基地で催されたアメリカ海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。
坂井の戦術[編集]
坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から先制攻撃をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた[5]」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」[6]の割合で索敵するとも言う(坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの西沢広義は水平線より下の索敵を得意としていたらしい)。また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト(巴戦)より一撃離脱の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている(そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが)。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機の紫電改で直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本に優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。 加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、(スコアでは坂井に及ばない事から)恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。
飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「自分の僚機(小隊の2・3番機)の搭乗員を戦死せしめなかったこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた(そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた)。
この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「(空戦では)撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し(1000馬力は1000馬力しか出ない)、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。
零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている[7]。 空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。
なお、特攻作戦については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている[8]。
著作の評価[編集]
『大空のサムライ』はゴーストライター(当時の光人社社長)による聞き書きであり、それ以降の作品もやや感情的かつ記憶が不明瞭なこともあり、資料的価値が低いとする意見も存在する。 ちなみに光人社社長(当時。高城肇)との共著は「続々大空のサムライ 撃墜王との対話」が存在するが、これはゴーストライターの件には含まれない。
ゴーストライターの真意[編集]
「零戦の会」の副会長「神立尚紀」は、ゴーストライターの存在を明言している事で知られる。坂井とも親交の深い「武道通信」は「茶店の一服」にてゴーストライターの存在を明らかにしている。また戦史作家の「渡辺洋二」も坂井の作品にに対し懐疑的な人物としても有名である。
ゴーストライターの存在が知られる一方で、生前、東京大学名誉教授の加藤寛一郎の取材で、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに?」という問いに対し坂井氏は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」と言い、「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と、答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している(加藤寛一郎 『飛行の秘術のはなし』 講談社〈文庫〉、1999年、178頁)。
しかしゴーストライターを否定した結果、坂井本人のノンフィクション作品執筆に対する姿勢をも否定する結果になった(坂井の作品には多くのフィクションが含まれている)。
士官との対立[編集]
著作内には、大東亜戦争における日本海軍上層部の杜撰な作戦計画や戦況判断の甘さに対する批判も多く見られる。しかし批判の根拠となる情報の大半は戦後になって得たものが基になっており、戦時中、一戦闘機搭乗員にすぎなかった坂井は海軍上層部の行動を知りうる立場には当然無く、後にアメリカの軍人から「士官が集まる場所は日時が大体決まっていたから、そこへ間諜を送って情報を得ていた」と知り愕然となる。
また、当時の日本海軍における、士官のエリート意識による下士官への傲慢な態度や、士官と下士官との間での待遇の差に対する批判も多くの著作内でなされた。それゆえ、戦後は海軍兵学校出身の元搭乗員を中心として、多くの敵を作ったのも事実である。実際、旧海軍人のパーティに招かれた際「海軍は本当に良いところでしたね」と話しかけてきた元海軍士官に「とんでもない!あんな所は二度とご免です」と回答したと生前語っており。朋輩の兵曹が大尉になじられたのを発端に大尉の殺害計画を練り、衛兵伍長に諭されて未遂に終わった。
これは坂井が一水兵から成り上がり、毎晩軍艦の喫水線下で繰り広げられた残酷な私刑に耐え、また歴戦の下士官たる先任搭乗員として軍に仕えた目から見て、イギリスの階級社会に範をとった海軍様式の生活に嫌気が差してのことを考えるとかなり同情の余地がある。戦地に於いても食事と環境の彼我の差に鬱屈していた坂井は、主計兵に殴られた部下の報復として南部拳銃を発砲し士官の食料を強奪した。
また、坂井は終戦前には士官に昇進したが、下士官からのたたき上げである彼は「特務士官」と称され、士官の社交から「卑しき分際」とされて扱われたことに関して大いに不満があったことを、零戦の機首に仕込まれた優秀な機関銃の設計者が特務士官であったことを例にとり、彼の著書に記されている。
しかし誇張された対立関係は、後の戦記や社会一般のイメージにもにも多大な影響を与え、士官・下士官ともに評判は著しくない。また源田実没後に、源田を含めた士官批判が特に増えた事も問題視されている。
他の搭乗員の評価[編集]
彼の作品には戦史作家や当時の同僚である海軍航空隊搭乗員から「内容は眉唾物」「戦争を売り物にしている」といった批判的意見も寄せられている。
ちなみに、「戦争を売り物にしている」という批判に対し坂井は心を痛めていたらしい。彼の処女作である「坂井三郎空戦記録」は出版社(出版協同社)が倒産してしまったため、印税はすべて不渡りになってしまった。手形割引である程度の収入を得ることも出来たのだが「別に残念と思わなかった」上に、本を出版してくれた社長に対する恩義のため、あえて相当の処置はしなかったらしい。ミリオンヒットの海外出版版「SAMURAI」も契約不履行でほとんど収入は入らなかったという。
しかし「戦争を売り物にしている」と言う意味は、坂井が海軍航空隊のエース(海軍にエースパイロットは存在しない)と言う世界的評価や戦争を活劇的に描写している点である。また坂井の負傷による本土帰還後に、もっとも壮絶な航空戦に突入した事も、同僚が坂井を評価できない理由である。また「僚機を殺したことがないこと」と言う坂井の自慢も、他の搭乗員からは「自慢するのではなく優秀な僚機を持った事に感謝すべき」と言う批判も聞かれる。事実、坂井の小隊は、飛行経験に恵まれた搭乗員も多く(緒戦の被害の大きい小隊と比較すると、その差は特に顕著である)、後の多数撃墜者に名前を上げられる者も多いのもその理由である。
逸話[編集]
大型輸送機を見逃す[編集]
1942年初頭、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機(坂井はダグラスDC-4と回想しているが実際にはDC-3と思われる)に遭遇した。
当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない)は撃墜する命令が出ていた。相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えた。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。彼は後に、青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺すべきではないと思った、と語った。
攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由にせよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではないと信じていたと答えている。
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。
空の要塞を初撃墜[編集]
空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられたボーイングB-17爆撃機を枢軸国軍側兵士として初めて撃墜した1人とされている(共同撃墜)。墜落するまで機影を見届けなかった坂井は「戦果未確認」と報告したが、戦後AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンとの会見の中で「あれは撃墜だった」と言われて初めて戦果を知ったと著作に記述している。当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。
「B-17は絶対落ちることがない」と言う宣伝が実戦で否定された事に対し、アメリカ国内では美化宣伝(戦艦ヒラヌマ撃沈発表)が流布された。ただし、現在確認できる当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名は記載されてはいない為、坂井が実際にこの戦闘に参加していたかどうか疑問視する意見もある一方、東京支局長との会見の様子は「日本タイムス」や「スターアンド・ストライプス」に発表された。
その他[編集]
晩年、『朝まで生テレビ』に坂井が出演したことがある。その場で現在の若者への苦言を期待された質問には、「自分の時代にも若いやつは駄目だと言われ続けた」とかわすと、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。ただし、現代人の、事態に対し失敗を恐れ無難にやり過ごして済ませようとする風潮には苦言を呈している。
生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、暇な時に懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。
当時の彼の愛車、スカイラインGTを引き合いに出され、「自動車と零戦はどっちがいいですか?」の質問に、「そりゃあ、車の方が良いに決まっています。車はバックが出来ますから」[9]と答え、周囲を笑わせたこともある。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由でユーノス・ロードスターを愛車としていた。
戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた水木しげるに「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描く事ができず苦労したという。
主な著作[編集]
著作[編集]
- 『坂井三郎空戦記録』
- 『大空のサムライ』正・続・戦話
- 『零戦の真実』
- 『零戦の運命』
- 『零戦の最後』
脚注[編集]
- ↑ まともに着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。滑走路周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったという。また、この時の飛行を重巡洋艦「鳥海」から目撃した丹羽文雄は、著書「海戦」の中で、びっくりするほど低空を飛行していると記している。
- ↑ 坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。
- ↑ 坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。
- ↑ 毎日新聞 2004年8月17日付国際面記事
- ↑ 坂井の著作『坂井三郎空戦記録』には、昼間の星の見方が詳しく述懐されている他、坂井は自らの視力向上のため、昼間に星を見つける訓練を日々繰り返していた旨も記述されている。星が見えたという真偽は定かではないが、視力2.5~3以上の視力を有する人間は昼間に一等星などの強い明るさを持つ星なら見ることが可能であり、また現代では40cm反射望遠鏡などの高倍率の望遠鏡を使用すれば、誰でも昼間星座観察などが可能である。
- ↑ () 大空のサムライ 坂井三郎氏 零戦を語る Youtube [ arch. ] 2011-6-1
- ↑ 坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』
- ↑ 加藤寛一郎によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304
- ↑ この発言は単なるユーモアではなく、航空機が燃料が切れたら墜落するしかない、空中では停止できないといった真剣な内容を含んでいたとも言われる。