「鎌倉幕府将軍一覧」の版間の差分
提供: Yourpedia
(→関連項目) |
|||
115行目: | 115行目: | ||
{{DEFAULTSORT:かまくらしようくんいちらん}} | {{DEFAULTSORT:かまくらしようくんいちらん}} | ||
− | [[Category: | + | [[Category:将軍]] |
[[Category:鎌倉時代]] | [[Category:鎌倉時代]] | ||
[[Category:歴史上の人物一覧]] | [[Category:歴史上の人物一覧]] | ||
[[Category:神奈川県の歴史]] | [[Category:神奈川県の歴史]] |
2009年7月1日 (水) 15:23時点における最新版
鎌倉将軍一覧(かまくらしょうぐんいちらん)は、鎌倉幕府の征夷大将軍の一覧。
概要[編集]
征夷大将軍は、もとは源頼朝が鎮守府将軍である奥州藤原氏を凌駕する官職として望んだもので鎌倉殿の本質的属性ではなかったが、2代源頼家が北条時政のクーデターでその地位を追われたあと、後任に据えられた3代源実朝が、その正統性の補強のため鎌倉殿となってすぐに征夷大将軍に任じられて以来、鎌倉殿と征夷大将軍の一体化が進行した。
実朝が暗殺されたあと頼朝の子孫が絶え、京都の朝廷に対抗し、有力御家人たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、はじめは摂関家の子弟、ついで皇族が京都から迎えられて将軍職に就いたが(宮将軍)、すでに実権は北条氏が握っており、将軍は名目的存在となった。このため北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返した。
北条氏が幕府内では将軍をはるかに凌駕する権力を握り、また朝廷に対しては将軍職任命を容易に強要できるだけの実力を持ちながら自らは将軍にならなかったのは、もとは伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さのため、かりに将軍職に就いても、有力御家人たちの心服を得ることは難しかったためとされる。また、北条氏が元は土着豪族であったことを理由に、朝廷が北条氏の将軍職への就任を拒絶したとする説も存在する。これは、将軍が形式上であってもあくまでも幕府の元首であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けていたことを意味している。
一覧[編集]
代 | 氏名 | 院号 | 官位 | 在職期間 | 出身家 | 享年 | 墓所 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 源頼朝 みなもとのよりとも |
- | 正二位 権大納言 |
建久3年(1192年)7月12日 - 建久10年(1199年)1月13日 | 河内源氏 | 53 | 大倉法華堂 白旗神社 |
2 | 源頼家 みなもとのよりいえ |
法華院 | 正二位 左衛門督 |
建仁2年(1202年)7月22日 - 建仁3年(1203年)9月7日 | 河内源氏 | 23 | 修禅寺 |
3 | 源実朝 みなもとのさねとも |
大慈寺 | 正二位 右大臣 |
建仁3年(1203年)9月7日 - 建保7年(1219年)1月27日 | 河内源氏 | 28 | 寿福寺 白旗神社 |
4 | 藤原頼経 ふじわらのよりつね |
- | 正二位 権大納言 |
嘉禄元年(1226年)1月27日 - 寛元2年(1244年)4月28日 | 藤原氏(九条家) | 39 | - |
5 | 藤原頼嗣 ふじわらのよりつぐ |
- | 従三位 左近衛中将 |
寛元2年(1244年)4月28日 - 建長4年(1252年)2月20日 | 藤原氏(九条家) | 18 | - |
6 | 宗尊親王 むねたかしんのう |
- | 一品 中務卿 |
建長4年(1252年)4月1日 - 文永3年(1266年)7月20日 | 皇族 | 33 | - |
7 | 惟康親王 これやすしんのう |
- | 二品 右近衛大将 |
文永3年(1266年)7月24日 - 正応2年(1289年)9月14日 | 皇族 | 63 | - |
8 | 久明親王 ひさあきしんのう |
- | 一品 式部卿 |
正応2年(1289年)10月9日 - 延慶元年(1308年)8月4日 | 皇族 | 53 | - |
9 | 守邦親王 もりくにしんのう |
- | 二品 | 延慶元年(1308年)8月10日 - 元弘3年(1333年)5月22日 | 皇族 | 33 | - |