「ウィリアム・プリムローズ」の版間の差分
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− | [[Category:1904年生]]{{DEFAULTSORT: | + | [[Category:1904年生]]{{DEFAULTSORT:ふりむろす ういりあむ}}'''ウィリアム・プリムローズ'''(William Primrose, [[1904年]][[8月23日]]<ref>{{Wayback|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%20%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA-1630473|date=20230319185453}}</ref> - [[1982年]][[5月1日]]<ref>{{Wayback|date=20230319160208|url=https://tower.jp/article/feature_item/2019/05/09/1111}}</ref>)は、[[イギリス]]出身の[[ヴィオラ]]奏者。<ref>{{Wayback|date=20230319160959|url=https://archives.lib.byu.edu/agents/people/10525}}</ref> |
[[グラスゴー]]出身。ヴァイオリン奏者で弦楽器の鑑定家だっただった父ジョンに4歳の頃からヴァイオリンの手解きを受け、12歳で人前で演奏するほどに上達した。15歳の時にはロンドンに移り、ギルドホール音楽学校でマックス・モッセルにヴァイオリンを師事。1924年に金メダルを獲得して音楽学校を卒業した後、[[ウジェーヌ・イザイ]]の許で研鑽を積んだが、イザイに勧められてヴィオラ奏者に転向した。1930年から1935年までロンドン弦楽四重奏団のヴィオラ奏者を務め、<ref>{{Wayback|date=20220524114334|url=https://www.thestrad.com/william-primrose/6609.article}}</ref>1937年に[[NBC交響楽団]]の結成に参加して、しばらく首席ヴィオラ奏者を務める。一方で、自らの名前を冠した弦楽四重奏団を主宰したり、[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]等と共演したりして室内楽の分野でも名声を得た。1953年には[[大英帝国勲章|CBE]]を受勲。1964年に難聴の為、演奏活動の第一線から退き、インディアナ大学や南カリフォルニア大学等で教鞭を執った。1971年に来日した際には東京藝術大学や桐朋学園大学などでも教えた。 | [[グラスゴー]]出身。ヴァイオリン奏者で弦楽器の鑑定家だっただった父ジョンに4歳の頃からヴァイオリンの手解きを受け、12歳で人前で演奏するほどに上達した。15歳の時にはロンドンに移り、ギルドホール音楽学校でマックス・モッセルにヴァイオリンを師事。1924年に金メダルを獲得して音楽学校を卒業した後、[[ウジェーヌ・イザイ]]の許で研鑽を積んだが、イザイに勧められてヴィオラ奏者に転向した。1930年から1935年までロンドン弦楽四重奏団のヴィオラ奏者を務め、<ref>{{Wayback|date=20220524114334|url=https://www.thestrad.com/william-primrose/6609.article}}</ref>1937年に[[NBC交響楽団]]の結成に参加して、しばらく首席ヴィオラ奏者を務める。一方で、自らの名前を冠した弦楽四重奏団を主宰したり、[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]等と共演したりして室内楽の分野でも名声を得た。1953年には[[大英帝国勲章|CBE]]を受勲。1964年に難聴の為、演奏活動の第一線から退き、インディアナ大学や南カリフォルニア大学等で教鞭を執った。1971年に来日した際には東京藝術大学や桐朋学園大学などでも教えた。 |
2023年3月21日 (火) 16:37時点における最新版
ウィリアム・プリムローズ(William Primrose, 1904年8月23日[1] - 1982年5月1日[2])は、イギリス出身のヴィオラ奏者。[3]
グラスゴー出身。ヴァイオリン奏者で弦楽器の鑑定家だっただった父ジョンに4歳の頃からヴァイオリンの手解きを受け、12歳で人前で演奏するほどに上達した。15歳の時にはロンドンに移り、ギルドホール音楽学校でマックス・モッセルにヴァイオリンを師事。1924年に金メダルを獲得して音楽学校を卒業した後、ウジェーヌ・イザイの許で研鑽を積んだが、イザイに勧められてヴィオラ奏者に転向した。1930年から1935年までロンドン弦楽四重奏団のヴィオラ奏者を務め、[4]1937年にNBC交響楽団の結成に参加して、しばらく首席ヴィオラ奏者を務める。一方で、自らの名前を冠した弦楽四重奏団を主宰したり、ヤッシャ・ハイフェッツ等と共演したりして室内楽の分野でも名声を得た。1953年にはCBEを受勲。1964年に難聴の為、演奏活動の第一線から退き、インディアナ大学や南カリフォルニア大学等で教鞭を執った。1971年に来日した際には東京藝術大学や桐朋学園大学などでも教えた。
ユタ州プローヴォにて死去。