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ウクライナ人は古代よりウクライナに居住していた[[インド・イラン語派|イラン]]系の[[スキタイ人]]や[[サルマタイ人]]、[[ゲルマン語派|ゲルマン]]系の[[ゴート人]]や[[ノルマン人]]、[[スラヴ語派|スラヴ系]]の諸部族、[[ブルガール人]]、[[ハザール人]]、[[クマン人]]などの[[混血]]によって形成されたと考えられている。また、ウクライナ人の起源においてはスラヴ系要素は決定的なものであった。

2022年7月19日 (火) 02:44時点における最新版

ウクライナ人

ウクライナ人は、ウクライナの主要民族である。東欧東スラヴ人に属し、主にウクライナ語を母語とするものが多い。

民族名[編集]

ウクライナ人
詳細は ルーシ人 を参照

歴史上でウクライナ人は様々な民族名で知られている。9世紀から13世紀にかけてウクライナの地域がルーシと呼ばれたことから、中世前期以降この地域の住民はルーシ人(ルスィーヌィ)と呼称されるようになった。また、14世紀より正教の聖職者の書簡にではウクライナを「小ロシア」と呼ぶ風習があり、17世紀以降ウクライナが正教のロシア・ツァーリ国に併合されると、19世紀までウクライナ人は小ロシア人(マロロースィ)と呼ばれていた。その他に、15世紀から18世紀末にかけてウクライナの住民の多くがコサックであったことから、コサック(コザクィー)がウクライナ人のことを意味した時代があった。

ウクライナという地名は12世紀後半から『ルーシ年代記』に見られるが、「ウクライナ人」という用語は16世紀まで普及していなかった。17世紀半ばにヘーチマン国家が成立すると、「ウクライナ人」は民族名として「ルーシ人」、「小ロシア人」、「コサック」の同義的に用いられるようになった。さらに、18世紀-19世紀にそれらの民族名はウクライナ出身の知識人の活動によって「ウクライナ人」という民族名で統一された。

歴史[編集]

ウクライナ人
ウクライナ人
ウクライナ人

日宇関係 も参照 ウクライナ人は古代よりウクライナに居住していたイラン系のスキタイ人サルマタイ人ゲルマン系のゴート人ノルマン人スラヴ系の諸部族、ブルガール人ハザール人クマン人などの混血によって形成されたと考えられている。また、ウクライナ人の起源においてはスラヴ系要素は決定的なものであった。

ウクライナ人は中世におけるキエフ大公国(7-13世紀)の形成者であったが、モンゴル勢力の侵略により大公国は亡ぼされた。その後リトアニア大公国の支配下に入り、ポーランド・リトアニア共和国の時代には大部分がキエフ県としてポーランド王国の行政管轄に、黒海沿岸地方がオスマン帝国の行政管轄になった。近世初めにはウクライナ・コサックがポーランド・リトアニア共和国に対して自治権を獲得しヘーチマン国家(17-18世紀)を形成したが、のちに独立を失いロシア帝国の支配下となり、そしてロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国などの各国間で分割支配されることになった。ロシアなどとの戦争に敗れたウクライナ人の一部は、ルーマニアやトルコへ逃れ再起を図ったが、ウクライナ人による独立国家の成立はならなかった。

一時期、ウクライナ・コサックはポーランド・リトアニア共和国における登録コサックとなっており、この共和国においては参政権などシュラフタとしての諸権利を持っていた。ヘーチマン国家時代にはウクライナ人の半数が登録コサックと扱われた。そのため、現代でも自分はコサックの子孫であると自負するウクライナ人も少なくない。ヘーチマン国家が滅びると、多くのウクライナ人はもとの農民に戻った。一方、都市に居住する一部のウクライナ人はロシア化した。都市と農村の分断は、のちの内戦に大きな決定要因として働いた。

ロシア革命後の1917年、ウクライナ人は各勢力に分かれてそれぞれ独立を宣言した。特に、中部ウクライナウクライナ民族主義者はウクライナ人民共和国を、西ウクライナの民族主義者は西ウクライナ人民共和国を建国し、前者は初めてのウクライナ人による近代国家となった。

しかしながら、ウクライナは領土を取り合うポーランドとボリシェヴィキの戦争(ポーランド・ソヴィエト戦争)やウクライナ・ポーランド戦争ウクライナ・ソヴィエト戦争ロシア内戦ウクライナ内戦の主戦場となり、さらにこの時期に大流行した伝染病などにより多くのウクライナ人が死傷した。また、アナーキストウクライナ革命反乱軍に参加したウクライナ人も少なくなかったが、最終的にボリシェヴィキによって壊滅した。東ウクライナには、ロシア人ユダヤ人を中心としたソヴィエト派ウクライナ人民共和国が成立し、いくつかのソヴィエト共和国が現れては消えたのち、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国がロシアのソヴィエト政府の後押しで成立した。最終的には、西ウクライナはポーランド、それ以外のウクライナとクリミアはソヴィエト国家によって分割された。その結果、反ボリシェヴィキ派の多くのウクライナ人が国外へ逃れざるを得なくなった。

その後、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国(ベラルーシ)とともにソ連を形成した。のちに国号はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に変更された。

1920年代、ソ連政府はそれまでの対ウクライナ強攻策を改め、ウクライナ人に対する懐柔政策を採った。この時期、ウクライナでは中央政府の要人にウクライナ人が登用されるなど、ウクライナ人の社会的地位を向上させる政策が採られたほか、ウクライナ文化の研究や振興も盛んに行われ、さまざまな形でウクライナ文化が花開いた時代といわれる。

だが、1930年代になるとヨシフ・スターリンがソ連政府の権力を掌握し、懐柔政策は撤廃され、ウクライナ弾圧政策が採られた。また、1932年から1933年にかけて発生した大飢饉以後は、その飢饉の責任を押し付けられる形でウクライナ・ソヴィエト政府の主席以下多くがスターリンによって処刑されたり、自殺したりした。また、スターリンの方針により国外へ亡命していたウクライナ人のソ連への呼び戻しキャンペーンが張られた。多くのウクライナ人の亡命していたイギリスカナダアメリカ合衆国は、これを機会に亡命ウクライナ人の一掃を図った。欧米諸国は亡命ウクライナ人のソ連への「帰国」を推進したが、帰国したウクライナ人の多くが様々な嫌疑をかけられ、処刑、あるいは流刑された。

その後、独ソ戦の主戦場となったウクライナは、第二次世界大戦で最大規模の死者を生じた。大戦での犠牲者は軍民問わず膨大な数に上ったが、中にはソ連軍によって、ナチス・ドイツ軍への協力という嫌疑により逮捕・殺害された。当時、ソ連政府に反感を持つウクライナ人には、実際にドイツ軍に協力した者もあった。また、当時西ウクライナを中心にいくつかのパルチザン組織がソ連の赤軍に対し敵対行動をとった。中でも、ウクライナ蜂起軍は赤軍・ドイツ軍双方へのパルチザン活動を行い、一時は西ウクライナの大半を掌握していた。この勢力はNKVDの軍と戦闘を繰り広げたが、1950年代ソ連軍によって制圧された。また、ウクライナ人の組織がポーランドに対して敵対行動をとったことから、ポーランド政府はヴィスワ作戦を実行、ポーランド内のウクライナ人コミュニティーは強制的に解体され、以降同国内でウクライナ人が多く集まって居住することは禁ぜられた。

一方、極東では、第二次世界大戦前より、亡命ウクライナ人が中心となって、満州国を通じて日本軍と協力し、対ソ連戦に参加した。

戦後ウクライナは、ソ連の主要産業を担う重要地域として発展した。豊かな土壌を持つ西部はソ連の大穀倉地帯として、また良質の石炭・鉄鉱石を産出する東部は重工業地帯として大いに成長する中で、多くのロシア人などが移住した。

1991年、ウクライナはソ連からの独立を宣言し独立国家となった。独立ウクライナは、ウクライナ人のウクライナ性を高めるためロシア語を公用語から排除するなど、ウクライナ化政策を採った。

2004年、ウクライナではロシアの政治的影響を排除しようとするオレンジ革命が起こった。

移民[編集]

19世紀から20世紀初めにかけて、ウクライナ人の海外移民が行われた。ウクライナ人は主に農村に住んで農業を営んでおり、ロシア人やユダヤ人、ポーランド人などの多いウクライナの都市部にはあまり住んでいなかった。19世紀末のウクライナで進展した都市化工業化では主にロシア人労働者が流入した一方、ウクライナ人はウクライナ内の炭坑や工場で労働者となるよりもむしろ国外や辺境で自らの農地を持つことを望んだ。多くのウクライナ人がカナダアメリカ合衆国の農業地帯に移民して同国内にウクライナ人コミュニティを築いた。またロシア帝国内でも人口希薄な東方、中でも極東に移動して農業を営んだ。極東に移民したウクライナ人はロシア革命後にアムール川流域に緑ウクライナを建国している。

1895年からは、奴隷制廃止によって不足した農業労働力を求めていたブラジルへの移民が行われ、ブラジル南部を中心に多くの移民がパラナ州サンタ・カタリーナ州リオグランデ・ド・スル州に入植し、一部はサンパウロ州に流入した。多くはガリツィアからの移民だった。

同時期にアルゼンチンにも移民が行われ、一定数が首都ブエノスアイレスやその近郊のブエノスアイレス州各地に定着したが、ブラジルに移民したウクライナ人の一部と共に、アルゼンチン北部のミシオネス州にも流入した。

冷戦終結後には、ポルトガルなどへの出稼ぎ移民が行われた。

文化[編集]

言語[編集]

詳細は ウクライナ語 を参照

ウクライナ人の独自の言語としてウクライナ語がある。ウクライナ語は、本国ウクライナで公用語となっている。また、歴史上でウクライナを支配してきたポーランドオーストリアロシアの影響から、西ウクライナではポーランド語ドイツ語、東・南ウクライナではロシア語を話せるウクライナ人がいる。国外に住んでいるウクライナ人は、その居住地域により英語ロシア語ポルトガル語スペイン語を中心に用いている。

ウクライナ語インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属し、その記述にはキリル文字を用いる。その言語には、ポリーシャ地方を中心とした北部方言、ヴォルィーニハルィチナーポジーリャ地方を中心した西南方言、さらにキエフポルタヴァザポロージャ地方を中心とした東南方言という三つの方言が存在する。ウクライナ語の標準語の基は東南方言となっている。ウクライナ語の文語に当たる古ルーシ語の最初の記録は10世紀まで遡り、ウクライナ語の口語に基づいた文学作品は18世紀から登場する。

宗教[編集]

現在ウクライナに居住するウクライナ人はキリスト教徒アイデンティティを持っているが、大半は特定の宗教団体に属していない。宗教集団には伝統的に正教が最大勢力であるが、教会組織は分立している。最大の信徒数を擁するのはウクライナ正教会・キエフ総主教庁である。これに次ぐウクライナ独立正教会モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会の教会組織が存在する。ウクライナの西部・中部には東方典礼カトリック教会たるウクライナ東方カトリック教会が正教に次いで勢力を有する。西方典礼のカトリック教会およびプロテスタントも存在する。

ウクライナ人の姓[編集]

詳細は ウクライナ人の名前 を参照

ウクライナでは古くから住民の移動・移住が大規模に行われており、地域に固有の姓というものは薄れている。本来固有と考えられる地域は、以下の通りである。なお、表記は便宜的なローマ字表記とする。

  • 西部地方には-ak、-ukなどkで終わるパターンの姓が多く、隣接するポーランドやチェコなどにもよく見られる。
  • 北部及び東部などドニプロ・ウクライナ地域では、「コ」(-ko)あるいは、「エンコ」(-enko)という父祖の名にちなむ姓の語尾が多い。隣接するロシア・ベラルーシなどでもごく普通に見られるが、ウクライナにルーツのある姓とされる。なお、男性・女性で語尾の変化はない。

  • 人名
  • イヴァネンコ:イヴァンの子
  • ペトレンコ:ペトロの子
  • マルチェンコ:マルコの子
  • コンドラテンコ:コンドラトの子
  • フォメンコ:フォマ(トマス)の子
  • ルカシェンコ:ルカシュの子
  • フメリヌィチェンコ:フメリヌィーツィクィイの子

  • 職名
  • シェウチェンコ:靴屋の子
  • コヴァレンコ:鍛冶屋の子
  • トカチェンコ:織屋の子
  • スリュサレンコ:大工の子
  • ホンチャレンコ:陶工の子
  • ゾロタレンコ:金匠の子

  • 民族名
  • スラヴ系諸国に多い-skijや-vichも多い。うち、-skijは女性名となると-skaの形に変化する。
  • 普通名詞を物主形容詞化して姓とする-in、-ev、-ovといったパターンも多い。-skij同様に女性名の場合は後にaが付き変化する。隣接するロシアやベラルーシでもごく普通に見られるが、これは帝政ロシアソ連による長期にわたる支配が大きく影響しているものと思われる。単語によってはウクライナ語ではロシア語では-ovとなるところが-ivとなる場合もある(「中島」という地名・姓が地域によっては「なかしま」と呼ばれるのに近い)。なお、-ev、-ovのパターンについてはブルガリアでも普通に見られる。
  • KuchmaやBubka、MazepaChaykaなど-aで終わるような姓もあるが、これはたんにウクライナ語の普通名詞が姓となった例が多い。その場合、動植物の名詞が姓となっていることが多い。無論、-aで終わらない普通名詞も姓となっており、-aが特殊な例というわけではない。たんに、ロシア語系の姓では-aで終わる姓は女性形のみであるため、ロシア語系の姓に馴染んだものにとっては特異に感じられるだけである。普通名詞の性になった例としては、他にShchur、Buryakなど。これがロシア語化すると、Shchurov、Buryakovなどのように物主形容詞化することになる。

ウクライナ国民[編集]

ウクライナ国籍保有者である「ウクライナ国民(український громадянин、ウクライーンシクィー・フロマジャーヌィン」という言葉には、民族的な意味での「ウクライナ人(українець、ウクライーネツィ)」に加え、ロシア人ルーマニア人ベラルーシ人クリミア・タタール人ガガウズ人ユダヤ人などの民族も含まれる。ただし、彼ら少数民族が自らのことを「ウクライナ人」と自称することは少なく、「国民」と「民族」とは分けて考えられる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]