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'''吉川 尹哲'''(よしかわ いんてつ、[[1823年]]または[[1826年]] - [[1912年]])は、[[日本]]の宗教活動家、[[淘宮術]]の指導者。'''淡々斎一元'''(たんたんさいいちげん)と号した。{{Sfn|西川|1914|pp=125-126}}{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}
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[[ファイル:Tantansai Yoshikawa Ichigen.jpg|thumb|吉川一元の肖像{{Harv|竹内|1912|p=口絵写真}}]]
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'''吉川 尹哲'''(よしかわ いんてつ、[[1826年]] - [[1909年]])は、宗教活動家、[[淘宮術]]の指導者。はじめ淘宮術の創始者・[[横山丸三]]に、横山の死去後は[[佐野量丸]]に師事。[[江戸時代]]末期の[[幕臣]]で、[[明治維新]]後は[[東京府]]に出仕し、のち[[戸長]]職をつとめ、[[神田区長]]、[[日本橋区長]]を歴任した。1881年に戸長を辞職し、1882年、淘宮術の免許皆伝を受け、'''淡々斎一元'''(たんたんさいいちげん)と号した。1885年に[[教導職]]試補に任じられ、のち[[大教正]]に昇進。3代目の指導者として各地へ出張して門弟を増やし、淘宮術の普及に努めた。
  
 
==経歴==
 
==経歴==
推定1823年([[文政]]6)または1826年(文政9)生まれ{{Sfn|鈴木|1966|p=7に、明治21年・1888年3月当時、66歳とあり、同書9頁には弘化元年・1844年当時19歳とある。}}
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[[文政]]9年(1826)2月14日、[[下谷]][[池之端|池の端]]茅町に、幕臣・[[久野玄三]]の次男として生まれる。幼名を'''正三'''といい、のち'''尹哲'''と改めた。{{Sfn|竹内|1912|p=1}}
  
淘宮術の開祖・[[横山丸三]]の縁故者でもあり、弘化元年(1844)、19歳のとき横山の門下に入った{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
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11歳の時、吉川家の養嗣子となった{{Sfn|竹内|1912|p=1}}。
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[[淘宮術]]の開祖・[[横山丸三]]の縁故者でもあり{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}、弘化元年(1844)12月に横山の門下に入った{{Sfn|竹内|1912|p=1}}。
  
 
江戸幕府の役人としては[[御小納戸]]御召方役をつとめ、[[徳川家達|徳川亀之助]]にも勤仕した{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
 
江戸幕府の役人としては[[御小納戸]]御召方役をつとめ、[[徳川家達|徳川亀之助]]にも勤仕した{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
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その後は[[佐野量丸]]の門下となった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。
 
その後は[[佐野量丸]]の門下となった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。
  
[[明治維新]]の後は[[東京府]]出仕となり、後に戸長職を務めた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
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[[明治維新]]の後は[[東京府]]出仕となり、後に戸長職を務めた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。[[神田区|神田]]および[[日本橋区|日本橋]]の区長となったことがあった{{Sfn|村居|1937}}。
  
1881年(明治14)、57歳のとき、戸長を辞職{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。[[佐野量丸]]から「天源十二宮」の皆伝を受け{{Sfn|西川|1914|p=125}}{{Sfn|鈴木|1966|pp=7,9}}、3代目の指導者として淘宮術の教導・普及につとめた{{Sfn|鈴木|1966|pp=7,9}}。
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1881年(明治14)に戸長を辞職{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
  
東京・[[神田猿楽町|神田の猿楽町]]の[[独逸協会学校]]の前に住み、各所へ出張、教導{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。東京の[[青梅市|青梅]]地方や八王子、相原方面([[相模原市]])へも出張して門下を増やし、淘宮術を普及させた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
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1882年(明治15)5月30日に佐野から「天源十二宮」の皆伝を受け、「淡々斎一元」と号した{{Sfn|竹内|1912|p=1}}。3代目の指導者として、淘宮術の教導・普及につとめた{{Sfn|鈴木|1966|pp=7,9}}。
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1885年(明治18)4月、[[教導職]]試補に任じられ、その後、昇進して[[大教正]]となった{{Sfn|竹内|1912|p=1}}。
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東京・[[神田猿楽町|神田猿楽町]]の[[独逸協会学校]]の前{{Sfn|読売新聞|1901|p=によると、1901年頃の住所は、神田区仲猿楽町。}}に住み、各所へ出張、教導{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。東京の[[青梅市|青梅]]地方や八王子、相原方面([[相模原市]])へも出張して門下を増やし、淘宮術を普及させた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。
  
 
吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、[[華族]]や富豪の信者・支援者も多かった{{Sfn|西川|1914|p=126}}。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。
 
吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、[[華族]]や富豪の信者・支援者も多かった{{Sfn|西川|1914|p=126}}。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。
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*門弟は1万数千人に上り、皆伝を受けた者は[[桑島光品]]、[[岡田寛]]、[[永井直晴]]など10数人に達した{{Sfn|竹内|1912|p=1}}。
 
*[[相沢菊太郎]]は吉川の直弟子だった{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。
 
*[[相沢菊太郎]]は吉川の直弟子だった{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。
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*1905年(明治38)頃、[[村居銕城]]は[[巌六平]]と[[池田甚吉]]の手引きで半年ほどその社中となったことがあった{{Sfn|村居|1937}}。
  
吉川の弟子だった[[竹内師水]]は、1912年に吉川の淘話を筆記して『一元先生の淘話』{{Harv|竹内|1912}}として刊行し、秘密を漏洩したとして吉川に破門された。{{Sfn|西川|1914|pp=128-129}}
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74歳の頃、病気を患ったが、その後も淘宮術の淘話を続けた{{Sfn|竹内|1912|pp=4-5}}
  
1912年(明治45)9月に病没{{Sfn|西川|1914|p=126}}。養嗣子の吉川留男が後を継いだ{{Sfn|西川|1914|p=126}}<ref>{{Harvtxt|西川|1914|p=126}}は、留男について「不肖にして徒らに様に依りて胡蘆を画くに過ぎず(愚かで、ただ形はそれらしくしているが、先例主義で独創性がなかった)」と評している。</ref>
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1909年(明治42)3月、娘・福子が[[東京美術学校]]の卒業生・[[久野亀之助]]と婚約{{Sfn|読売新聞|1909a|p=同月29日に[[東京大神宮|大神宮]]にて挙式予定とされている。}}。
  
== 付録 ==
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同年9月上旬頃、首のあたりに瘍(できもの)ができ、[[順天堂医院]]に入院して[[切開手術]]を受けたが、治癒せず、同月29日に死去{{Sfn|竹内|1912|p=6}}{{Sfn|読売新聞|1909b|p=に、会葬への参加のお礼を載せている。}}。行年84歳{{Sfn|竹内|1912|p=6}}。[[下谷区]]谷中坂町の[[上聖寺]]に埋葬された{{Sfn|村居|1937}}。法号:蓮華院一元日哲居士{{Sfn|村居|1937}}。養嗣子の吉川留男が後を継いだ{{Sfn|西川|1914|p=126}}{{Sfn|西川|1914|p=126は、留男について「不肖にして徒らに様に依りて胡蘆を画くに過ぎず(愚かで、ただ形はそれらしくしているが、先例主義で独創性がなかった)」と評している。}}
===関連文献===
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* {{Aya|竹内|year=1912}} 竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、{{NDLJP|949211}}
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{{Harvtxt|西川|1914|pp=128-129}}は、吉川の弟子だった[[竹内師水]]は、1912年に吉川の淘話を筆記して『一元先生の淘話』{{Harv|竹内|1912}}として刊行し、秘密を漏洩したとして吉川に破門された、としている。
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*同書は、吉川が1912年(明治45)9月に病没した、としているが、{{Harvtxt|読売新聞|1909b}}によると、吉川は1909年10月5日より少し前に死去している。
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==著作物==
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*竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、{{NDLJP|949211}}
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== 附録 ==
 
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*{{Aya|大井|year=1868}} 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、{{NDLJP|2209062/10}}
 
*{{Aya|大井|year=1868}} 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、{{NDLJP|2209062/10}}
 
*{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}}
 
*{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}}
*{{Aya|西川|year=1914}} 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、{{NDLJP|908681}}
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*{{Aya|読売新聞|year=1901}} 「[広告]近火御見舞い御礼/神田区 吉川尹哲」『読売新聞』1901年12月8日 朝刊 p.6
*{{Aya|鈴木|year=1966}} 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、{{NDLJP|2985880/8}}{{閉}}
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*{{Aya|読売新聞|year=1909a}} 「結婚」『読売新聞』1909年3月18日 朝刊 社会 p.3
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*{{Aya|読売新聞|year=1909b}} 「[広告]訃報 大教正 吉川尹哲/男 吉川留男」『読売新聞』1909年10月5日 朝刊 p.4
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* {{Aya|竹内|year=1912}} 竹内師水「吉川一元先生略伝」竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、pp.1-6、{{NDLJP|949211/10}}
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*{{Aya|西川|year=1914}} 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、{{NDLJP|908681/70}}
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*{{Aya|村居|year=1937}} 村居銕城「吉川尹哲先生」『明治大正 実話稿 附感恩録・智友録』村居銕次郎、p.127、{{NDLJP|1026490/78}}{{閉}}
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*{{Aya|鈴木|year=1966}} 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、pp.7-9、{{NDLJP|2985880/8}}{{閉}}
  
 
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2021年11月21日 (日) 20:01時点における最新版

吉川 尹哲(よしかわ いんてつ、1826年 - 1909年)は、宗教活動家、淘宮術の指導者。はじめ淘宮術の創始者・横山丸三に、横山の死去後は佐野量丸に師事。江戸時代末期の幕臣で、明治維新後は東京府に出仕し、のち戸長職をつとめ、神田区長日本橋区長を歴任した。1881年に戸長を辞職し、1882年、淘宮術の免許皆伝を受け、淡々斎一元(たんたんさいいちげん)と号した。1885年に教導職試補に任じられ、のち大教正に昇進。3代目の指導者として各地へ出張して門弟を増やし、淘宮術の普及に努めた。

経歴[編集]

文政9年(1826)2月14日、下谷池の端茅町に、幕臣・久野玄三の次男として生まれる。幼名を正三といい、のち尹哲と改めた。[1]

11歳の時、吉川家の養嗣子となった[1]

淘宮術の開祖・横山丸三の縁故者でもあり[2]、弘化元年(1844)12月に横山の門下に入った[1]

江戸幕府の役人としては御小納戸御召方役をつとめ、徳川亀之助にも勤仕した[2]

嘉永元年(1848)、幕府が横山の淘宮講義の集会を禁止し[2]、安政元年(1854)に横山が死去[3][4]

その後は佐野量丸の門下となった[5]

明治維新の後は東京府出仕となり、後に戸長職を務めた[2]神田および日本橋の区長となったことがあった[6]

1881年(明治14)に戸長を辞職[2]

1882年(明治15)5月30日に佐野から「天源十二宮」の皆伝を受け、「淡々斎一元」と号した[1]。3代目の指導者として、淘宮術の教導・普及につとめた[7]

1885年(明治18)4月、教導職試補に任じられ、その後、昇進して大教正となった[1]

東京・神田猿楽町独逸協会学校の前[8]に住み、各所へ出張、教導[9]。東京の青梅地方や八王子、相原方面(相模原市)へも出張して門下を増やし、淘宮術を普及させた[2]

吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、華族や富豪の信者・支援者も多かった[10]。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった[9]

74歳の頃、病気を患ったが、その後も淘宮術の淘話を続けた[11]

1909年(明治42)3月、娘・福子が東京美術学校の卒業生・久野亀之助と婚約[12]

同年9月上旬頃、首のあたりに瘍(できもの)ができ、順天堂医院に入院して切開手術を受けたが、治癒せず、同月29日に死去[13][14]。行年84歳[13]下谷区谷中坂町の上聖寺に埋葬された[6]。法号:蓮華院一元日哲居士[6]。養嗣子の吉川留男が後を継いだ[10][15]

西川 (1914 128-129)は、吉川の弟子だった竹内師水は、1912年に吉川の淘話を筆記して『一元先生の淘話』(竹内 1912 )として刊行し、秘密を漏洩したとして吉川に破門された、としている。

  • 同書は、吉川が1912年(明治45)9月に病没した、としているが、読売新聞 (1909b )によると、吉川は1909年10月5日より少し前に死去している。

著作物[編集]

  • 竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、NDLJP 949211

附録[編集]

脚注[編集]

  1. 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 竹内 1912 1
  2. 以下の位置に戻る: 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 鈴木 1966 9
  3. 元の位置に戻る 大井 1868 20
  4. 元の位置に戻る 井上 1896 228
  5. 元の位置に戻る 西川 1914 125
  6. 以下の位置に戻る: 6.0 6.1 6.2 6.3 村居 1937
  7. 元の位置に戻る 鈴木 1966 7,9
  8. 元の位置に戻る 読売新聞 1901 によると、1901年頃の住所は、神田区仲猿楽町。
  9. 以下の位置に戻る: 9.0 9.1 9.2 鈴木 1966 7
  10. 以下の位置に戻る: 10.0 10.1 西川 1914 126
  11. 元の位置に戻る 竹内 1912 4-5
  12. 元の位置に戻る 読売新聞 1909a 同月29日に大神宮にて挙式予定とされている。
  13. 以下の位置に戻る: 13.0 13.1 竹内 1912 6
  14. 元の位置に戻る 読売新聞 1909b に、会葬への参加のお礼を載せている。
  15. 元の位置に戻る 西川 1914 126は、留男について「不肖にして徒らに様に依りて胡蘆を画くに過ぎず(愚かで、ただ形はそれらしくしているが、先例主義で独創性がなかった)」と評している。

参考文献[編集]

  • 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
  • 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
  • 読売新聞 (1901) 「[広告]近火御見舞い御礼/神田区 吉川尹哲」『読売新聞』1901年12月8日 朝刊 p.6
  • 読売新聞 (1909a) 「結婚」『読売新聞』1909年3月18日 朝刊 社会 p.3
  • 読売新聞 (1909b) 「[広告]訃報 大教正 吉川尹哲/男 吉川留男」『読売新聞』1909年10月5日 朝刊 p.4
  • 竹内 (1912) 竹内師水「吉川一元先生略伝」竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、pp.1-6、NDLJP 949211/10
  • 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、NDLJP 908681/70
  • 村居 (1937) 村居銕城「吉川尹哲先生」『明治大正 実話稿 附感恩録・智友録』村居銕次郎、p.127、NDLJP 1026490/78 (閉)
  • 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、pp.7-9、NDLJP 2985880/8 (閉)