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− | + | '''アラン・ドロン'''(Alain Delon/Alain Fabien Maurice Marcel Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優、映画監督、プロデユーサー、歌手、ビジネスマンである。1960年代から1970年台に掛けてヨーロッパで最も著名な俳優であった。[[ルキノ・ヴィスコンティ]]、[[ジャン・リュック・ゴダール]]、[[ジャン・ピエール・メルヴィル]]、[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]、[[ルイ・マル]]など多くの著名映画監督の映画に出演した。フランスではギャング映画の出演で知られている。米国では人気はあまりでなかったが、日本と欧州では大きな成功を収めた。 | |
− | == | + | ==概要== |
− | + | ===初期キャリア=== | |
+ | [[1935年]]11月8日、パリ郊外の高級住宅街であるオー・ド・セーヌ県(現[[セーヌサンドニ県]](Saint-Denis))ソー(Sceaux) で生まれるは小さな映画館を経営するファビアン・ドロンでフランス人と半分コルシカ人/イタリア人の祖先がある。母親は薬剤師のエディット・ドロンでドイツ人とフランス人の先祖を持つ。4歳で両親が離婚してから母方に預けられた。どちらも再婚したため、ドロンは両方に義兄弟がある。ローマカトリックの学校に入れられたが、素行が悪く寄宿学校を転々とした。14歳の時に卒業し、義父の経営する豚肉加工品専門の食品店で働き始める。17歳でフランス海軍に入隊する。[[マルセイユ]]から貨物船に乗り、第一次インドシナ戦争のため、1953年から1954年に掛けてインドネシアで海軍に従軍する。海軍ではばかなことをして首になったと語る。除隊しフランスに戻り、ウェイター、秘書、営業サポート、レ・ザールのポーターとして働く。フランスに帰国後は「ちんぴら」のように暮らしていたと後年に回想する。1957年の夏、女優の[[ブリジット・オーベール]]と親しくなり、カンヌで映画祭に誘われる。 | ||
+ | ===映画界へ=== | ||
+ | カンヌで映画『武器よさらば』を撮影していた[[デヴィッド・O・セルズニック]]のスクリーンテストを受けて合格し、英語の習得を条件に7年間のオファーを提供した。 | ||
+ | その後、女優[[エステラ・ブラン]]の紹介で、[[イヴ・アレグレ]]監督と会ったとき、俳優のキャリアを始めるためにはフランスに留まる方がよいとアドバイスされた。セルズニックは契約のキャンセルを了承し、イヴ・アレグレ監督により『女が事件にからむ時』(1957年、日本未公開) でスクリーンデビューする。ピエール・ガスパール=ユイ『恋ひとすじに』(1958年)で主演となった。次作のマルク・アレグレ監督『黙って抱いて』(1958)ではジャン・ポール・ベルモンドと共演した。 | ||
+ | ===世界的スターへ=== | ||
+ | 1959年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに!』はフランスで大ヒットした。1961年の『アラビアのロレンス』では、ハリト族のリーダー、アリ役にフランス人のアラン・ドロンらやモーリス・ロネらが考慮されたが、無名のアラブ人俳優オマー・シャリフが抜擢された。 | ||
+ | 1960年の『太陽がいっぱい』([[ルネ・クレマン]]監督、原題:Plein soleil,英語:Purple Noon)に出演し、この一作で一躍世界的スターになった。 | ||
− | + | ===ヴィスコンティ監督の映画へ=== | |
− | + | 同年[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『若者のすべて』(原題:Rocco e i suoi fratelli)でパロンディ家の三男ロッコ・パロンディとして出演した。1961年にはルネ・クレマン監督の『生きる歓び』(原題:Che gioia vivere)、ミシェル・ボワロン監督『素晴らしき恋人たち』に出演し、ジャン・ポール・ベルモンド、ブリジット・バルドーと共演した。1963年にはアンリ・ヴェルヌイユ監督『地下室のメロディー』で[[ジャン・ギャバン]]と共演し、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督の『山猫』(原題]Il Gattopardo)では、[[バート・ランカスター]]と共演した。しかし、それまで親密な関係だったアラン・ドロンとヴィスコンティは、ドロンがバート・ランカスターよりギャラが安いことに不平を言ったため、本作以降は絶縁状態となった。 | |
− | + | ===二枚目から渋みのある俳優に=== | |
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1966年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、1967年には[[ジャン=ピエール・メルヴィル]]監督の[[サムライ]](原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。1969年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。「パリの灯は遠く」(1976年)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(1981年)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(1984年・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞した。2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。 | 1966年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、1967年には[[ジャン=ピエール・メルヴィル]]監督の[[サムライ]](原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。1969年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。「パリの灯は遠く」(1976年)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(1981年)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(1984年・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞した。2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。 | ||
− | + | ===引退=== | |
+ | 2017年5月9日、「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と述べ、映画俳優からの引退を表明した。 | ||
+ | ==受賞歴== | ||
+ | *1972年 [[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] 特別賞 受賞 | ||
+ | *1984年 第10回 [[セザール賞]] 主演男優賞(真夜中のミラージュ) | ||
+ | *1995年 [[ベルリン国際映画祭]] 名誉金熊賞 受賞 | ||
+ | *1995年 [[フランス国家功労勲章]] | ||
+ | *2019年 第72回[[カンヌ国際映画祭]] 「パルムドールドヌール(Honorary Palme d'or)」受賞 | ||
+ | ==結婚== | ||
+ | 1959年『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの[[ロミー・シュナイダー]]と同棲し婚約した。婚約中にモデルでドイツ人女優のニコ(Nico,Christa Päffgen,1938-1988)と関係を持ち、1962年に息子の[[クリスチャン・アーロン・ブロング]](Christian Aaron Boulogne)が生まれた。ニコは子供を育てることができず、ドロンは認知しなかったため、ドロンの両親が育てた。1963年、ドロンと[[ロミー・シュナイダー]]は婚約解消を決めた。 | ||
+ | 1963年、ナタリー・バルテルミー(のちの[[ナタリー・ドロン]])と出会い、1964年にナタリーと結婚した。1964年9月30日に長男のアントニー・ドロンが生まれる。 | ||
+ | ナタリー・ドロンとは1969年に離婚した。女優を続けたいと願うナタリーと対立したためと言われる。オランダ人モデルのロザリー・ファン・ブリーメンと出会い、関係を持った。間に2人の子供アヌーシュカ・ドロン(1990年11月25日)とアラン・ファビアン・ドロン(1994年3月18日)が生まれた。ロザリーとは籍は入れなかった。 | ||
+ | 最初の妻ナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との間に生まれた息子アントニー・ドロン、ロザリーとの息子のアラン・ファビアン・ドロンは俳優となった。 | ||
== 人物 == | == 人物 == | ||
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*2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。 | *2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。 | ||
− | + | == フルモグラフィー == | |
− | + | {| class="wikitable" | |
+ | |+ アランドロンのフルモグラフィー | ||
+ | ! 製作年 !! タイトル !! 監督 !! 共演者!!備考 | ||
+ | |- | ||
+ | | 1949年 ||Le rapt || Olivier Bourguignon|| ||短編 | ||
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+ | | 1957年 ||女が事件にからむ時 || イヴ・アレグレ||エドヴィージュ・フィエール||日本未公開 | ||
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+ | | 1958年 ||恋ひとすじに || ピエール・ガスパール=ユイ||ロミー・シュナイダー|| | ||
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+ | | 1959年 ||学生たちの道 || ミシェル・ボワロン||フランソワーズ・アルヌール || | ||
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+ | | 1959年 ||お嬢さん、お手やわらかに! || ミシェル・ボワロン||パスカル・プティ || | ||
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+ | | 1960年 ||太陽がいっぱい|| ルネ・クレマン|| マリー・ラフォレ || | ||
+ | |- | ||
+ | | 1960年 ||生きる歓び|| ルネ・クレマン|| バルバラ・ラス || | ||
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+ | | 1960年 ||若者のすべて|| ルキノ・ヴィスコンティ||クラウディア・カルディナーレ || | ||
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+ | | 1961年 ||素晴らしき恋人たち||ミシェル・ボワロン ||ジャン=ポール・ベルモンド || | ||
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+ | |1962年||太陽はひとりぼっち||ミケランジェロ・アントニオーニ||モニカ・ビッティ || | ||
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+ | |1962年||フランス式十戒||ジュリアン・デュビビエ||ミシェル・シモン|| | ||
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+ | |1962年||地下室のメロディー||アンリ・ヴェルヌイユ||ジャン・ギャバン|| | ||
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+ | |1963年||黒いチューリップ||クリスチャン=ジャック|| ヴィルナ・リージ|| | ||
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+ | |1963年||山猫||ルキノ・ヴィスコンティ|| [[バート・ランカスター]]|| | ||
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+ | |1963年||黄色いロールスロイス||アンソニー・アスキス|| ジャンヌ・モロー|| | ||
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+ | |1964年||危険がいっぱい||ルネ・クレマン|| ジェーン・フォンダ|| | ||
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+ | |1964年||さすらいの狼||アラン・カヴァリエ|| || | ||
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+ | |1964年||さすらいの狼||ラルフ・ネルソン|| || | ||
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+ | |1966年||名誉と栄光のためでなく||マーク・ロブソン|| || | ||
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+ | |1966年||名誉と栄光のためでなく||マイケル・ゴードン|| || | ||
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+ | |1966年||パリは燃えているか||ルネ・クレマン|| || | ||
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+ | |1967年||悪魔のようなあなた||ジュリアン・デュヴィヴィエ|| || | ||
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+ | |1967年||冒険者たち||ロベール・アンリコ|| || | ||
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+ | |1967年||サムライ||ジャン=ピエール・メルヴィル|| || | ||
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+ | |1967年||世にも怪奇な物語||ルイ・マル|| || | ||
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+ | |1967年||あの胸にもう一度||ジャック・カーディフ|| || | ||
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+ | |1968年||太陽が知っている||ジャック・ドレー || ロミー・シュナイダー || | ||
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+ | |1968年||さらば友よ||ジャン・エルマン|| チャールズ・ブロンソン || | ||
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2021年10月26日 (火) 12:37時点における版
アラン・ドロン(Alain Delon/Alain Fabien Maurice Marcel Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優、映画監督、プロデユーサー、歌手、ビジネスマンである。1960年代から1970年台に掛けてヨーロッパで最も著名な俳優であった。ルキノ・ヴィスコンティ、ジャン・リュック・ゴダール、ジャン・ピエール・メルヴィル、ミケランジェロ・アントニオーニ、ルイ・マルなど多くの著名映画監督の映画に出演した。フランスではギャング映画の出演で知られている。米国では人気はあまりでなかったが、日本と欧州では大きな成功を収めた。
目次
概要
初期キャリア
1935年11月8日、パリ郊外の高級住宅街であるオー・ド・セーヌ県(現セーヌサンドニ県(Saint-Denis))ソー(Sceaux) で生まれるは小さな映画館を経営するファビアン・ドロンでフランス人と半分コルシカ人/イタリア人の祖先がある。母親は薬剤師のエディット・ドロンでドイツ人とフランス人の先祖を持つ。4歳で両親が離婚してから母方に預けられた。どちらも再婚したため、ドロンは両方に義兄弟がある。ローマカトリックの学校に入れられたが、素行が悪く寄宿学校を転々とした。14歳の時に卒業し、義父の経営する豚肉加工品専門の食品店で働き始める。17歳でフランス海軍に入隊する。マルセイユから貨物船に乗り、第一次インドシナ戦争のため、1953年から1954年に掛けてインドネシアで海軍に従軍する。海軍ではばかなことをして首になったと語る。除隊しフランスに戻り、ウェイター、秘書、営業サポート、レ・ザールのポーターとして働く。フランスに帰国後は「ちんぴら」のように暮らしていたと後年に回想する。1957年の夏、女優のブリジット・オーベールと親しくなり、カンヌで映画祭に誘われる。
映画界へ
カンヌで映画『武器よさらば』を撮影していたデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受けて合格し、英語の習得を条件に7年間のオファーを提供した。 その後、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督と会ったとき、俳優のキャリアを始めるためにはフランスに留まる方がよいとアドバイスされた。セルズニックは契約のキャンセルを了承し、イヴ・アレグレ監督により『女が事件にからむ時』(1957年、日本未公開) でスクリーンデビューする。ピエール・ガスパール=ユイ『恋ひとすじに』(1958年)で主演となった。次作のマルク・アレグレ監督『黙って抱いて』(1958)ではジャン・ポール・ベルモンドと共演した。
世界的スターへ
1959年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに!』はフランスで大ヒットした。1961年の『アラビアのロレンス』では、ハリト族のリーダー、アリ役にフランス人のアラン・ドロンらやモーリス・ロネらが考慮されたが、無名のアラブ人俳優オマー・シャリフが抜擢された。 1960年の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督、原題:Plein soleil,英語:Purple Noon)に出演し、この一作で一躍世界的スターになった。
ヴィスコンティ監督の映画へ
同年ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(原題:Rocco e i suoi fratelli)でパロンディ家の三男ロッコ・パロンディとして出演した。1961年にはルネ・クレマン監督の『生きる歓び』(原題:Che gioia vivere)、ミシェル・ボワロン監督『素晴らしき恋人たち』に出演し、ジャン・ポール・ベルモンド、ブリジット・バルドーと共演した。1963年にはアンリ・ヴェルヌイユ監督『地下室のメロディー』でジャン・ギャバンと共演し、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(原題]Il Gattopardo)では、バート・ランカスターと共演した。しかし、それまで親密な関係だったアラン・ドロンとヴィスコンティは、ドロンがバート・ランカスターよりギャラが安いことに不平を言ったため、本作以降は絶縁状態となった。
二枚目から渋みのある俳優に
1966年の「テキサス」でハリウッドデビューしたが、まもなくフランスに戻り、1967年にはジャン=ピエール・メルヴィル監督のサムライ(原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。1969年にはボディガードが射殺され、殺人容疑をかけられる大スキャンダルが発生したが、後に容疑は晴れた。「パリの灯は遠く」(1976年)などがヒットし、初監督作「危険なささやき」(1981年)では製作・主演も兼ねた。「真夜中のミラージュ」(1984年・日本劇場未公開)ではセザール賞主演男優賞を受賞した。2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。
引退
2017年5月9日、「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」と述べ、映画俳優からの引退を表明した。
受賞歴
- 1972年 ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 特別賞 受賞
- 1984年 第10回 セザール賞 主演男優賞(真夜中のミラージュ)
- 1995年 ベルリン国際映画祭 名誉金熊賞 受賞
- 1995年 フランス国家功労勲章
- 2019年 第72回カンヌ国際映画祭 「パルムドールドヌール(Honorary Palme d'or)」受賞
結婚
1959年『恋ひとすじに』で共演した西ドイツのロミー・シュナイダーと同棲し婚約した。婚約中にモデルでドイツ人女優のニコ(Nico,Christa Päffgen,1938-1988)と関係を持ち、1962年に息子のクリスチャン・アーロン・ブロング(Christian Aaron Boulogne)が生まれた。ニコは子供を育てることができず、ドロンは認知しなかったため、ドロンの両親が育てた。1963年、ドロンとロミー・シュナイダーは婚約解消を決めた。 1963年、ナタリー・バルテルミー(のちのナタリー・ドロン)と出会い、1964年にナタリーと結婚した。1964年9月30日に長男のアントニー・ドロンが生まれる。 ナタリー・ドロンとは1969年に離婚した。女優を続けたいと願うナタリーと対立したためと言われる。オランダ人モデルのロザリー・ファン・ブリーメンと出会い、関係を持った。間に2人の子供アヌーシュカ・ドロン(1990年11月25日)とアラン・ファビアン・ドロン(1994年3月18日)が生まれた。ロザリーとは籍は入れなかった。 最初の妻ナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との間に生まれた息子アントニー・ドロン、ロザリーとの息子のアラン・ファビアン・ドロンは俳優となった。
人物
- 2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。
フルモグラフィー
製作年 | タイトル | 監督 | 共演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1949年 | Le rapt | Olivier Bourguignon | 短編 | |
1957年 | 女が事件にからむ時 | イヴ・アレグレ | エドヴィージュ・フィエール | 日本未公開 |
1958年 | 恋ひとすじに | ピエール・ガスパール=ユイ | ロミー・シュナイダー | |
1959年 | 学生たちの道 | ミシェル・ボワロン | フランソワーズ・アルヌール | |
1959年 | お嬢さん、お手やわらかに! | ミシェル・ボワロン | パスカル・プティ | |
1960年 | 太陽がいっぱい | ルネ・クレマン | マリー・ラフォレ | |
1960年 | 生きる歓び | ルネ・クレマン | バルバラ・ラス | |
1960年 | 若者のすべて | ルキノ・ヴィスコンティ | クラウディア・カルディナーレ | |
1961年 | 素晴らしき恋人たち | ミシェル・ボワロン | ジャン=ポール・ベルモンド | |
1962年 | 太陽はひとりぼっち | ミケランジェロ・アントニオーニ | モニカ・ビッティ | |
1962年 | フランス式十戒 | ジュリアン・デュビビエ | ミシェル・シモン | |
1962年 | 地下室のメロディー | アンリ・ヴェルヌイユ | ジャン・ギャバン | |
1963年 | 黒いチューリップ | クリスチャン=ジャック | ヴィルナ・リージ | |
1963年 | 山猫 | ルキノ・ヴィスコンティ | バート・ランカスター | |
1963年 | 黄色いロールスロイス | アンソニー・アスキス | ジャンヌ・モロー | |
1964年 | 危険がいっぱい | ルネ・クレマン | ジェーン・フォンダ | |
1964年 | さすらいの狼 | アラン・カヴァリエ | ||
1964年 | さすらいの狼 | ラルフ・ネルソン | ||
1966年 | 名誉と栄光のためでなく | マーク・ロブソン | ||
1966年 | 名誉と栄光のためでなく | マイケル・ゴードン | ||
1966年 | パリは燃えているか | ルネ・クレマン | ||
1967年 | 悪魔のようなあなた | ジュリアン・デュヴィヴィエ | ||
1967年 | 冒険者たち | ロベール・アンリコ | ||
1967年 | サムライ | ジャン=ピエール・メルヴィル | ||
1967年 | 世にも怪奇な物語 | ルイ・マル | ||
1967年 | あの胸にもう一度 | ジャック・カーディフ | ||
1968年 | 太陽が知っている | ジャック・ドレー | ロミー・シュナイダー | |
1968年 | さらば友よ | ジャン・エルマン | チャールズ・ブロンソン | |
1969年 | ジェフ | ジャン・エルマン | ミレーユ・ダルク | |
1969年 | シシリアン | アンリ・ヴェルヌイユ | ジャン・ギャバン | |
1970年 | ボルサリーノ | ジャック・ドレー | ジャン=ポール・ベルモンド | |
1970年 | 仁義 | ジャン=ピエール・メルヴィル | イヴ・モンタン | |
1971年 | レッド・サン | テレンス・ヤング | チャールズ・ブロンソン | |
1971年 | 栗色のマッドレー | ロジェ・カーヌ | ミレーユ・ダルク | |
1971年 | もういちど愛して | ジャック・ドレー | ナタリー・ドロン | |
1971年 | 帰らざる夜明け | ピエール・グラニエ=ドフェール | シモーヌ・シニョレ |