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渡辺 義郎(わたなべ よしろう?、生年不詳-没年不詳)は、日本の銀行家。1909年から1941年まで愛知銀行頭取。1926年に中央信託株式会社を創立し、社長に就任。豊川鉄道、日本窒素肥料、大隈鉄工所、愛知時計電機、朝鮮水電などの重役を務めた。1941年6月以降、東海銀行取締役会長。
経歴[編集]
1896年(明治29)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入行[1]。
名古屋支店調査役を経て、1906年(明治39)8月に名古屋支店長[1]。
1909年(明治42)、40歳のとき、愛知銀行頭取となり、1941年(昭和16)6月に同行が名古屋銀行・伊藤銀行と合併して東海銀行となるまで在職[1]。
この間、豊川鉄道、日本窒素肥料、丸八貯蓄、大隈鉄工所、愛知時計電機、愛知物産組、尾陽土地、日本貯蓄、朝鮮水電などの銀行や会社の重役を務めた[1]。
1926年(昭和元)12月には、当時の金融界の趨勢を察して、中央信託株式会社を創立して社長となった[1]。
1941年(昭和16)6月以降、東海銀行の取締役会長に就任[1]。
併行して、1909年(明治42)10月以来、名古屋銀行集会所理事を務め、名古屋商業会議所・商工会議所、日本商工会議所の特別議員・顧問、1926年(大正15)9月金融制度調査会委員、同年12月商事調停委員、1928年(昭和3)6月名古屋市財政調査会委員、1932年(昭和7)10月金銭債務調停委員、1938年(昭和13)4月北支開発株式会社創立委員などを歴任した[1]。
財界関係以外では、財団法人結核予防会評議員・理事等を委嘱されていた[1]。
人物[編集]
東海銀行 (1944 364)は、渡邊が最も興味を持ったのは工業だったとし、工業の中でも特に交通業と重工業を重視し、豊川鉄道の取締役を長く務め、大隈鉄工所、愛知時計電機の取締役・監査役に就任したことを指摘している[1]。
渡邊義郎氏は、愛知銀行の頭取で野口氏の友人であり、古く明治42年(1909)中橋徳五郎氏と同時に当社取締役に就任し、昭和10年(1935)6月6日の辞任まで20数年の永い間、当社の重役として功労浅からず、特に金融について少なからざる援助と支持を受けたものである
– 『創立30周年記念日本窒素肥料事業大観』から [1]
栄典[編集]
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 東海銀行 (1944) 東海銀行(編)『愛知銀行四十六年史』東海銀行、NDLJP 1061729/195