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+ | 1913年7月頃、陸軍予備中尉として、ジョホール国でゴム栽培に従事しながら、四谷(左門町)の自邸に帰省していた{{Sfn|吉井|1913b|pp=17-18}}{{Sfn|吉井|1913a|p=65}}。この頃すでに、ゴム園経営の傍らで行っていた狩猟(猛獣狩り)のことが新聞等で報道され、話題となっていたという{{Sfn|吉井|1913a|p=65}}。このときの吉井本人へのインタビューによると、ゴム園経営の方は、日本からジョホールのゴム園へ農夫を13人ほど連れて行ったが、1組の夫婦を除いて、他は全員10ヵ月あまりのうちに皆[[マラリヤ]]に罹患して日本に帰国してしまい、10ヵ月といっても実働は30日から60日程度だった、という{{Sfn|吉井|1913a|p=65}}。 | ||
+ | *旧藩領の(群馬県)[[吉井町]]からもゴム栽培に従事するためマレー半島へ渡航した人(ないし世帯)が5人(ないし世帯)ほどあったが、気候風土の相違やマラリヤのため日本に帰国するものもあり、かじ町の堀越粂蔵は帰郷後、マラリヤのため死去した{{Sfn|堀|1974|p=696}}。 | ||
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+ | この間(時期不定で)、マレー半島、[[ジャワ島|ジャワ]]、[[スマトラ島|スマトラ]]および[[ボルネオ島|ボルネオ]]方面を旅行視察したり、象狩や虎狩をして、各方面での話題となった{{Sfn|堀|1974|p=698}}。 | ||
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+ | *{{Harvtxt|堀|1974|p=696}}によると、ゴム栽培事業は結局不成功に終わったという。 | ||
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+ | [[第2次世界大戦]]中は、[[マライ軍政監部]]に属していたが、病気のため日本に帰国し、病没した{{Sfn|堀|1974|p=698}}。 | ||
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*1952年4月 ――、一瀬幸三「南北虎狩り痛快談マレー満州」講談社『少年クラブ』v.39 n.5 pp.112-、{{NDLJP|1798709/58}}{{閉}} | *1952年4月 ――、一瀬幸三「南北虎狩り痛快談マレー満州」講談社『少年クラブ』v.39 n.5 pp.112-、{{NDLJP|1798709/58}}{{閉}} | ||
*1930年7月 ――、鈴木御水「南洋奇談 虎と虎の闘ひを見る」大日本雄弁会講談社『少年倶楽部』v.17 n.7 pp.100-、原版 {{NDLJP|1758572/80}}{{閉}} 復刻版 {{NDLJP|1764762/80}}{{閉}} | *1930年7月 ――、鈴木御水「南洋奇談 虎と虎の闘ひを見る」大日本雄弁会講談社『少年倶楽部』v.17 n.7 pp.100-、原版 {{NDLJP|1758572/80}}{{閉}} 復刻版 {{NDLJP|1764762/80}}{{閉}} | ||
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− | == | + | ==人物・評価== |
− | == | + | *{{Harvtxt|吉井|1927|p=84}}は、ゴム栽培が本業で、猛獣狩猟は本業ではなかったが、世間では反対の意味で有名になってしまった、としている。 |
− | * | + | *『南洋の50年』{{Harv|南洋及日本人社|1938|pp=618-624}}は、マレーの猛獣猟家の権威と紹介している。 |
+ | *{{Harvtxt|堀|1974|p=696}}は、その人となりは豪放、進取の気性に富んだ、としている。 | ||
+ | *{{Harvtxt|中野|1977|p=75}}は旧[[尾張藩]]出身で、マレーでゴム園を経営していた人物と紹介している。 | ||
+ | ==家族== | ||
+ | *妻・さだは、元[[清水徳川家]]・伯爵・[[徳川篤守]]の次女で、侯爵・[[蜂須賀茂昭]]の養女{{Sfn|堀|1974|p=698}}。 | ||
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+ | *娘・百合子は土屋氏へ嫁いだ{{Sfn|堀|1974|p=698}}。 | ||
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+ | ==吉井藩関係史料== | ||
+ | 吉井藩関係の古文書は、吉井の兄・信宝の子・信康や、吉井の娘・土屋百合子によって、[[吉井町郷土資料館]]に寄贈された{{Sfn|堀|1974|p=698}}。 | ||
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+ | 吉井の著書については、[[#著書]]を参照。 | ||
*{{Aya|中野|year=1977}} 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、{{JPNO|78013751}} | *{{Aya|中野|year=1977}} 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、{{JPNO|78013751}} | ||
+ | *{{Aya|堀|year=1974}} 堀一二三「虎狩の殿様」吉井町誌編さん委員会『吉井町誌』吉井町誌編さん委員会、{{NCID|BN02124622}}、pp.695-698 | ||
*{{Aya|南洋及日本人社|year=1938}} 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938年、{{NDLJP|1462610}} | *{{Aya|南洋及日本人社|year=1938}} 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938年、{{NDLJP|1462610}} | ||
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2021年2月20日 (土) 12:58時点における版
吉井 信照(よしい のぶてる)は、日本陸軍の軍人。吉井藩の藩主だった吉井家の第12代当主・吉井信謹の次男、子爵・吉井信宝の弟[1]。
学習院に学び、陸軍士官学校を卒業後、軍人となった[2]。東京市四谷区愛住町に住居があった[2](1913年頃、四谷左門町にあった、とも[3])。
日露戦争のとき、歩兵第2連隊附として乃木希典の軍勢に従軍し、旅順包囲戦に参加[2]。鉢巻山の戦いで中隊が全滅に至るまで力戦奮闘したとして乃木から感状を授けられ、金鵄勲章功4級に叙せられた[4]。
帰国後、長岡将軍・仙波将軍(歩兵第2旅団長)の副官に任命されたが、数年後、マレー半島のジョホール国に入り、ゴム園の開発を試みた[5]。
1913年7月頃、陸軍予備中尉として、ジョホール国でゴム栽培に従事しながら、四谷(左門町)の自邸に帰省していた[6][3]。この頃すでに、ゴム園経営の傍らで行っていた狩猟(猛獣狩り)のことが新聞等で報道され、話題となっていたという[3]。このときの吉井本人へのインタビューによると、ゴム園経営の方は、日本からジョホールのゴム園へ農夫を13人ほど連れて行ったが、1組の夫婦を除いて、他は全員10ヵ月あまりのうちに皆マラリヤに罹患して日本に帰国してしまい、10ヵ月といっても実働は30日から60日程度だった、という[3]。
- 旧藩領の(群馬県)吉井町からもゴム栽培に従事するためマレー半島へ渡航した人(ないし世帯)が5人(ないし世帯)ほどあったが、気候風土の相違やマラリヤのため日本に帰国するものもあり、かじ町の堀越粂蔵は帰郷後、マラリヤのため死去した[5]。
1915年頃、「内地の用向き」が済んだため、再びマレー半島へ渡航。ジョホール河沿岸の日本人が経営するゴム園の経営に関与し、ジョホール国王の許可を得て野象狩りをした[7]。
この間(時期不定で)、マレー半島、ジャワ、スマトラおよびボルネオ方面を旅行視察したり、象狩や虎狩をして、各方面での話題となった[8]。
1917年(大正6)12月、ジョホール州で創立された日南護謨株式会社の専務取締役となった[5]。
- 堀 (1974 696)によると、ゴム栽培事業は結局不成功に終わったという。
1921年(大正10)に徳川義親のマレー半島での狩猟旅行に同行した[9]。
第2次世界大戦中は、マライ軍政監部に属していたが、病気のため日本に帰国し、病没した[8]。
著書
- 1952年7月 吉井信照、古賀亜十夫「痛快実話 巨象を迫って」講談社『少年クラブ』v.39 n.8 pp.266-、NDLJP 1798714/136
- 1952年4月 ――、一瀬幸三「南北虎狩り痛快談マレー満州」講談社『少年クラブ』v.39 n.5 pp.112-、NDLJP 1798709/58
- 1930年7月 ――、鈴木御水「南洋奇談 虎と虎の闘ひを見る」大日本雄弁会講談社『少年倶楽部』v.17 n.7 pp.100-、原版 NDLJP 1758572/80 復刻版 NDLJP 1764762/80
- ― (1927) 1927年 ――「馬来半島秋の想出 虎に喰はれ損つた話」日本植民通信社『植民』v.6 n.9 pp.84-86、NDLJP 1480113/56
- 1919年 ――『馬来半島に於ける余の猛獣狩』泰盛社、NDLJP 960677
- ― (1915b) 1915年12月 ――「冒険実話馬来密林中の野象狩」日本飛行研究会『飛行少年』v.1 n.12 pp.45-50、NDLJP 1830322/41
- ― (1915a) 1915年6月 ――「痛絶快絶野象を追ふて密林中に奮戦す」日本飛行研究会『飛行少年』v.1 n.6 pp.43-47、NDLJP 1830316/36
- ― (1913b) 1913年7月 ――「南洋の猛獸狩」金丸銃砲店『銃猟界』v.9 n.7 pp.17-20、NDLJP 1508790/13
- ― (1913a) 1913年7月15日 ――(述)「南洋で成功するには暢気も必要」実業之世界社『実業の世界』v.10 n.14 pp.65-68、NDLJP 10292872/48
人物・評価
- 吉井 (1927 84)は、ゴム栽培が本業で、猛獣狩猟は本業ではなかったが、世間では反対の意味で有名になってしまった、としている。
- 『南洋の50年』(南洋及日本人社 1938 618-624)は、マレーの猛獣猟家の権威と紹介している。
- 堀 (1974 696)は、その人となりは豪放、進取の気性に富んだ、としている。
- 中野 (1977 75)は旧尾張藩出身で、マレーでゴム園を経営していた人物と紹介している。
家族
- 妻・さだは、元清水徳川家・伯爵・徳川篤守の次女で、侯爵・蜂須賀茂昭の養女[8]。
- 父・吉井信謹は、旧吉井藩主・吉井家の第12代当主[8]。
- 母・千枝子は、子爵・細川家から吉井家に嫁いだ[8]。
- 兄・吉井信宝は子爵、吉井家当主[8]。
- 娘・百合子は土屋氏へ嫁いだ[8]。
吉井藩関係史料
吉井藩関係の古文書は、吉井の兄・信宝の子・信康や、吉井の娘・土屋百合子によって、吉井町郷土資料館に寄贈された[8]。
付録
脚注
参考文献
吉井の著書については、#著書を参照。
- 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
- 堀 (1974) 堀一二三「虎狩の殿様」吉井町誌編さん委員会『吉井町誌』吉井町誌編さん委員会、NCID BN02124622、pp.695-698
- 南洋及日本人社 (1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938年、NDLJP 1462610
- 徳川 (1926) 徳川義親『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP 983300