「吉井信照」の版間の差分

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'''吉井 信照'''(よしい のぶてる)は、旧吉井藩(矢田藩)出身で、陸軍軍人、旅順攻防戦に参加し203高地を生き残っている。後に参謀本部に所属していた。退役後[[マレー半島|マレー]]でゴム園を経営していた人物{{Sfn|中野|1977|p=75}}。『南洋の50年』{{Sfn|南洋及日本人社|1938|pp=618-624}}に、マレーの猛獣猟家の権威として紹介されており、談話が掲載されている。1921年に[[徳川義親]]のマレー半島での狩猟旅行に同行した{{Sfn|徳川|1926}}。
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'''吉井 信照'''(よしい のぶてる)は、旧[[尾張藩]]出身で、[[マレー半島|マレー]]でゴム園を経営していた人物{{Sfn|中野|1977|p=75}}。『南洋の50年』{{Sfn|南洋及日本人社|1938|pp=618-624}}に、マレーの猛獣猟家の権威として紹介されており、談話が掲載されている。1921年に[[徳川義親]]のマレー半島での狩猟旅行に同行した{{Sfn|徳川|1926}}。
  
 
==著書==
 
==著書==

2020年10月18日 (日) 09:35時点における版

吉井 信照(よしい のぶてる)は、旧尾張藩出身で、マレーでゴム園を経営していた人物[1]。『南洋の50年』[2]に、マレーの猛獣猟家の権威として紹介されており、談話が掲載されている。1921年に徳川義親のマレー半島での狩猟旅行に同行した[3]

著書

  • 1952年7月 吉井信照、古賀亜十夫「痛快実話 巨象を迫って」講談社『少年クラブ』v.39 n.8 pp.266-、NDLJP 1798714/136 (閉)
  • 1952年4月 ――、一瀬幸三「南北虎狩り痛快談マレー満州」講談社『少年クラブ』v.39 n.5 pp.112-、NDLJP 1798709/58 (閉)
  • 1930年7月 ――、鈴木御水「南洋奇談 虎と虎の闘ひを見る」大日本雄弁会講談社『少年倶楽部』v.17 n.7 pp.100-、原版 NDLJP 1758572/80 (閉) 復刻版 NDLJP 1764762/80 (閉)
  • 1927年 「馬来半島秋の想出 虎に喰はれ損つた話」日本植民通信社『植民』v.6 n.9 pp.84-86、NDLJP 1480113/56 (閉)
  • 1919年 『馬来半島に於ける余の猛獣狩』泰盛社、NDLJP 960677
  • 1915年12月 「冒険実話馬来密林中の野象狩」日本飛行研究会『飛行少年』v.1 n.12 pp.45-、NDLJP 1830322/41 (閉)
  • 1915年6月 「痛絶快絶野象を追ふて密林中に奮戦す」日本飛行研究会『飛行少年』v.1 n.6 pp.43-、NDLJP 1830316/36 (閉)
  • 1913年7月 「南洋の猛獸狩」金丸銃砲店『銃猟界』v.9 n.7 pp.17-20、NDLJP 1508790/13 (閉)
  • 1913年7月15日 「南洋で成功するには暢気も必要」実業之世界社『実業の世界』v.10 n.14 pp.9243-9246、NDLJP 10292872/48 (閉)

付録

関連文献

  • 吉井町誌編纂委員会『吉井町誌 第2巻』吉井町、1979、NDLJP 9773137 (閉)

脚注

参考文献

  • 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
  • 南洋及日本人社 (1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938年、NDLJP 1462610
  • 徳川 (1926) 徳川義親『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP 983300