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{{日本の歴史|Mōko Shūrai Ekotoba 2.jpg|画像説明=蒙古襲来絵詞}} [[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|thumb|right|200px|伝・[[源頼朝]]肖像]] [[ファイル:Kamakura Budda Daibutsu front 1885.jpg|thumb|right|200px|[[鎌倉]]・[[高徳院]]の大仏]] '''鎌倉時代'''(かまくらじだい、[[1185年]]頃-[[1333年]])は、[[日本史]]で[[幕府]]が[[鎌倉]]に置かれていた時代を指す[[日本の歴史]]の時代区分の一つ。[[朝廷]]と並んで全国統治の中心となった[[鎌倉幕府]]が[[相模国]]鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。本格的な[[武家政権]]による統治が開始した時代である。 始期については諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力視されている。(詳細→[[鎌倉幕府#概要]]を参照) == 概要 == [[12世紀]]末に、[[源頼朝]]が[[鎌倉殿]]として武士の頂点に立ち、全国に[[守護]]を置いて、[[鎌倉幕府]]を開いた。[[京都]]の[[朝廷]]と地方の[[荘園]]・[[公領]]はそのままで、地方支配に[[地頭]]等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。 [[幕府]]は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、当時の制度上では公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の[[知行国]]および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、全国の武士を支配下に治めたわけではない。[[平氏政権]]が[[朝廷]]に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。しかし、元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、事実上全国を支配することとなった。 鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は「[[問注所]]」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。 [[源頼朝]]の死後、将軍の輔弼制度として[[北条氏|北条家]]による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても[[鎌倉幕府]]体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして[[御成敗式目]]という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。 [[後鳥羽上皇]]らが幕府討伐のため起こした[[承久の乱]]は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得、東国に偏重していた幕府の支配が西国にも及ぶようになる。 経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な[[鎌倉文化]]が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、[[仏教]]や[[美術]]も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な[[市場|市]]が立つようになった。 [[13世紀]]には、[[1274年]]の[[文永の役]]と[[1281年]]の[[弘安の役]]の二度にわたる[[元寇]]があったが、[[元 (王朝)|元]]の侵攻を阻止した。これにより「日本は神国」との意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い全くの外国が相手であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した[[武士]]([[御家人]])への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった[[幕府]]と[[御家人]]との信頼関係を損ねる結果となる。 元寇を機に幕府は非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、[[鎮西探題]]や[[長門探題]]などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。しかし、西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする北条氏嫡流家である[[得宗]]家が御家人を排除し、被官である[[御内人]]を重用するようになった。[[御家人]]の心は次第に[[幕府]]から離れていくようになり、[[御家人]]達武士全体の不満がくすぶる結果となった。後に鎌倉幕府が崩壊する一つの要因となったとも言える。 また、承久の乱以後の朝廷の衰退は[[皇位継承]]を巡る自己解決能力をも失わせ、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は[[両統迭立]]原則によって[[大覚寺統]]・[[持明院統]]両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の[[後醍醐天皇]]子孫への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇がこれを支持する[[公家]]と幕府に不満を抱く武士達の連携の動きが現われるのを見てクーデターを起こし、討幕運動へと発展する事になった。 == 年表 == #[[守護]][[地頭]]の設置([[1185年]]) #[[奥州合戦]](1189年) #源頼朝、征夷大将軍任命([[1192年]]) #頼朝の死、[[源頼家|頼家]]が家督を継ぐ([[1199年]]) #[[十三人の合議制]] #[[梶原景時の変]]([[1200年]]) #[[建仁の乱]]([[1201年]]) #[[比企能員の変]]([[1203年]]) #[[源実朝]]、将軍に就任 #頼家、[[北条氏]]に暗殺される([[1204年]]) #[[畠山重忠の乱]]([[1205年]]) #[[牧氏事件]] #[[和田合戦]]([[1213年]]) #実朝、[[公暁]]に暗殺される([[1219年]]) #[[承久の乱]]([[1221年]]) #[[六波羅探題]]の設置 #[[大田文]]の作成 #[[連署]]の設置([[1225年]]) #[[評定衆]]の設置([[1225年]]) #[[九条頼経]]が将軍に就任(1226年) #[[御成敗式目]]の制定([[1232年]]) #[[宮騒動]]([[1246年]]) #[[宝治合戦]]([[1247年]]) #[[引付衆]]の設置([[1249年]]) #[[宗尊親王]]が将軍に就任(1252年) #[[二月騒動]]([[1272年]]) #[[文永の役]](1274年) #[[弘安の役]](1281年) #[[霜月騒動]]([[1285年]]) #[[鎌倉大地震]]及び地震の混乱に乗じた[[平禅門の乱]]([[1293年]]) #[[永仁の徳政令]]([[1297年]]) #[[嘉元の乱]]([[1305年]]) #[[文保の和談]]/[[両統迭立]]([[1317年]]) #[[正中の変]]([[1324年]]) #[[嘉暦の騒動]]([[1326年]]) #[[元弘の変]]([[1331年]]) #鎌倉幕府滅亡([[1333年]]) == 鎌倉時代の政治 == 鎌倉時代は[[武士]]が政権を獲得した時代と一般には認識されている。しかし、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、[[朝廷]]や[[公家]]、[[寺社]]の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から[[承久の乱]]を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。 鎌倉幕府は当初、'''将軍'''(実際には「'''鎌倉殿'''」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。しかし[[源氏]]([[河内源氏]]の[[源頼朝]]系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は[[公家]]([[摂家将軍]])、後には[[皇族]]([[宮将軍|皇族将軍]])を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、[[十三人の合議制]]へ移る。さらに[[和田合戦]]、[[宝治合戦]]、[[平禅門の乱]]などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除し、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である[[北条政子]]を経て、[[執権]]であった[[北条氏]]へ移っていった。更に執権[[北条時頼]]が執権引退後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家([[得宗]]家)に集中するようになり、執権在職者が必ずしも幕府最高権力者というわけではなくなった。[[宮騒動]]、[[二月騒動]]などで得宗家に反抗する名越北条家などは排除された。北条氏の功績としては[[御成敗式目]]の制定が挙げられる。これは今までの[[公家法]]からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。しかし、先の北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である[[御内人]]が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。 執権[[北条時宗]]の代に2度に渡る[[元寇]]があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。また、[[貨幣経済]]が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、[[凡下]]と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。[[1284年]]に弘安の徳政、さらに[[1297年]]に[[永仁の徳政令]]を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。[[後醍醐天皇]]による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。 === 幕府 === {{See|鎌倉幕府}} === 歴代将軍 === {{See|鎌倉将軍一覧}} === 歴代執権 === {{See|鎌倉幕府の執権一覧}} == 鎌倉時代の経済と社会 == === [[守護]]・[[地頭]] === 1185年に、[[源頼朝]]は[[大江広元]]の献策を容れて弟の[[源義経]]の追討を目的に全国に守護・地頭を設置する。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など[[大犯三ヶ条]]や国内の御家人の統率が役割の役職。地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割であった。鎌倉幕府の権威を背景に荘園を侵略し、豊作凶作にかかわり無く一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる[[地頭請]]や、荘園を地頭分と領家分に強引にわける[[下地中分]]など、一部で横暴も多くあった。 === 惣領制 === === 商工業 === *貨幣経済([[宋銭]]・[[元銭]]の輸入) *[[為替]] *[[借上]]/[[土倉]] *[[頼母子]] *[[三斎市]] *[[振売]] *[[見世棚]] *[[座]]の形成 *職人([[鍛冶]]、[[鋳物師]]、[[紺屋]]、[[番匠]]) === 農業 === (*室町時代とは区別がはっきりしていない) *[[名田]] *[[二毛作]]:米の裏作に麦を(畿内や西国) *早稲・中稲・晩稲:品種改良 *[[刈敷]]・草木灰・下肥;肥料の使用 *[[牛馬耕]]:牛馬に犂を引かせる *[[水車]]:田への揚水 *商品作物:[[楮]]/[[荏胡麻]]/[[藍]]/[[桑]]/[[茶]]など === 交通 === *[[鎌倉街道]] *[[東海道]](京〜鎌倉)の整備 *[[霞ノ関]] *[[問丸]] *[[馬借]] == 対外関係 == *[[元寇]] *[[日宋貿易]] *[[日元貿易]] *[[寺社造営料唐船]] *[[倭寇]] == 鎌倉時代の文化 == 鎌倉文化の特徴としては、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗し、文化の二元性が出てきたところにある。 作風は、一般に素朴で質実、写実的と言われる。中国(宋・元)からの禅文化の影響も色濃い。 === 文学 === ==== 歌集 ==== *[[勅撰集]] **[[新古今和歌集]] *私家集 **[[金槐和歌集]] **[[山家集]] ==== 随筆 ==== *[[徒然草]] *[[方丈記]] ==== 日記・紀行文学 ==== *[[玉葉]] *[[海道記]]、[[東関紀行]] *[[十六夜日記]] ==== 軍記物語 ==== *[[平家物語]] *[[保元物語]] *[[平治物語]] *[[源平盛衰記]] ==== 説話集 ==== *[[宇治拾遺物語]] *[[十訓抄]] *[[古今著聞集]] ==== 仏教説話集 ==== *[[沙石集]] *[[宝物集]] *[[発心集]] ==== 歴史書 ==== *[[今鏡]] *[[水鏡]] *[[愚管抄]] *[[吾妻鏡]] *[[元亨釈書]] *[[百練抄]] === 宗教 === ==== 仏教の革新運動 ==== {{see also|鎌倉仏教}} [[平安時代]]までの難解で、大衆への布教が禁じられていた仏教を変革する運動として[[鎌倉仏教|鎌倉新仏教]]の宗派が興隆し、[[奈良|南都]]仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。大きな特徴は、[[平安時代]]までの[[鎮護国家]]から離れた大衆の救済への志向であり、国家から自立した活動が行われた。 これは[[保元の乱]]、[[平治の乱]]から[[治承寿永の乱]]と続く、戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためである。また、仏教の一般大衆化も推進された。 平安時代を通じて鎮護国家を担う山門(比叡山[[延暦寺]])勢力は教義の教えや体系的な学問に励む一方、加持祈祷や[[僧兵]]の武力を通じて、政治権力を持つようになった。その一方で、[[円仁]]が比叡山に伝えた念仏三昧法から[[源信 (僧侶)|源信]]の天台浄土教、[[良忍]]の[[融通念仏宗]]など浄土教の興隆があった。また、[[天台宗]]はすべての衆生は成仏できるという法華[[一乗]]の立場を取っていた。鎌倉新仏教の開祖たち([[一遍]]を除く)は比叡山に学んでおり、比叡山は一切衆生の救済を説く鎌倉新仏教を生む母胎であった。 ;鎌倉新仏教 浄土信仰 *[[浄土宗]]([[法然]]) *[[浄土真宗]]([[親鸞]]) *[[時宗]]([[一遍]]) [[禅宗]] *[[臨済宗]]([[栄西]]) *[[曹洞宗]]([[道元]]) [[法華経]] *[[日蓮宗]]([[日蓮]]) *[[日蓮正宗]]他富士門流([[日興]]) ;南都仏教復興運動 *[[法相宗]]([[貞慶]]) *[[華厳宗]]([[明恵]]) *[[律宗]]([[俊じょう|俊芿]]、[[叡尊]]、[[忍性]]) 新仏教の台頭に対抗して、旧仏教の側は念仏批判をし、[[戒律]]を重んじて、腐敗している旧仏教内部の革新を進めた。また、一切衆生の救済を強く志向し、[[ハンセン病]]救済事業や、[[非人]]救済、橋の架橋を行うなど社会事業を熱心に進めた。 ;来日した禅僧 *[[蘭渓道隆]] *[[無学祖元]] *[[一山一寧]] [[元 (王朝)|元]]の侵攻による[[南宋]]の圧迫と滅亡から、禅宗の知識人が日本に渡ってくることがあった。いずれも幕府の指導者に影響を与えた。 ==== 反本地垂迹説 ==== [[元寇]]の勝利によって民族的自覚が強まり、日本は神国であるという「神国思想」が発生し、神本仏従の習合思想が成立。 *[[伊勢神道]] **[[度会家行]] === 彫刻 === *[[運慶]] *[[快慶]] *[[康弁]] === 建築 === *大仏様 - [[東大寺]]南大門 *禅宗様 - [[円覚寺]]舎利殿 *和様 - 蓮華王院本堂([[三十三間堂]]) *折衷様 - [[観心寺]]金堂 === 絵画 === *縁起絵 **[[融通念仏縁起絵巻]] **[[春日権現験記]] **[[北野天神縁起絵巻]] **[[石山寺縁起絵巻]] *伝記絵 **[[法然上人絵伝]] **[[一遍上人絵伝]] *合戦絵/物語絵 **[[平治物語絵巻]] **[[蒙古襲来絵詞]] **[[男衾三郎絵巻]] *[[似絵]] **[[神護寺三像]](伝源頼朝像など) **[[後鳥羽上皇像]] **[[公家列影図]] *頂相 **[[聖一国師像]] === 書道 === *[[青蓮院流]] === 工芸 === *刀剣 **[[粟田口吉光]] **[[正宗]] **[[長船長光]] *武具 **[[明珍]]一派 *陶器 **[[瀬戸焼]] == 人物 == *[[鎌倉時代の人物一覧]] *[[鎌倉将軍一覧]] *[[鎌倉幕府の執権一覧]] *鎌倉幕府[[連署]]・[[引付頭人]]一覧 *[[六波羅探題]]・[[鎮西探題]]の一覧 == 関連項目 == {{Commons|Category:Kamakura period}} * [[日本の歴史]] * [[日本史時代区分表]] * [[鎌倉幕府]] == 外部リンク == *[http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/index.html 鎌倉時代の勉強をしよう(玉川学園のサイト)] == 出典 == * [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』] {{鎌倉幕府将軍}} {{鎌倉幕府執権}} {{日本の歴史一覧|1185年-1333年}} {{DEFAULTSORT:かまくらしたい}} {{Japanese-history-stub}} [[Category:日本の歴史|*1185]] [[Category:鎌倉時代|*]] [[ar:فترة كاماكورا]] [[cs:Období Kamakura]] [[de:Kamakura-Zeit]] [[en:Kamakura period]] [[eo:Kamakura-epoko]] [[es:Período Kamakura]] [[eu:Kamakura garaia]] [[fi:Kamakura-kausi]] [[fr:Époque de Kamakura]] [[gl:Período Kamakura]] [[he:תקופת קאמאקורה]] [[id:Zaman Kamakura]] [[it:Periodo Kamakura]] [[ko:가마쿠라 시대]] [[lt:Kamakura laikotarpis]] [[nl:Kamakuraperiode]] [[no:Kamakuraperioden]] [[pt:Período Kamakura]] [[ru:Период Камакура]] [[sk:Obdobie Kamakura]] [[sr:Камакура период]] [[sv:Kamakura]] [[th:ยุคคะมะกุระ]] [[uk:Період Камакура]] [[vi:Thời kỳ Kamakura]] [[zh:鎌倉時代]] [[zh-yue:鎌倉時代]]