「東久邇宮稔彦王」の版間の差分
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2020年1月8日 (水) 04:09時点における版
{{日本の内閣総理大臣|[[東久邇宮内閣|43]] |東久邇宮稔彦王<br/>(ひがしくにのみや なるひこおう) [[Image:HIH Prince Naruhiko of Higashikuni.jpg|180px|東久邇宮稔彦王]] |[[1887年]]([[明治20年]])[[12月3日]] |[[京都府]] |[[陸軍大学校]] |[[陸軍大将]]<br/>[[従二位]][[大勲位]][[功一級]] |<!--[[陸軍]]近衛歩兵第三連隊[[連隊長]]<br/>[[陸軍]]歩兵第五旅団[[旅団長]]<br/>[[陸軍]][[第2師団 (日本軍)|第二師団]][[師団長]]<br/>[[陸軍]][[第4師団 (日本軍)|第四師団]][[師団長]]<br/>[[陸軍]]航空本部[[本部長]]<br/>[[陸軍]]第二軍[[司令]]<br/>[[陸軍]]防衛総司令官<br/>直前の職のみ表記-->[[軍事参議官]](兼任) |無し([[皇族]]) |[[1945年]]([[昭和20年]])[[8月17日]]|1945年(昭和20年)[[10月9日]] |[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員([[貴族院 (日本)#皇族議員|皇族議員]])| |[[挙国一致内閣|中間内閣]] |[[1990年]][[1月20日]]}} '''東久邇宮稔彦王'''(ひがしくにのみや なるひこおう、[[1887年]]([[明治]]20年)[[12月3日]] - [[1990年]]([[平成]]2年)[[1月20日]])は、[[日本]]の第43代[[内閣総理大臣]](在任:[[1945年]][[8月17日]]-1945年[[10月9日]])。元[[皇族]]。[[陸軍]][[軍人]]。[[皇族]]で唯一の、かつ戦後初の[[内閣総理大臣]]。[[階級]]は[[陸軍大将]]。[[位階]]は[[従二位]]、[[勲等]][[金鵄勲章|功級]]は[[菊花章|大勲位]]功一級。 [[第二次世界大戦]]後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の強行的な改革方針についていけず、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。 == 来歴 == === 戦前 === [[久邇宮朝彦親王]]の九男として[[1887年]](明治20年)に誕生。[[1906年]](明治39年)に[[東久邇宮]]の宮号を賜り一家を立てた。[[内親王]]の降嫁先確保のための特例措置であった。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に入り、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]・[[陸軍大学校]]を卒業。[[1915年]](大正4年)に予定どおり[[明治天皇]]の第9皇女[[稔彦王妃聡子内親王|泰宮聡子(としこ)内親王]]と結婚。[[1920年]](大正9年)に[[フランス]]に留学し、フランス陸軍大学を卒業。卒業後も[[パリ]]での[[愛人]]との生活に耽溺し、たびたびの帰国命令を拒み続けた。結局、[[大正天皇]]の[[崩御]]と[[大葬]]を契機に、おりから[[ロンドン]]に留学中だった[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]が[[パリ]]に乗り込んで直談判し、ようやく帰国させた。帰国した時には[[皇族]]のなかでも[[自由主義]]者として知られるようになっていた。 [[Image:HIH Prince Higashikuni Naruhiko.jpg|thumb|東久邇宮稔彦王]] その後、[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]長・[[第4師団 (日本軍)|第四師団]]長・[[陸軍航空本部]]長を歴任。[[日中戦争]]では[[第2軍 (日本軍)|第二軍]][[司令官]]として[[華北]]に駐留する。[[太平洋戦争]]時は[[防衛総司令部|防衛総司令官]]・[[陸軍大将]]であった。日米開戦直前の[[1941年]](昭和16年)、[[第3次近衛内閣]]総辞職を受け、後継[[内閣総理大臣|首相]]に名が挙がる。[[皇族]]を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、[[皇室]]に累を及ぼさぬようにということで[[木戸幸一]][[内大臣]]の反対によりこの構想は潰れた。戦局が不利になると和平を唱え、[[東條英機]]に反対する立場に回った。 留学の経験から欧米と[[日本]]の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていた[[アジア]]の技術力の向上を目指して興亜工業大学([[1942年]](昭和17年)設置、のち[[千葉工業大学]])等の教育機関の創設に携わった。特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。 === 戦後 === [[1945年]](昭和20年)[[8月17日]]、戦後最初の首相となり[[東久邇宮内閣]]を組閣。現役の[[陸軍大将]]として陸軍大臣を兼務した。降伏文書の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。 これに対して、[[10月4日]]GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職した。 [[1947年]](昭和22年)[[10月14日]]、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして[[臣籍降下|皇籍を離脱]]し、以後は'''東久邇稔彦'''(ひがしくに なるひこ)と名乗った。その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に[[新宿]]に[[闇市]]の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後[[喫茶店]]の営業や宮家所蔵の[[骨董品]]の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。 1950年(昭和25年)4月15日に[[禅宗]]系の[[新宗教]]団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元[[皇族]]が宗教団体を興すことには問題があるとして[[法務府]]から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、[[東京都]]からも[[宗教法人]]として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。 1960年(昭和35年)、[[安保闘争|六十年安保闘争]]をめぐる騒動で、[[石橋湛山]]、[[片山哲]]とともに三元首相の連名で時の首相・[[岸信介]]に退陣を勧告。 1964年(昭和39年)4月29日、[[賞杯|菊紋の銀杯一組]]を賜る。 1971年(昭和46年)には[[桟勝正]]が創設した[[日本文化振興会]]の初代総裁になる<!--(桟勝正は初代理事長)-->。 晩年には「東久邇紫香」と名乗る女性([[増田きぬ]])に戸籍を乗っ取られる騒動が起きている。 1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。<!--これにより、生年月日の記録のある世界の首相経験者としては最も長命かつ100歳を超えて他界した人物(後者は2人おり、もう1人は[[オランダ]]の[[ヴィレム・ドレース]]([[:en:Willem Drees]]、1886年7月5日 - 1988年5月14日))であるとして[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]にもその名が掲載されている。同時に記録の確かな日本の[[皇族]]では最高齢の記録である。没後、--><!--不要なトリビア-->特例として[[豊島岡墓地]]に葬られる。 <!-- 世界連邦建設同盟(現、[[世界連邦運動]]協会)会長を務めた。--> == 内閣総理大臣 == [[Image:Cabinet of Prince Higashikuni Naruhiko.jpg|thumb|東久邇宮稔彦王(最前列)と内閣の閣僚]] 日本が[[ポツダム宣言]]を受諾することを[[昭和天皇]]が国民に伝えた翌々日の[[1945年]][[8月17日]]、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもある東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。 副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった[[近衛文麿]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]には[[重光葵]]、[[大蔵大臣]]には[[津島寿一]]が任命された。また[[海軍大臣]]には[[米内光政]]元首相がみたび就任した。[[陸軍大臣]]は任命が内定していた[[下村定]]陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日-23日)東久邇宮が兼任した。 新聞表記では、[[皇族]]出身の首相を「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)<ref>宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣 稔彦王」と表記されていた。<!--同様の例として、[[閑院宮載仁親王]]が[[参謀総長]]在任中に「閑院参謀総長宮」、[[伏見宮博恭王]]が[[軍令部総長]]在任中に「伏見軍令部総長宮」と呼ばれたケースがある。--><!--不要なトリビア--></ref>」と記した。 日本の降伏が告知されたものの依然として陸海軍は内外に展開しており、[[東久邇宮内閣]]の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を[[勅使]]として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。 在任中の東久邇宮の発言として特に有名なものは、9月5日に国会で行われた施政方針演説の以下のくだりである。 {{quotation|敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります}} このいわゆる「'''一億総懺悔論'''」が東久邇宮首相の主要な政治理念とみなされた。ある意味では国家首脳部の戦争責任を曖昧にする論理と言える。すでに敗戦直前の時期に内務省情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない。」との通達がなされた。また、敗戦後、各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを防ぐため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。 一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを使い「一億総懺悔論」の伸張を抑え<ref>朝日新聞(夕刊)「新聞と戦争」欄の「写真を処分せよ」シリーズ、特に2007年6月26日付の第8回。</ref>、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく[[極東国際軍事裁判]]の準備にとりかかっている。 首相は、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら[[内務省 (日本)|内務省]]の反対により政治犯釈放は実現せず、その民主化を阻害する姿勢に対し、GHQから[[1945年]][[10月4日]]に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、[[治安維持法]]・[[特別高等警察]]等の廃止、政治犯・思想犯の釈放、自由化・民主化に抵抗する内務省幹部の更迭などを命じられた。[[内務大臣 (日本)|内務大臣]][[山崎巌]]は治安維持法なしでは治安維持に責任が持てないとして辞意を表明し、首相もこれを支持するかたちで内閣は翌日総辞職した。 === 評価 === 総理在任期間は54日と最短であるものの、<!--[[玉音放送]]の時点では戦争継続を唱える軍人も少なくなかったり([[宮城事件]]参照)、異母兄の[[梨本宮守正王]]が戦犯容疑で逮捕収監されるという非常に困難な時期に総理となったわけで、--><!-- ??? -->終戦直後の混乱に満ちたこの一時期は、稔彦王以外の者が首相だったらあれほど穏かにはいかなかった可能性も十分にあった<!--からこそ東久邇宮稔彦首相でなければこの急場を凌げなかったとも言われる--><!--「急場を凌ぐ」= 間に合わせのものでその場をとりつくろうこと-->。十数日で国内を「降伏」で統一し、上陸してきたGHQに誰も危害を加えないようにし、速やかに日本の武装を解除したことは大きな事績と<!--して評価でき-->いえる。 一億総懺悔論に見られる東久邇宮の考え方は、過去の政治指導者こそが責任を負うべきとの重光外相の考え方とは対照的であった。重光はこうした意見の相違が理由のひとつとなって辞任している。<!-- また、GHQもこの論理を封殺することを選んだ。この理論が大義名分や勝算の欠けた戦争の開始と必然的な敗北、その結果として日本だけでなく交戦諸国の国民が受けた巨大な惨禍についてその責任の所在をうやむやにし、現在までの日本政府の戦争責任否定論に繋がっている、とする指摘も多い。--> == 家族 == * 父:[[久邇宮朝彦親王]] * 母:寺尾宇多子 * 兄弟:男子 - [[賀陽宮邦憲王|邦憲王]] - [[久邇宮邦彦王|邦彦王]] - [[梨本宮守正王|守正王]] - [[多嘉王]] -[[暢王]] - [[朝香宮鳩彦王|鳩彦王]] - '''稔彦王''' * 兄弟:女子:-- 智當宮 - 栄子女王 - 安喜子女王 - 飛呂子女王 - 絢子女王 - 素子女王 - 懐子女王 - 篶子女王 - 純子女王 * 妻:[[東久邇聡子|聰子内親王]] * 子: ** [[盛厚王]](1917年 - 69年) ** [[師正王]](1918年 - 23年) ** [[粟田彰常|彰常王]](1920年 - 2006年) - 1940年10月25日、臣籍降下し粟田侯爵となった。 ** [[多羅間俊彦|俊彦王]](1929年 - ) - 1947年、多羅間キヌの養子となりブラジルに移住。 <!-- == その他 == 「ひがしくに教」は解散したはずであるが、なぜか近年になって宗教法人として復活している。 [[埼玉県]][[さいたま市]][[岩槻区]]上野にある「龍海寺」という寺院が「創立者:東久邇宮稔彦」「開祖:小原龍海」として運営されているが、どのような繋がりがあるのかは不明である。--><!--稔彦王本人とは無関係な内容--> == エピソード == *[[学習院]]初等科の同期生に、[[有栖川宮]][[栽仁王]]、[[北白川宮]][[成久王]]、[[北白川宮]]輝久王(のちに臣籍降下し[[侯爵]][[小松輝久]])、[[朝香宮]][[鳩彦王]]がいた。また、のちの小説家[[里見弴]]もいて親友となる。 *陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ[[小説家]][[山中峯太郎]]が一級上にいて、その影響から[[内田魯庵]]訳の[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[復活 (小説)|復活]]』を読んで物議をかもした。これが[[明治天皇]]の耳に達したため一時は臣籍降下まで検討された。 *[[陸軍大学校]]在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、[[下痢]]を理由にこれを断り、[[皇太子]][[嘉仁親王]](のちの[[大正天皇]])に叱責された。そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。 *フランス留学前に[[自動車]]の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。[[北白川宮成久王]]は滞仏中に運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と<!--のことで-->一緒にドライブに行ったが、成久王の腕前が怪しかったので「あなたはまだ危ないからおやめなさい。よほど安全な広い通りならいいが、お気をつけになった方がいい」と忠告した。しかし成久王は聞き入れず、1923年4月1日には「[[ノルマンディー]]海岸の避暑地[[ドーヴィル]]まで泊りがけでドライブに行かないか」とまた誘いを受けた。稔彦王はここでも「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい」と忠告したうえで、[[イギリス]]に行く約束があることを理由にこれを断っ<!--て[[ロンドン]]に向かっ-->た。<!--そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の[[朝香宮鳩彦王]]に変え、同日朝に妃の[[成久王妃房子内親王|房子内親王]]やフランス人の運転手等と共にドライブに出発した。途中で鳩彦王を拾い[[エヴルー]]で昼食をとったあと、成久王がハンドルを握った。ペリエ・ラ・カンパーニュの村から遠くない地点で前の車を追い抜こうとした際に、スピードの出し過ぎで車は大きく横に滑って道路を飛び出し、-->果たしてこの日、成久王が運転する車は路傍の<!--[[アカシア]]の-->大木に衝突。この事故で成久王と助手席のフランス人運転手は即死した<!--、房子内親王と鳩彦王は重傷を負った-->。訃報を受けた稔彦王は<!--、滞在中のロンドンのホテルで通信社からの連絡でこの事故を知り、-->翌日フランスへ戻り、現地で成久王の遺体と対面した。<!--事故の詳述はここではなく「成久王」の記事にあるべき--> *フランス留学中に、画家の[[モネ]]について絵筆をとった。モネに親友の[[ジョルジュ・クレマンソー]]を紹介され親交を深めた。[[フィリップ・ペタン]]元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(''[[オレンジ計画]]も参照'')」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争不可避論を説いて回ったが、[[西園寺公望]]以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。日米交渉も大詰めを迎えた昭和16年12月、稔彦王は[[東條英機]][[陸軍大臣]]にこのクレマンソーの忠言を披露した。東條も「坐して亡国になるよりは、戦うほかない」とこれに同調。<!--聞き入れなかった--><!--自己矛盾-->日本が米国と開戦したのはそれから間もなくのことだった。<code>(一部をコメントアウト・文章の一部に矛盾が見られる)</code> **'''補足''':とは言っても、実際には「いつの日か欧米世界と日本が衝突することは避けられない、それは時間の問題だ」と欧米・日本の多くの[[知識人]]や[[軍人]]、[[政治家]]は見ていた。そもそも近代日本の原点は[[明治維新]]であり、それは[[攘夷運動]](欧米世界からの避植民地運動)から生まれた思想である。それを達成するために[[近代化]]、[[富国強兵]](欧米の技術・社会システムの導入)が行われ日本の[[政治]]・[[産業]]・[[教育]]などの各方面が整備されていった。そして、東洋人である日本が[[白人至上主義|白人秩序で回る世界]]で、無視できない力を持てば当然のこと殊に警戒・敵視されるようになる。それが顕著に見られはじめるのが[[日露戦争]]後の世界であり、その状況を見越した人物として有名なのが[[石原莞爾]]([[世界最終戦論#最終戦争]])である(日本の近代外交史・[http://www.youtube.com/watch?v=6gADOasBtt4 1]・[http://www.youtube.com/watch?v=NjkKUBM8uVo&feature=related 2]・[http://www.youtube.com/watch?v=V6DbWoqtcRg&feature=fvw 3]・[http://www.youtube.com/watch?v=VuLWH43DuU0&feature=related 4]・[http://www.youtube.com/watch?v=HQvoGS4bBnE&feature=related 5]・[http://www.youtube.com/watch?v=5OLoMBDQ2Mc&feature=related 6]・[http://www.youtube.com/watch?v=OofXM2mf0yA&feature=related 7])。 *[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]の初代使用人であった。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *東久邇稔彦 『東久邇日記 日本激動期の秘録』[[徳間書店]], 1968 **東久邇稔彦 『一皇族の戦争日記』日本週報社, 1957 **東久邇稔彦 『やんちゃ孤独』 [[読売新聞]]社, 1955 **東久迩宮稔彦 『私の記録』 東方書房, 1947 *[[長谷川峻]]著 『東久邇政権・五十日 終戦内閣』行研出版局,1987 *[[外務省]]編 『終戦史録』解説[[江藤淳]] 全6巻 北洋社 1978 *外務省編 『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録』(上中下)山手書房新社,1990 *江藤淳編 『占領史録』 [[波多野澄雄]]解題 [[講談社]]全4巻, 1982 :[[講談社学術文庫]]全4巻, 1989、新版同文庫全2巻, 1995 *江藤淳インタビュー集 『もう一つの戦後史』講談社、1978年 *佐藤元英、黒沢文貴編 『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料』上.下 <明治百年史叢書> [[原書房]] 2002 *林茂・辻清明編 『日本内閣史録.5』第一法規 ,1981 *鈴木九萬一監修 『日本外交史.26』 [[鹿島出版会|鹿島研究所出版会]],1973 *荒敬編 『日本占領・外交関係資料集 第1巻』 [[柏書房]],1991 *広岡裕児 『皇族』 [[読売新聞社]], 1998 ISBN 4643980745、[[中公文庫]], 2002 ISBN 4122039606 *[[鹿島茂]]編 『宮家の時代』 ISBN 4-02-250226-6 [[朝日新聞]]社, 2006 *[[大久保利謙]]監修 社団法人[[霞会館]]後援 『日本の肖像 第12巻 旧皇族 閑院家 東久邇家 梨本家』 [[毎日新聞]]社, 1991 == 関連項目 == * [[東久邇宮]] * [[東久邇宮内閣]] * [[勝海舟]] == 外部リンク == * 第88回帝國議会(臨時会)[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pm/19450905.SWJ.html 戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説](1945年9月5日) * [http://miyake.yaekumo.com/Higashikuni.html 東久邇宮家御家族の写真アルバム] {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代=[[東久邇内閣|43]] |在任期間=1945年 |前代=42 |前首相名=鈴木貫太郎 |次代=44 |次首相名=幣原喜重郎}} {{先代次代|[[陸軍大臣]]|第34代:1945年(兼任)|[[阿南惟幾]]|[[下村定]]}} {{先代次代|[[東久邇宮]]|初代|-|(皇籍離脱)}} {{陸軍大臣}} {{DEFAULTSORT:ひかしくにのみや なるひこおう}} [[Category:日本の皇族]] [[Category:日本の内閣総理大臣]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:日本の陸軍軍人]] [[Category:貴族院皇族議員]] [[Category:1887年生]] [[Category:1990年没]]