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『'''仁義なき戦い'''』(じんぎなきたたかい)は、[[戦後]]の[[広島市|広島]]で実際に起こった[[広島抗争]]を題材として、[[飯干晃一]]が著したモデル小説。また、この小説をもとに東映で作られた映画。
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<nowiki>『'''仁義なき戦い'''』(じんぎなきたたかい)は、[[戦後]]の[[広島市|広島]]で実際に起こった[[広島抗争]]を題材として、[[飯干晃一]]が著したモデル小説。また、この小説をもとに東映で作られた映画。
  
 
映画は好評を博し、シリーズ化された。また、[[東映実録路線]]の先駆けとなった作品でもあり、代表作でもある。
 
映画は好評を博し、シリーズ化された。また、[[東映実録路線]]の先駆けとなった作品でもあり、代表作でもある。

2020年1月8日 (水) 04:03時点における版

『'''仁義なき戦い'''』(じんぎなきたたかい)は、[[戦後]]の[[広島市|広島]]で実際に起こった[[広島抗争]]を題材として、[[飯干晃一]]が著したモデル小説。また、この小説をもとに東映で作られた映画。 映画は好評を博し、シリーズ化された。また、[[東映実録路線]]の先駆けとなった作品でもあり、代表作でもある。 「[[キネマ旬報]]」は[[2009年]](平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」に於いて、本作を'''歴代第5位'''に選出した。(詳述→[[仁義なき戦い#映画の評価|映画の評価]]) == 小説 == 主人公である[[美能幸三]]が獄中で書き綴った手記がベース。小説では団体・人名・地名も全て実名(映画本編では実名をもじった名前に変えられる)で記述された。[[1972年]](昭和47年)に[[週刊サンケイ]](現・[[SPA!]])で連載。 == 手記 == [[飯干晃一]]の小説より先となる獄中手記を[[美能幸三]]が執筆した原動力は、[[1965年]](昭和40年)に[[中国新聞]]報道部記者である[[今中瓦]]が『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』四月号に執筆した「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録" 」という記事への反論からであった。 [[網走刑務所]]で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、読むと10日間メシが食えない程腹が立った。ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで書かれている。"美能が他の組幹部の意向を無視して[[山口組]]と勝手に盃を交わした"、"破門された美能が山口組と[[打越会]]に助けを求めた"という記述など。特に美能は "打越会に助けを求めた"という部分にプライドを傷つけられた。「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミに対する怨念を込め、7年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた。手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。このため廻りまわって[[週刊サンケイ]](現・[[SPA!]])から連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載すること" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名でなければ断る」と頑なであったという。 なお前記、中国新聞の記事は、[[広島抗争]]時に中国新聞が「暴力追放キャンペーン」と銘打ち、ペンの力で暴力団に立ち向かった成果を『[[ある勇気の記録]]』(1965年、[[青春出版社]]、1994年、現代教養文庫:[[社会思想社]])として出版。これは[[1965年]](昭和40年)の[[菊池寛賞]]を受賞、また同名タイトルで[[テレビドラマ]]([[テレビ朝日|NET]]、1966年10月~1967年1月)にもなり、これを見て[[ジャーナリスト]]を志した者も多い([[池上彰]]等)と言われる名作だが、今日『仁義なき戦い』の原作・映画に比べると比較にならないほど知名度が低い。また『仁義なき戦い』の映画化にあたり「[[ある勇気の記録]]」のテレビ化と同様に、暴力団追放のキャンペーンにもなると考えていた広島県警が当初、協力をしてくれたという話がある。 == 映画化までの経緯 == 諸説ある。 [[広島県]][[呉市]][[美能組]]の元組長・[[美能幸三]]が[[1970年]](昭和45年)[[9月]]、[[網走刑務所]]から出所。再会した美能の知人が獄中で書いた手記の存在を知り、手記を美能から預かりいくつかの出版社に持ち込む。これが編集者から編集者へ渡った後、[[週刊サンケイ]]が、これは面白いから是非連載をやらせて欲しいということになり、週刊サンケイは、その解説者として[[飯干晃一]]を選定することになった。なぜ飯干だったのかというと、『週刊サンケイ』は、手記を入手した時点で、既に[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長に映画化の話を打診しており、ゲラ刷りの内容を岡田は持っていた。岡田は映画化に興味を示すが、手記をそのまま映画化した場合、多々、困難な問題が生じてしまう。そこで、岡田が『週刊サンケイ』に出したのが[[原作者]]を立てるという提案だった。そして、このプランにふさわしい人物として東映と『週刊サンケイ』が選んだのが、飯干晃一だったのである。美能の手記が直接掲載されなかったのは、こうした理由から。飯干は「美能さんが獄中で何かを書いたということは、[[検察庁]]のある[[検事]]から聞いて知っていた。僕らはそれを"幻の文書"と呼んでいたが、あっちこっち捜し歩いたが発掘できなかったんです。見せられたときはこりゃ凄い。大変なものが出てきたなと思いました」と話している。 これだと映画化は既定路線ということになるが、他に[[1971年]](昭和46年)暮、東映京都の[[日下部五郎]]が飯干と別件の打ち合わせにより自宅を訪問時に手記の存在を知り、当時の日下部は[[俊藤浩滋]]プロデューサーの下にいたが、映画化に意欲を燃やしたという説もある。実際に東映と映画化の契約を結んだのは原作者の飯干で、美能は飯干から全く相談を受けなかった。しかし、映画化にあたって[[契約]]はなくても、[[承認]]は必要だろうということで、最初に俊藤浩滋が美能の元を訪ねた。美能は「週刊サンケイですべて終わらせたい」と断ったため、もう俊藤は行かなかった。そうしたらその後、[[高岩淡]]と京都撮影所の畑利明が再び訪ねてきて「どうしても映画にさせてくれ」と何日も泊まり込みで執拗に頼むので、美能は根負けして映画化を承知したという。他に[[菅原文太]]は、京都に撮影で行くとき、自身が表紙になった『[[週刊サンケイ]]』を東京駅の売店で買ったら、それに「仁義なき戦い」の連載第1回が載っていて、とても面白いので、京都の岡田社長を尋ねて、「これをやらせてくれ」と直談判したが、岡田は麻雀中で「そこ置いとけ」と、まともに相手してもらえなかったと話している。この時点では既に映画化が決まっていたのかもしれないが、興味深いのは、この菅原の話に俊藤浩滋が「それは遅い。オレは東京に行くおり、週刊サンケイを買って「仁義なき戦い」を読んだら凄く面白くてもう抑えた」と答えている点。俊藤が『週刊サンケイ』の連載を見て「仁義なき戦い」を知ったということであれば、『週刊サンケイ』の連載開始は[[1972年]](昭和47年)[[5月]]なので、前述の「俊藤が美能の元を訪ねた、その後、高岩淡と畑利明が訪ねた」という話は、それ以降ということになる。 1972年(昭和47年)[[5月]]に『週刊サンケイ』に連載が開始されるが、この後、9月に東映はシナリオ作成を[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に指示。笠原の『ノート「仁義なき戦い」の三百日』によると、実在する登場人物や組関係者がどのように反応するか憶測もつかないため、笠原本人も映画化は実現不可能と二の足を踏んだが、岡田社長の強い指示で取材に着手。実際に美能に面会した結果、「呉での抗争事件だけならなんとかまとめられる」と引き受けた。 笠原は獄中手記を書いた[[美能幸三]]にも人を介して会いに行った、当時の美能は8年の刑期を終えシャバに出てきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり「映画なんか信用できん」と美能の一言にその場を一目散に逃げ出した。ところが美能が追い駆けて来て色々話をしているうち、戦中共に海軍の大竹海兵団にいたことが分かって美能は喜び自宅にまで招かれた。手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞くことが出来た。別れ際、美能に'''「絶対に映画にしないんだな」'''と念を押されたので'''「しません!」と答え'''帰京、'''さっそく脚本に取りかかった'''という。美能から言わせれば、笠原と日下部が初めて訪ねてきたときは、二人をどこかの〈組〉の者ではないかと疑ったという。 映画が製作された[[1970年代]]の始めは広島抗争はまだ燻っており、いささか危険な状況で、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫する、折り紙付きの難物であった。このため当初は広島ヤクザをあまり刺激しないよう当事者に取材はせず、チャッと撮って正月第二週あたりの添え物で、ノン・スター、1時間10分くらいの白黒映画でやる予定であった。それが普通サイズのカラー映画でいこうと変わり、東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声はあったが、広島出身の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]社長のみが一人やる気満々で実現に至った。 監督の[[深作欣二]]は10月、別映画の編集中に俊藤浩滋から京都で製作するやくざ映画の監督をする気があるか打診されている。俊藤浩滋は[[東映東京撮影所]]で製作していた『[[人斬り与太]]』を評価。これにより深作欣二の起用を強引にすすめたとされる。深作自身は当時日本で最も評判の悪かったスタジオである[[東映京都撮影所]]に対して幾らかの先入観があったとされるが現場に入ってからは深作組の名の下、縦横の活躍を見せる。 プロデューサーの[[日下部五郎]]は最初、[[渡哲也]]の東映主演第1作として考えていた。渡に話を持って行ったが、渡は当時[[熱海]]で病気療養中で「1年くらいかかる」と断られ、前からやりたがっていた[[菅原文太]]に主演が決まった。菅原は本作の映画化を聞く前から『週刊サンケイ』の連載を読み、その魅力に圧倒され、東映に「映画化するなら俺を出せ」と言っていたという。このため渡の東映出演は『[[仁義の墓場]]』まで延期となっている。 当初の予定では[[佐々木哲彦]](劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を[[菅原文太]]にあてる予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公モデルにさしかえた。 他に役者の変更では山守義雄役は当初、[[三国連太郎]]の予定だったが、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が[[金子信雄]]を選んだ。しかし金子がクランクイン直前に倒れ出演が危ぶまれ、代役に[[西村晃]]が候補に挙がった。しかし話を耳にした金子が病床から這い出てきて「この役を降ろされたら生きていけない。死んでもやるからやらせてくれ!」と出演を熱望したため、西村の代役話は流れた。その他『代理戦争』で[[川谷拓三]]を世に出した西条勝治役は、最初[[荒木一郎]]が予定されていたが「広島ロケが恐い」という理由で降板したため、川谷拓三の大抜擢となったもの。 === シリーズ化の経緯 === 第一作の撮影中に二作目の『[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]』制作が決定し、東映は[[広島抗争]]の映画化を求めたが、笠原は「広島事件を描くと当然神戸の[[山口組]]が登場することになり、かなり慎重な配慮と手続きをしなければ」と苦悶。その結果、第一次広島抗争を実際の時代設定より後にずらし、[[山上光治]]を軸にしたストーリーを展開した。だが、結局、シリーズ大ヒットで、東映は笠原に「私がいやだいやだと逃げ回っている広島事件をとうとうやれと言い出し」、本人も開き直った。後日、笠原が[[小林信彦]]に語ったところでは、代理戦争における[[合田一家]](劇中では豊田会:笠原は合田一家の東進が広島戦争の原因としている)の評価も難しかったという。 前述のように当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原文太にあて一作だけで終える予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公モデルにさしかえた。元々、一作で終わらせようとしたのは俊藤浩滋で、これがシリーズ化されるようなことがあると[[鶴田浩二]]や[[高倉健]]など、俊藤が抱えている役者が使えないためである。さらに今まで大人しかった大部屋俳優も表に出始め都合が悪い。第二部は菅原の出番が少ないことは笠原は菅原から了解を得ていたが、1週間たったら菅原が「出番が少ないなら出られない」などと言い出した。菅原も俊藤の息がかかっていたからである。大喧嘩となって笠原は菅原に「お前、表に出てやるか!」と言うと「そっちがやる気なら、やってもいいです」と菅原は言うので笠原は「ふざけるんじゃない。俺がガラスの瓶、パンと割ってお前の顔を傷つけたら、もう役者としてやっていけないんだぞ。それでもやる気があるのか!」と言うと、深作が間に入ってその場は収まり、二部以降は菅原なしでやると決まっていた。そうしたら菅原が「出させていただきたい」と侘びを入れ続投となった。菅原はこれを機に俊藤と別れたというが、菅原のいないシリーズになっていた可能性もあったわけである。 == 映画 == [[1973年]](昭和48年)、[[東映]]配給網により正月映画第2弾として公開された[[ヤクザ映画]]。監督[[深作欣二]]。シリーズを通しての主演は[[菅原文太]]。製作[[東映]]京都。公開時の併映は『[[女番長 スケバン]]』。[[シネマスコープ]]。99分。やくざ同士の抗争を題材にしながら仲間を裏切り、裏切られることでしか生きられない若者たちが描かれている。 この映画が登場するまでのヤクザ映画の多くはいわゆる、チョンマゲを取った[[時代劇]]と言われる虚構性の強い[[仁侠映画]]であり、義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローが描かれていた。[[1968年]](昭和43年)から始まる菅原文太主演の『[[現代やくざ]]』シリーズで既にヤクザを美化した従来の任侠映画の常識を覆す現実的なワルを主人公にしたが、この映画では実在のヤクザの抗争を[[実録路線]]として、リアリティを表現させたところが新しい。本作に出てくるヤクザの大半は金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿が大いに描かれており、仁侠映画のようにヤクザを美化することはない。一時英雄的に表現されるキャラクターも最後には無残に殺される場面が多い。 また、この映画はヤクザを主人公にはしているが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、また自己啓発としての側面もある。ただし、基本的に娯楽映画/エンターテイメントであるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いており、犯罪者を美化するのかという批判もつきまとうことになる。 本作の特徴として手持ちカメラによるブレや、方言による迫力あるセリフの応酬が挙げられる。助監督をつとめた土橋亨はインタビューで以下の点を指摘している。 {{cquote|(i.e ドキュメントタッチになった原因について)<br>土橋 そうね。とにかくミッチェル・ズーム [i.e 映画撮影用のカメラのこと。パナビジョンの前に使用された。深作はこれにズームレンズをつけて、かつ、ライティングにより光量減をカバーするという手法を選択した] というのはこの映画が初めてだったし、成功した要因だろうね。それだとシンクロ(同時録音)できるからね。アフレコだったら広島弁のやりとりが噛んでいくあの感じ、絶対出ないんですよね。アフレコだとどうしてもスターティックになるから}} シリーズ全作の冒頭や中間部などで印象的に使われる“やくざ映画中の[[ナレーション]]”という手法は、笠原が[[1968年]](昭和43年)の『[[博奕打ち 総長賭博]]』で、初めてシナリオの段階から導入したもので、「[[アル・カポネ]]は19××年・・・」のナレーターから始まる『[[アンタッチャブル]]』を真似たという。 第一作の制作前にシリーズ化が決定されていたが、予想以上の大ヒットとなり[[興行収入]]は邦画の中で年間第2位となった。 === 深作オリジナル五部作 === *'''仁義なき戦い'''([[1973年]]) *'''[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]'''(1973年) *'''[[仁義なき戦い 代理戦争]]'''(1973年) *'''[[仁義なき戦い 頂上作戦]]'''([[1974年]]) *'''[[仁義なき戦い 完結篇]]'''(1974年) === 深作新シリーズ === *'''[[新仁義なき戦い]]'''(1974年) *'''[[新仁義なき戦い 組長の首]]'''([[1975年]]) *'''[[新仁義なき戦い 組長最後の日]]'''([[1976年]]) === 他監督作品 === *'''[[その後の仁義なき戦い]]'''([[1979年]]) ※[[工藤栄一]]監督 *'''[[新・仁義なき戦い]]'''([[2000年]]) ※[[阪本順治]]監督 *'''[[新・仁義なき戦い|新・仁義なき戦い/謀殺]]'''([[2002年]]) ※[[橋本一]]監督 == 映画版(第一部) == [[1973年]](昭和48年)1月13日封切 === スタッフ === *企画…[[俊藤浩滋]] [[日下部五朗]] *原作…[[飯干晃一]] *脚本…[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]] *監督…[[深作欣二]] *撮影…[[吉田貞次]] *音楽…[[津島利章]] *録音…溝口正義 *照明…中山治雄 *美術…鈴木孝俊 *編集…宮本信太郎 *助監督…清水彰 *スチル…藤本武 *進行…渡辺操 === キャスト === ;山守組(モデル・[[山村組]]) *山守義雄(モデル・[[山村辰雄]])(演者・[[金子信雄]])…山守組組長。 *坂井鉄也(モデル・[[佐々木哲彦]])(演者・[[松方弘樹]])…山守組若衆頭。組の実権を握って山守をもないがしろにし、これに不快を示す幹部仲間を次々と粛清する。子供への土産を買っている最中に射殺される。 *広能昌三(モデル・[[美能幸三]])(演者・[[菅原文太]])…山守組若衆(幹部)。物語の主人公。山守と坂井を和解させようとするが、両方に裏切られる形となる。坂井の葬儀の場でピストルを乱射。 *矢野修司(モデル・[[野間範男]])(演者・[[曽根晴美]])…山守組若衆(幹部)。坂井に対抗。坂井の子分たちに殺される。 *神原精一(モデル・[[前原吾一]])(演者・[[川地民夫]])…山守組若衆(幹部)。裏切って土居組につく。若杉に頭を撃たれ殺される。 *槙原政吉(モデル・[[樋上実]])(演者・[[田中邦衛]])…山守組若衆(幹部)。坂井に対抗。 *山方新一(モデル・[[山平辰巳]])(演者・[[高宮敬二]])…山守組若衆(幹部)。広能の親友。有田達に殺される。 *新開宇市(モデル・[[新居勝巳]])(演者・[[三上真一郎]])…山守組若衆(幹部)。坂井に対抗。坂井の子分たちに駅構内で殺される。 *有田俊雄(モデル・[[今田泰麿]])(演者・[[渡瀬恒彦]])…映画では山守組若衆。新開の舎弟。 *岩見益夫(演者・[[野口貴史]])…山守組若衆。広能を慕う。 *山守利香(モデル・[[山村邦香]])(演者・[[木村俊恵]])…山守義雄の妻。広能に指のつめ方を教える。 *新庄秋子(演者・[[渚まゆみ]])…不良米兵に襲われた後パンパン。のちに山方の女。さらに坂井の女へ。 ;土居組(モデル・[[土岡組]]) *土居清(モデル・[[土岡博]])(演者・[[名和宏]])…土居組組長。山守組に敗れる。 *若杉寛(モデル・[[大西政寛]])(演者・[[梅宮辰夫]])…土居組若衆頭で後に山守組につく。広能の兄貴分で広能から慕われていた。神原射殺後に逃亡中の隠れ家を警察に踏み込まれ射殺される。密告者は山守か槙原と推測される。 *江波亮一(演者・[[川谷拓三]])…土居組若衆。 *野方守(演者・[[大前均]])…土居組若衆。 *国広鈴江(演者・[[中村英子]])…若杉の女。 ;その他 *大久保憲一(モデル・[[海生逸一]])(演者・[[内田朝雄]])…呉の長老。山守組結成の媒酌人。 *上田透(モデル・[[小原馨]])(演者・[[伊吹吾郎]])…愚連隊上田組組長から山守組舎弟に。大久保の親戚。縁日の夜に若杉により片腕を切り落とされる。 *着流しのやくざ(演者・[[岩尾正隆]])…旅の人。山守組のシマで酒に酔って暴れ、刀を振り回しているところを広能に射殺される。 *金丸昭一(演者・[[高野真二]])…呉市会議員。 *中原重人(演者・[[中村錦司]])…呉市会議員。 ※ ナレーター…[[小池朝雄]] == 映画の評価 == 『仁義なき戦い』の成功は、深作欣二のダイナミックな演出、絶頂期に向かう役者達の演技、実録ならではリアリティなど、多くの複合要因から成り立ち、それら幸福な出会いともいえるが、やはり原作にはない膨大な資料を掻き集めてシナリオにまとめた[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]の巧みな脚本、"[[広島弁]]の[[シェークスピア]]"とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々によるところが大きい。プロデューサーの日下部五郎は「笠原さんが『仁義なき戦い』シリーズで残した最も大きな功績は、広島の方言、やくざ言葉を巧みに拾い上げて、映画の名ゼリフと言われるまでにしたことでしょう」と述べている。[[鴨下信一]]は「『仁義なき戦い』は、日本映画の[[マイルストーン]]になった。出演者は各々のベスト・[[パフォーマンス]]を見せているが、これらの誰よりも大スターがいて、その魅力が全編を支えている。それは広島弁である」と論じている。 [[芝山幹郎]]は「何度見てもおもしろい、というのはこの映画のためにある褒め言葉だろうか。『仁義なき戦い』には熱狂的なファンが多い。私もその一人だが、スピードといい、会話の味といい、役者の面構えといい、この作品は1970年代以降の日本映画のなかで群を抜いている」と評している。[[松方弘樹]]は『仁義なき戦い』が今も時代を超えて支持され続ける理由は何だと思いますか? という質問に対して「それ以上の映画が出来てないから(きっぱり)。まず監督がすごかったということもあるし、笠原さんの脚本も面白いし。あの時代はヤクザ社会だけじゃなくて世の中が一番激動の頃ですから。やっぱり題材が一番面白いですよ。それと、今はあれだけ層の厚い俳優さんたちがおらんもん」と話している。 後に笠原和夫は『[[ゴッドファーザー]]』からの影響を否定したが、初公開時には[[映画評論家]]から『ゴッドファーザー』の影響を指摘されて評価は低く、[[キネマ旬報ベスト・テン]]では同じ年に公開された『代理戦争』が8位、『広島死闘篇』が13位で、シリーズモノで票が分散したという不利な点はあったかも知れないが、2位であった。なお、1位は『[[津軽じょんがら節]]』。ただし読者の選出では見事1位(『広島死闘篇』4位)となっている。 評論家とは逆に、[[安保闘争]]の敗北など、当時の無力感を吹き飛ばすエネルギーに満ち溢れた映画に観客は熱狂的に迎え入れた。またそれまで任侠映画は大新聞が「暴力礼賛だから取り上げない」と宣言し、完全に黙殺したジャンルであったが、[[朝日新聞]]の映画評で絶賛されたことで影響は各紙誌に及び、映画の大ヒットに繋がったとも言われる。 深作はもともと客が入らない監督として知られていたため、この映画の大ヒットには戸惑っていたという。 [[大島渚]]は「[[キネマ旬報]]」第654号で『仁義なき戦い』について論じているが、大島はこの映画の成功は、ナレーションの巧妙さやタイトルの使い方が、大きな役割を果たしていると述べている。 19歳のとき、大阪の道頓堀東映でこの映画を見た[[井筒和幸]]は、「オレたちの青春と[[シンクロニシティ|シンクロ]]しすぎて、熱いものがガーっときて、[[プータロー|プー太郎]]だった自分がウワーとなって、もっていかれた」という。それまでは洋画一辺倒で日本映画なんて馬鹿らしくて、この映画がなかったら日本映画なんて観に行かなかったろうと話している。当時はビデオやDVDがなかったので、再上映を待って[[朝日ベストテン映画祭|朝日ベストテン]]の1位(1~3部)受賞での再上映でまた観に行くと、今度はインテリ風の観客が多くて、こんな映画を見せていいのか心配になったという。 菅原は後年、「俺が38歳、深作さんが41歳。若くてエネルギーがいちばん滾っていた時、内も外も最高の燃焼が生んだ作品は"仁義なき戦いシリーズ"に尽きるんじゃないかな、燃焼し尽くしたって気がする」「いまだに人に会えば"仁義なき戦い"ばかり言われて、さんざん嫌になってくる。もういいよと。"仁義なき戦い"はもう遠い昔のことというふうにしか思えない」と述べている。 「[[キネマ旬報]]」は[[2009年]](平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」に於いて、本作を『[[東京物語]]』、『[[七人の侍]]』、『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』、『[[幕末太陽傳]]』の古典的名画に次いで'''歴代第5位'''に選出した。同誌の歴代ベストテンは過去4度にわたり実施されているが『仁義なき戦い』の第5位は、1970年代以降の作品としては史上最高位となる。[[ヤクザ映画]]という[[カテゴリー]]を越えて、"日本映画史を代表する一本"として認知されつつある。 == 逸話 == === 作品 === *初めて聞かされる専門用語がふんだんに登場するなど、暴力団の内情をうかがわせた脚本は、笠原が綿密な取材を重ね膨大な資料を集めた成果である。それは "血風ヤクザオペラ" とも称された。 *笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3カ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂されたが、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田茂の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、[[菅原文太]]や[[金子信雄]]のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという。 *笠原は脚本執筆にあたり、1936年の[[フランス映画]]、[[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]監督の『[[我等の仲間]]』を参考にしたとしている。また、多大な影響をうけたのは、[[1972年]](昭和47年)の[[日活]]映画、[[神代辰巳]]監督の『[[一条さゆり 濡れた欲情]]』だと言う。広島抗争の取材を重ねて材料は充分に整ったが、その料理法に行き詰まった。エネルギッシュで生々しく、残酷でいてなにか浮世ばなれしたズッコケたヤクザ・ワールドの人間葛藤図は、それまでの任侠映画のパターンに収まりきらず、といって他に模すべき映画は見当たらず、『ゴッドファーザー」や『[[バラキ]]』といった[[マフィア]]物も見たが参考にならなかった。『仁義なき戦い』は戦後日本の風土のなかで描いてこそ活きる素材だったからである。八方塞がりの時、たまたま入った映画館で観たのが『一条さゆり 濡れた欲情』で、[[一条さゆり]]、[[白川和子]]、[[伊佐山ひろ子]]の三女優の裸身が、文字通り組んずほぐれつ、剥き出し性本能をぶつけ会う1時間余りの映像は、この上なく猥雑で、従順で、固唾を呑む暇もないほど迫力があった。これからの映画はこうでなければならないと信じ、この手法を持ってすれば『仁義なき戦い』の材料は捌けると強い自信をも抱いた。 *深作は「何でこのような、アナーキーな活気を込めたユニークな映画ができたのですか?」という[[白井佳夫]]の質問に対して「実録的なドラマの力であって、これは人間を創造したというより、現実をリアルに活写した映画、というべきでしょう」と語っており、五部作の抗争の構図の大枠については、ほぼ事実に則している。膨大な資料・データを蒐集した笠原が、全体の構図は保ちつつ、それらを加工・[[アレンジ]]し一つのストーリーに集約させたもので「事実」「実録」にアレンジ、[[デフォルメ]]を加えて作られた[[フィクション]]である。登場人物については、実在の人物のキャラクターに別の人物の要素を混入させているケースもある。例えば[[成田三樹夫]]扮する「松永弘」は、三名の実在人物から合成されたキャラクター。アクションシーンについては、単なる殺人シーンの羅列にならないよう、実際に起こった事件を別のシーンに起用して、映画にメリハリをつける計算を行われている。[[川谷拓三]]が第二部、大友組による無人島での拷問、第三部で指詰めだけでは足らないと手首から切り落とす話は、実際は別の組で行われた実話。この他、ユーモアシーンのエピソードとしては、第三部で登場する[[プロレスラー]]に広能が「あとで"ミス広島"を抱かせちゃる」と言うシーンがあるが、このセリフは実際に山村辰雄が[[田岡一雄]]に公約したものという。プロレスラーのモデルは[[力道山]]だが、映画では試合後、キャバレーでブスをあてがわれて怒り暴れるが、実際に行われた広島での試合は広島県警の大動員によって大きな混乱はなく、力道山はすぐに次の興行地へ移動したという。このようにモデル人物、モデルになった事件と、映画シーン、登場人物の照合は、必ずしも厳密ではない。笠原は「獄中で七年間、遺書のつもりで書き続けたという美能氏の怨念の重さを思うと、その手記を絵空事にすりかえてドラマだテーマだと言っていることが大層虚しく思われてきてならない。美能氏がよく我慢して下さったものだと感謝するのみである」と述べている。 *『[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]』以外の大半の撮影は京都市内で行われたが、第一部では[[広島駅]]構内([[京都駅]]山陰線ホームでは?)で無許可で撮影を強行したシーンが存在する。 *舞台が広島、神戸であったため出演者には演技の上で方言が必須になるが、習得にあたっては困難を極めノイローゼになる者が続出した。笠原も『頂上作戦』を書く頃には、セリフが広島弁でないと一行も書けないという慢性標準語喪失症に陥ったという。 *劇中、道具(武器、凶器)として数々の[[銃器]]が登場するが、これは[[米軍]][[岩国基地]]が近いことから容易に入手が可能だったためである。これらの大半は、不良米兵が金に困って、基地の軍用ピストルを盗み出したり、私物のピストルを持ち出して横流したものである。 === 出演者 === *第二部『広島死闘篇』で[[千葉真一]]が演じた大友勝利は、シリーズ中1、2を争う名キャラクターとして人気が高い。千葉自身も忘れられない役柄として挙げている。この役は当初[[北大路欣也]]が演じて、北大路の演じた山中正治を千葉が演じることになっていたことでも有名だが、実際山中のセリフは全て覚えていたにもかかわらず、北大路が山中役を切望したこともあって、深作から急に「大友やれ」と言われ役を交換した。しかし当時の千葉は[[ブロマイド]]の売上げが4年連続No.1であり、台本には「オメコの汁でメシ食うとるんで」などの過激なセリフもあり、とても悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫した。金玉を掻くシーンでは、深作から「やれ!」と強制されて行った後に、勢い余って臭いを嗅いだら「やりすぎ」と言われた。映画の後半に、「山中に銃口を向けられるシーンでは、慌てふためきダンボールで自分の顔を隠すように掲げる」という台本にないアドリブをやった。「相手に自分の顔が見えると撃たれてしまう」と人間のとった、とっさのバカげた行動が、よりリアリティを生んだ瞬間だった。「こういうのは役者冥利に尽きる」と話している。また「大友を演じたことにより、[[脇役]]や[[悪役]]にも興味を持ち始めた。私の中で大きな転機となった」と述べている。なお、大友勝利は第四部『[[仁義なき戦い 頂上作戦]]』にも登場する予定だったが、既に千葉が『[[ボディガード牙]]』シリーズの撮影に入っていたために実現せず、第五部『[[仁義なき戦い 完結篇]]』では大友が再登場したものの、[[宍戸錠]]が演じた。( ⇒ [[千葉真一#転機]]、[[仁義なき戦い 広島死闘篇#概要]])。 *子供の頃から歌手志望だった[[松方弘樹]]は、東映の人気俳優・[[波多伸二]]のロケ中の事故死による穴埋めで父・[[近衛十四郎]]に説得され17歳で俳優デビュー。1本だけの約束が東映の大量生産の煽りで次々と作品が決まり断れず、明けても暮れても撮影の日々。出演作は軒並みヒットしたが、演技に厳しい父は全ての作品をダメ出しし一度も褒めてくれなかった。やる気を失い、役者を辞めて[[遠洋漁業|遠洋のマグロ漁船]]に乗ろうなどと考えていたところを父に一喝され踏み止まったものの、このまま役者を続けていく自信もなかったが、30歳の時、この映画の第一部・坂井鉄也役に巡り合い変わったという。壮絶なシーンの連続に役者の醍醐味を味わい、演じることの面白さが実感できた。演技力にも自信が生まれ、ようやく父に褒めてもらえると思った矢先、父は亡くなった。 *第三部『代理戦争』で第一部に続いて再登板となった[[梅宮辰夫]]が演じたのが明石組幹部・岩井信一。モデルとなった[[山口組]]幹部・[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]の[[眉毛]]のない顔に似せるため、当初眉毛を[[蝋|ロウ]]でつぶす[[メーキャップ]]をしていた。実際の山本は眉毛がないのではなく薄かったというが、梅宮はよく汗をかいて溶けるのでめんどうくさくなってある日、[[志賀勝]]を真似て眉毛を剃った。京都の撮影所から東京に戻って娘・[[梅宮アンナ]]を抱くと、普段泣かない子だったのに「ギャーッ!!!」と引きつるように泣いたという。なお、梅宮は「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『[[不良番長]]シリーズ』なんですよ」と述べている。 *[[1992年]](平成4年)放送の深夜番組『EXテレビ』〈NTV、司会:[[上岡龍太郎]]、[[島田紳助]]〉の「芸人才人図鑑」のコーナーで[[金子信雄]]がゲスト出演し、『仁義なき戦い』の挿話を語った時に劇中における金子扮する山守義雄親分のインパクトが大きく、公開後、当時『[[山口組三代目 (映画)]]』の撮影関係で出入りしていた[[山口組三代目]]・[[田岡一雄]]親分が本作を鑑賞した後、金子の芝居を観て「あら (あれは)、モノホン (本物) だ」という感想を洩らしていた事を関係者づてで聞いた事を披露している。また公開当時、新幹線での移動中に金子扮する山守義雄親分のモデルである山村辰雄の舎弟であった山田久(劇中では『完結篇』で北大路欣也が演じた松村保)に遭遇し、その時大勢の子分を引き連れていた山田から「(子分に対して) お前ら、これが俺の親分だ。挨拶しろ」と車内で紹介されて挨拶される様子を「おれもどういう顔をしていいのかわからなかった」と印象を語り、また、周囲の乗客から好奇のまなざしで見られていた事もあって困惑と恐縮のしきりであった事を披露している。 *五部作を通して[[金子信雄]]を扮する山守義雄親分の妻・利香を演じた[[木村俊恵]]は、[[劇団俳優座|俳優座]]の女優だが映画界では地味な存在であった。この作品で時に夫・山守との絶妙のコンビプレーで子分を翻弄、時に山守の尻を引っぱたくモーレツなおかみさんを演じたが、やはり五部作の撮影終了間もない[[1974年]](昭和49年)5月、俳優座の公演中に過敏性腸カタルで倒れ、一旦回復したが同年7月26日、急性心臓死で39歳の若さで亡くなった。奇しくもこの日は、一年前から生活を共にしていた[[中谷一郎]]と晴れて結婚式を挙げる予定の日だったという。 *第一部で梅宮辰夫扮する若杉寛の恋人役、第三部『代理戦争』で[[室田日出男]]扮する早川英男の妻を演じた[[中村英子]]は、色白で上品な美人女優で「第二の[[藤純子]]」と期待されたが、映画の公開まもない[[1974年]](昭和49年)、[[山口組]]三代目[[田岡一雄]]の息子で、プロデューサーの[[田岡満]]と結婚して芸能界を引退した。しかし1年後、子供を残し24歳の若さで自宅でガス自殺した。本人の気の弱さとしか考えられないが、ヤクザ映画の会社に入ったばかりに、という声もあって、中村の亡霊が撮影所に現われると一時噂が立った。「幽霊でもいいからカムバックしてもらいたいよ」と中村を育てたプロデューサーは嘆いていたという。 *北大路欣也は第一部を仕事先で観て共鳴し、シリーズ化の決定を知り、自ら出演を直訴した。 *[[山城新伍]]は「白馬童子」で茶の間の人気者になったが、大衆娯楽がテレビのブラウン管に移り、[[萬屋錦之介]]や[[大川橋蔵]]などの大スターがテレビの[[時代劇]]に出演するようになると、実績と貫禄不足の山城は行き場を失い、ニュー東映の時代劇映画の脇役に回った。その山城が俳優として本領を発揮するようになるのも、この「仁義なき戦い」から。深作はこのシリーズ中、強面の主役のかげで、巨大暴力組織や警察に軽妙な機転で迎合しつつ、鋭い反骨の気概を失わずしたたかに生き抜いていくコメディリリーフ的な役柄として、山城に新しい光をあてた。 === モデル === *この作品の登場人物のモデルは大半が実在の人物で、関係者が見れば誰が誰なのか一目瞭然のため、初公開時には映画を見た当事者達が大変なクレームを付けた。映画なのでより劇的に[[キャラクター]]を膨らませたり、話を面白く脚色するのは当然なのだが、それを理解できない人達からクレームがあった。「事実と違う」とか、「ワシはそがいなこまい男じゃない(私はそんなに肝の小さい男ではない)」とか、現役で回りの子分などに格好がつかない人達もいたようである。中には「ワシが出とらん(私が出ていない)」というのもあったらしい。試写室に呼ばれた[[岡田茂 (東映)#人物・逸話|田岡一雄の謎の一言]]が逸話として有名。逆に「お蔭で息子も浮かばれました」と亡くなった人物の母親から感謝されることもあったという。この母親をモデルに創作したのが、第三部「代理戦争」で渡瀬恒彦演じる倉元猛の母親で、名前は第一部を観て笠原に電話をかけてきた[[倉本聰]]をもじったものという。「ヤクザ映画最悪のヒール」として描かれている[[金子信雄]]演じる山守義雄こと[[山村辰雄]]の場合は、同じく[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として描かれた姐さんが撮影現場を訪れ、役者と談笑していたというから、山村はしょせん映画は映画と考えていたのではといわれている。この他、広島抗争で重要な役割を果たしたといわれる[[波谷守之]]は「仁義なき戦い」五部作にまったく登場しないが、波谷をモデルにした『[[最後の博徒]]』では、別角度から見た「仁義なき戦い」が描かれている。 *二作目『[[仁義なき戦い 広島死闘篇|広島死闘篇]]』、三作目『[[仁義なき戦い 代理戦争|代理戦争]]』に登場する[[成田三樹夫]]演じる松永弘は、『代理戦争』での劇中、山守側に付くのか、 広能側に付くのか、で二者択一を迫られる。松永のモデルになった人物・[[網野光三郎]]は芸能・プロレスなどの[[興行]]も行っていて、明石組のモデルになった山口組とはかねてから付き合いがあり、山守組幹部でありながらすんなり山守側で立てないという事情があった。網野は映画の通り、ヤクザから足を洗いカタギとなって、事業家として大きな成功を収めた。新しく始めた事業の一つが、会社の休みの日や深夜にビルの掃除をするという、今で言う[[ベンチャービジネス]]のような[[ビル]][[メンテナンス]]の会社で、この会社は30年以上、同じ内容の[[ナレーター]]を使った[[CM]]を広島地区で流しており、広島県人でこれを知らない者はいない。 *『[[仁義なき戦い 代理戦争|代理戦争]]』、『[[仁義なき戦い 頂上作戦|頂上作戦]]』に情けないヤクザの代表格として登場する[[加藤武]]演じる打本昇のモデル・[[打越信夫]]は、実際は事業家として先見の明があった人物で、解散危機にあった[[広島カープ]]存続にも貢献している。[[プロ野球]]が庶民の娯楽になることを見越し、[[1950年]](昭和25年)に発足した広島カープの後援会(鯉城後援会)を作り広島カープの[[タニマチ]]となって、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]](1957年開場)の警備、自転車預かり所、売店などの運営を一手に引き受け新たなシノギを開拓した。鯉城後援会には広島の財界人がみんな入っていたという。有名な「たる募金」を組員によくやらせていたという。「カープのためによろしくお願いします!」と球場前でお客さんに頭を下げていたのは打越の組員だったのである。劇中に出てくるタクシー会社の設立も同時期の[[1954年]](昭和29年)である。ただしモデルになった会社、及び後継会社も現在は廃業しており現存しない。 *五作目の『[[仁義なき戦い 完結篇|完結篇]]』で、広能親分の留守の間に、若頭として広能組を守る[[伊吹吾郎]]演じる氏家厚司のモデルになった人物は、[[南海ホークス]]に所属した元・プロ野球選手。ただ、経歴からか「プロ野球人名録」などにも現在この人物の記載はなく、調査するのが困難な状況になっている。 *美能幸三は[[2010年]](平成22年)3月に亡くなったが、亡くなる数年前まで時折雑誌のインタビューに答えていた。このうち、[[2003年]](平成15年)出版された『東映実録やくざ映画 無法地帯』([[太田出版]])の中では、驚愕の事実を話している。『仁義なき戦い』は実録・実話と銘打っているものの娯楽映画であるため、ある程度のフィクションの加味は仕方ない。しかし美能は何と[[山村辰雄]]に盃をもらっていないという。「私は山村の子分ではない。盃をもらった親分は一人もいない。第一、山村と親子の盃をしているなら、ああいう手記は絶対に書かん。私は山村の七人衆と言われていたが、山村組に入ったことはない。山村が私のことを「アレはウチの若い衆じゃ」と言うから、みんな、そう思っていただけの話。私はあの人から世話になったことは一遍もない。みんなで集まったということもないし、ただ山村のとこへ出入りしていただけだったというのが本当のところで「組」というほどのものではなかったんだ」と話している。『仁義なき戦い』は、山守と広能の親子関係が大きなテーマとなっているが、これでは根本的な設定からしてフィクションになってしまう。 === その他 === *[[代々木忠]]は、広島抗争のきっかけを作ったのは俺たち。直接じゃないかもしれないが、後押しはしたと述べている。[[小倉市|小倉]]でヤクザをやっていた頃、広島で[[ストリップ]]の興行をずっと打っていたが、ストリップは儲かるということが分かると、広島の組の若い衆が来てトップクラスの踊り子を引き抜いていくから、これはその組長を取るしかねえだろう、と殺るつもりで事務所に乗り込んでいった。しかしその組長が引退するつもりだった、というから殺らずにすんだという。それから代理戦争が始まったと話している。[[安部譲二]]は広島抗争に参加したと話している→[[安部譲二#逸話]] 逆に[[城内実]]の父親は、広島抗争時の[[広島県警察|広島県警]]捜査二課長で、所謂ヤクザと対決する側のトップであったという。 == 舞台版 == 映画のヒットを受けて、[[1974年]](昭和49年)[[10月24日]] - 同年11月2日に、新宿紀伊國屋ホールで舞台版が上演された。 金子信雄から企画が出され、金子が当時主宰していた「劇団マールイ」の全面協力のもと、深作欣二と福田善之が共同演出として参加。キャストも金子が映画そのままに山守役を演じ、室田日出男、山城新伍、池玲子、成田三樹夫、曽根晴美ら映画版にも出演している役者達が多数出演している。 == ビデオ及びDVD == ビデオ化されなかった間も土曜日のオールナイトなどでシリーズ作がよく上映されていたが、[[1987年]](昭和62年)末に他のヤクザ映画より大幅に遅れた形でビデオ化された。これに関して深作は「映画が公開された頃は、描かれた人たちの多くが刑務所に入っていた。いわば鬼にいぬ間に公開してしまったようなところがあった。ところが映画のビデオソフト化が始まった頃は、もうその人たちは社会復帰していた。そのため、ビデオ化の方が色々と問題が多かったわけです」と語っている。 レンタルビデオは邦画としては桁外れの売上を達成し、以後もロングセラーを続けた。[[2008年]](平成20年)、DVD化もされており、DVDも売り上げは東映作品の中でも突出しているという。日本国外でも英語字幕つきDVDが販売されている。 == テレビ放映 == [[1990年代]]初めに『[[ゴールデン洋画劇場]]』でシリーズ5作が定期的に放送されたこともある。テレビ初放映時は1週間おきに5部作まで放送し高視聴率を記録した。この映画はいわゆる[[放送禁止用語]]が何箇所かあり、そういったシーンはカットされた。このため例えば第1部の名シーンの一つである広能が海渡組本宅前で土居組長を暗殺するシーンでは、広能がこれから殺らないといけないプレッシャーで憂鬱にしていたところ「土居じゃが」とターゲットの土居組長が訪ねてきたとたん、獲物を狙う狼のような表情に豹変する展開があるが、その前の憂鬱だったシーンで「ないか?」「ポンか([[ヒロポン]]のこと)」というセリフがあり、このためか、これらのシーンは全てカットされ土居組長の来訪シーンから始まってしまった。 == 余波 == *実は「仁義なき戦いシリーズ」は、1本もタイトルに「実録」をうたったことはないのだが、「仁義なき戦い」が興した[[実録シリーズ|実録ヤクザ路線]]のブームにより、以後の日本映画ではヤクザ映画にとどまらず、「実録阿部定」から「[[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]]」に至るまで実に100本以上の作品が題名に「実録」を冠することとなった。なお、[[小沢仁志]]は、[[2000年]](平成12年)の[[オリジナルビデオ|Ⅴシネマ]]「『実録・広島やくざ戦争』で、オレがタイトルに"実録"を入れようと言ったら"Ⅴシネマ"で"実録物" ばかり作られるようになった」と話している。 *物語においてモデルの団体・人名は仮名で登場する代わり、地名は実名でテロップやセリフで登場する。この映画のあまりの大ヒットの影響で、主要な設定場面である広島、神戸には[[ヤクザ]]のイメージが定着してしまった。当地では今もヤクザ映画に抵抗を覚える人は少なくないとされる。 *映画のテーマ曲は、シンプルなメロディで非常に高い演出効果を上げあまりにも有名だが、近年はテレビでヤクザや怖い(役の)人が出たり、武闘派タレントが激怒したり、また出演者の間でバトルが始まると、このテーマ曲がよく流れ、定着している。 *「仁義なき戦い」というタイトルも今や慣用句として定着、雑誌の見出しなどでよく使われる。[[2008年]](平成20年)[[1月]]には『[[佐々木夫妻の仁義なき戦い]]』という[[稲垣吾郎]]主演の[[TBSテレビ|TBS]]系[[テレビドラマ|ドラマ]]のタイトルにも使われた。そのほか第三部と第四部のそれぞれの副題“[[代理戦争]]”、“[[頂上作戦]]”も時折使われる語である。もともと“代理戦争”は国際社会の東西冷戦を、“頂上作戦”は警察による暴力団取締まりを当時のマスコミがこう呼んだもので、三部と四部の映画の副題として採用した。いずれも当初の意味では死語となっているが、現在も時折使われるのは、この映画の副題として残っている理由もあると思われる。 *[[北野武]]、[[井筒和幸]]、[[大森一樹]]、[[長崎俊一]]、[[黒沢清]]、[[林海象]]、[[三池崇史]]、[[高瀬将嗣]]、[[平山秀幸]]、[[入江悠]]]といった日本の映画監督はもちろん、[[クエンティン・タランティーノ]]や[[ジョン・ウー]]など、日本国外の映画監督にも多大な影響を与えたことでも知られる。また映像関係者、作家、漫画家など著名人にもファンが多い。[[浅田次郎]]、新田隆男、中田潤、秋本鉄次、神無月マキナ、[[大川俊道]]、[[パンチ佐藤]]、[[仁科貴]]、[[橋本一]]、[[佐々木亜希子]]、冷牟田竜之([[東京スカパラダイスオーケストラ]])、[[川原テツ]]ら。深作を敬慕する[[萩原健一]]は、かつて「深作さんの『仁義なき戦い』をみてると、腹立ってくるわけよ。なぜ、オレがここに出ていないかってね」と話した。[[奥山和由]]は、本作や「[[ゴッドファーザー]]」を観て映画が好きになり、自身が実話ばかりを映画化するのは、事実に食い込んでいったこれらの映画に凄い迫力を感じ、その時代に育ったせいと思うと話している。[[きうちかずひろ]]もこの映画に強い影響を受けたとインタビューで述べており、「[[仁義なき戦い 頂上作戦|頂上作戦]]」の山場で[[梅宮辰夫]]扮する岩井信一が放つ「おんどれらも、吐いた唾飲まんとけよ!」は「[[ビー・バップ・ハイスクール]]」にも語り継がれた名ゼリフ。『[[天元突破グレンラガン]]』は『仁義なき戦い』の影響を受けているという。映画が大好きだという[[安倍晋三]]は、政界を引退したら映画監督に転身したいと話し、「自分で撮るとしたらヤクザ映画ですかね。『仁義なき戦い』をさらにドキュメンタリータッチにして、 それと『ゴッドファーザー』を足して2で割ったものとかね」とラジオで話した。 *[[2010年]](平成22年)、[[カンヌ国際映画祭]]のコンペティション部門に『[[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]]』で参加した[[北野武]]は、現地の公式記者会見で、「影響を受けた作品は?」の質問に、「『仁義なき戦い』シリーズは好きだけど、手法としてはカメラを持って振り回したり、役者で空間を埋めるのも好きじゃない。“深作監督のような撮り方をしない”というのが、ある意味影響を受けたことかな」と、「仁義なき戦い」からの影響を話した。この他、日本の[[マスメディア]]のインタビューでも「あまり会話がないと『[[ソナチネ (映画)|ソナチネ]]』とかあっちに行っちゃうんで。『仁義なき戦い』のような、文句の言い合いみたいなのをやらなきゃいけないと思った」、「同じに見えないよう気をつけた」、「実録調のナレーションなんかを入れ込んだら「仁義なき戦い」と同じになっちゃう」などと「仁義なき戦い」からの強い影響があったことを話している。「アウトレイジ」の続編製作を発表したたけしは「まあ『仁義なき戦い』のシリーズと同じでさ、死んだ役者がもう一回出てもいいということにしよう」と、アウトレイジ続編は“仁義なき”方式でやると話した。 *この他、[[チェッカーズ]]のメンバーが当時、ツアー移動中のバス内で『仁義なき戦い』をよく見ていて大ファンだと、「[[とんねるずのみなさんのおかげです]]」で「[[チェッカーズ#音楽以外の活動|珍義なき戦い]]」」という[[パロディ]]コントを3、4回放送した。また「[[ダウンタウンDX]]」が[[ダウンタウンDX#トーク番組時代|基本ゲスト一人だけでのトーク番組]]だった時代に、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]も『仁義なき戦い』のファンだということで、第1回放送のゲストに[[菅原文太]]を招き、[[山城新伍]]と[[川谷拓三]]の2人の特別出演を加えて、ダウンタウンと『仁義なき戦い』の一場面のような[[賭場]]で抗争シーンを再現した。これはパロディではなく、かなり本格的な内容のものであった。 *この映画の大ヒットは[[実録シリーズ]]の量産を生んだ。このうち[[山口組]]の全国進攻を描いた作品は、第三部『[[仁義なき戦い 代理戦争]]』の作中、映像とテロップで駆け足で挿入されている。「昭和36年6月 義友会事件」は、[[明友会事件]]のことで『実録外伝 大阪電撃作戦』として後に映画化、「昭和36年7月 石川組組長刺殺事件」は、[[大和郡山市]]で起きた服部組長刺殺事件で、殺害した[[柳川組]]をモデルにして映画化されたのが『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』。そして「昭和37年5月 九州博多事件」としてテロップで出るものを最初に映画化したのが『山口組外伝 九州進攻作戦』。このテロップとともに映し出される映像、アパートで銃殺されるヤクザが[[夜桜銀次]]で、人気が高いこともあって夜桜銀次を題材としたものは、その後も何度か映像化されている。山口組を題材にした映画が量産できたのは、田岡一雄の息子・田岡満をスタッフに入れていた為である。田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという。 *東映は『仁義なき戦い』の大ヒット以降、こうした戦後の混乱期に輩出した[[広域暴力団]]の物語をシリーズ化し、それまで公式的な日本戦後史にあって決して語られてこなかった少数派を主人公とするアクション映画を次々製作した。前述の山口組の全国進攻を描いた作品以外にも各地で起こった暴力団抗争を描いた映画を多数製作し、その過程で、『[[沖縄やくざ戦争]]』(1976年)、『[[ドーベルマン刑事#映画|ドーベルマン刑事]]』(1977年)など、[[沖縄]]を舞台にしたアクション映画を製作。それまで沖縄を舞台にした映画は、反戦映画か芸術映画が主であったが、この東映の暴力映画を切っ掛けに[[1970年代]]に日本のアクション映画に最初の沖縄ブームが到来した。これが[[1980年代]]以降の[[崔洋一]]や[[北野武]]に続く。 *笠原和夫が「仁義なき戦い」の広島での取材中、[[総会屋]]・[[小川薫]]の存在を知って興味も持ち、小川に密着取材して1975年『暴力金脈』(主演・[[松方弘樹]]、東映)という総会屋を描いた映画が製作されている。この映画自体はあまり知られていないが、この映画が「[[東映実録路線|東映実録やくざ路線]]」に与えた影響は大きい。この作品以後、単に脇のエピソードとしてでなく、物語の主題として「経済やくざ戦争」をとりあげる作品が現れるからである。特に『広島仁義 人質奪回作戦』(1976年、東映)、『[[日本の首領|日本の首領 野望篇]]』(1977年、東映)の成立は『暴力金脈』の登場によるところが大きい。また近年、[[オリジナルビデオ]]で主に製作されるやくざ映画は、こうした「金融やくざ映画」が中心であるため、「仁義なき戦い」は本シリーズ以外にも「仁義なき戦い」から派生したこうした映画も含めて、後に影響を与えることになった。 *[[1993年]](平成5年)、[[第65回選抜高等学校野球大会|高校野球甲子園春選抜大会]]で[[大阪]][[上宮高等学校|上宮高校]]が優勝。この時、決勝戦に向かうバスの中で監督が選手達に「仁義なき戦い」のビデオを見せた。選手達を鼓舞させるのに最適との判断で見せたのだが、ヤクザ映画を見せた、と大きな問題となった。監督は「いや~こちらでは[[ポピュラー]]な映画なのですが…」と説明した。  *[[2003年]](平成15年)[[5月3日]]には[[日本放送協会|NHK]]で特集が組まれ、[[ETV特集|ETVスペシャル]]"「仁義なき戦い」をつくった男たち" のタイトルで放送もされた。ヤクザ映画をNHKが特集するのは画期的なことと思われるが、これも前述されているように、この映画が単純にヤクザ映画の範疇に収まっていない証明でもある。 *雑誌でこの映画、いわゆる広島抗争をよく取り上げるのは「[[実話時代]]」と姉妹紙『実話時代BULL』である。現在は下記参考文献にある特集本がたくさん刊行されているが、「[[実話時代]]」などが創刊された1990年頃はこういった特集本がほとんど無かったため、『仁義なき戦い』の詳細情報、例えばモデルになった人物が誰かなどの情報は、この雑誌でしか得ることが出来なかった。ところでこのジャンルはネタがあまり無いためか、この映画の関連記事を載せると部数が伸びるのか、一時毎月のようにこの映画と関連の特集を掲載していたことがあり、現在もよく載っている。 *近年も人気は持続し関連本・研究本が続々刊行される他、大友勝利など、メイン[[キャラクター]]の[[フィギュア]]なども発売されている。また、近年[[シネコン]]の増加で、各地で老舗映画館が閉館されるが、東映系の映画館の閉館イベントはこの映画が上映されることが多い。21世紀の現在も[[名画座]]を満員にできるコンテンツである。 *この映画の大ヒット後、[[ジャーナリズム]]は様々なヤクザ抗争を俎上に上げて料理し、それを原作とする多くの[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]が製作されたが、30年以上経った今日でも、未だこの映画を凌駕するものは生まれていない。このため、その存在価値は年々増すばかりで、ヤクザ社会を知りたければ、まずこの映画を見、原作を読まなければ始まらない。ヤクザ社会を知ることができる数少ないガイドブックでもある。 2014年12月のワイドショーの釜爺崩御の話題で釜爺のシーン放送された == 参考文献 == *「ある勇気の記録-凶器の下の取材ノート」([[中国新聞|中国新聞社]]報道部)([[青春出版社]]、1965年11月) *「仁義なき戦い(死闘編)」(著者・飯干晃一)([[角川文庫]]) *「仁義なき戦い(決戦編)」(著者・飯干晃一)(角川文庫) *「仁義なき戦い 仁義なき戦い・広島死闘篇・代理戦争・頂上作戦」(著者・笠原和夫)([[幻冬舎]]) *「仁義なき戦い 浪漫アルバム」(著者・[[杉作J太郎]]、[[植地毅]])([[徳間書店]]、1998年5月) *「実録『仁義なき戦い』・戦場の主役たち・これは映画ではない!」([[洋泉社]]) *「実録『仁義なき戦い』・外伝・血の抗争の鎮魂歌(洋泉社、2003年4月) *「仁義なき映画列伝」(著者・[[大高宏雄]])([[鹿砦社]]、2002年2月) *「昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫」(著者・笠原和夫、[[荒井晴彦]]、[[絓秀実]])([[太田出版]]、2002年11月) *「極道ひとり旅」(著者・美能幸三)([[サンケイ新聞]]社出版局)絶版 *「深作欣二の軌跡」([[キネマ旬報社]]、2003年5月) *「映画はやくざなり」(著者・笠原和夫)([[新潮社]]、2003年6月) *「東映実録やくざ映画 無法地帯」(著者・高橋賢)([[太田出版]]、2003年8月) *「笠原和夫 人とシナリオ」(著者・シナリオ作家協会)(シナリオ作家協会、2003年11月) *「訓録「仁義なき戦い」 人生で必要なことはすべて「仁義」に学んだ」(著者・仁義総研)(徳間書店、2004年12月) *「仁義なき戦い」をつくった男たち―深作欣二と笠原和夫(著者・[[山根貞男]]、[[米原尚志]])([[日本放送出版協会]]、2005年1月) *「「仁義なき戦い」調査・取材録集成」(著者・笠原和夫)([[太田出版]]、2005年7月) *「仁義なき戦いバトル・ロワイヤル」(著者・深作欣二、[[高野育郎]])([[アスペクト (企業)|アスペクト]]、2000年12月) *[[週刊実話]]、2000年10月5日号、p196-199 *[[アサヒ芸能]]、2008年1月24日号、p213-218 *「破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲」(著者・笠原和夫)([[ちくま文庫]]、2004年2月) ※「鎧を着ている男たち」(徳間書店、1987年6月を加筆、改題し[[幻冬舎]]から1997年に出版、さらに再出版したもの) *「日本映画俳優全集 女優編」([[キネマ旬報社]]、1980年12月) *「映画主義者深作欣二」(著者・[[立松和平]]、[[文春ネスコ]]、2003年7月) *「仁義なき戦い PERFECT BOOK」 [[別冊宝島]]833号([[宝島社]]、2003年8月) *「ヤクザが認めた任侠映画」 別冊宝島922号(宝島社、2003年12月) *「[[実話ナックルズ]]」、2010年8月号、[[ミリオン出版]]、p59-65 *[[SPA!|週刊サンケイ]]、1973年1月19日号、p38-41 == 関連項目 == * [[日本の映画作品一覧]] * [[広島県を舞台にした映画作品]] {{深作欣二}} {{DEFAULTSORT:しんきなきたたかい}} [[Category:深作欣二の監督映画]] [[category:日本の映画作品]] [[category:ヤクザ映画]] [[Category:ノンフィクションを原作とする映画作品]] [[Category:東映]] [[Category:広島市を舞台とした映画作品]] [[Category:戦後日本を舞台とした映画作品]]