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*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192 | *{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192 | ||
+ | *{{Aya|粟屋|小田部|year=1984}} 粟屋憲太郞・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』vol.99 no.8 (1182)、1984年8月、pp.284-303、{{NDLJP|3365998/145}}{{閉}} | ||
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2019年12月24日 (火) 21:20時点における版
徳川 義知(とくがわ よしとも、1911年5月22日 - 1992年4月14日)は、尾張徳川家の第20代当主。英国への留学歴があり、英語力を活かして父・徳川義親が関与していた1939年-1940年の排英運動・対英工作や1942年の日本軍によるシンガポール占領後のマラヤのスルタン統治に関与した。戦後、日英協会の理事や日本赤十字社の常任理事を務めた。
経歴
1911年5月22日、東京で、父・義親と母・正子の間に、6人きょうだいの1番目(長男)として生まれる[1]。尾張徳川家の初代・義直の幼名に因んで「五郎太」と名付けられた[2]。
暁星中学を卒業[3][4]。1921年-1922年にかけて、義親夫妻が1年間ヨーロッパへ旅行していた間、文京区に住んでいた八代六郎に預けられた[5]。
1931年、華族の長男として成人したため、従五位に叙せられ、名を「義知」と改める。尾張徳川家の第20代。同年12月に設立された尾張徳川黎明会の副会長に就任。会長は父・義親だった。[6]
1934年11月に帰国し、翌1935年8月から東京帝室博物館に研究員として勤務[7]。同年10月に松平恒雄の次女・正子と結婚[8][9]。
尾張徳川家が目白に開設した啓明寮の寮長を務め、素人楽団を組織して、指揮を担当。各地から招待を受けて、演奏旅行をするなどした。[10]
1939年頃の排英運動の際には、父・義親とともに対英工作に携わり、警視庁外事課と連絡を取り、英国駐日大使館からの情報収集などを行った[11][12]。
1940年6月14日にナチス・ドイツがパリを陥落させた後、同月20日にオット駐日ドイツ大使と小磯国昭拓務大臣が会談して、三国同盟の締結と日本の仏印・蘭印占領について相談した際には、拓務省嘱託として会談を斡旋し、通訳にあたった[13]。
1942年2月、太平洋戦争開戦時には、英語力を買われ、軍の通訳官として東南アジア(仏印?)で働いており、シンガポール占領後の同年3月に第25軍軍政顧問となった父・義親とともにマレーに入り、スルタンの統括を担当していた義親の連絡役としてジョホールのスルタンに「版籍奉献」を打診するなどした[14][15]。
帰国後、1943年12月から大森に設置されていた東京俘虜収容所に勤務した[15]。
- 徳川 (2006 88,102)によると、同収容所の職員は戦後、捕虜から虐待の罪で戦犯訴追を受けることが多かったが、義知は感謝状をもらい、元捕虜と戦後も親交があったという。
戦後、1945年9月に日本赤十字社に入社し、戦地からの復員引揚げや医療福祉事業に従事[16]。赤十字社は皇后を名誉総裁とし、宮家の人物が催事に出席することも多く、義知はその接待役を務めた[16]。
1946年1月、公職追放を受けて父・義親が黎明会の会長を辞職したことに伴い、同会会長に就任[17]。
赤十字社のほかに、社会福祉法人・大泉旭出学園や社会福祉法人富士旭出学園の理事長も務めた[18]。
1951年から日英協会の理事、1965年から死去まで同会副会長を務めた[19]。
晩年には日本赤十字社の常任理事となった[16]。
1992年4月14日に死去、享年81[2]。遺骨は瀬戸市の定光寺にある尾張徳川家の納骨堂「崇徳院」に納められた[20]。
家族
趣味
栄典
- 1967年、長年、日英親善に尽したとしてエリザベス2世からオノラリー・コマンダー・オブ・ザ・モストゥ・エクセラント・オーダー・オブ・ザ・ブリティッシュ・エンパイアー の称号を受ける[24]。
- 1977年、長年の親善友好の功績が認められ、ジョホールのスルタンからダルジア・ケラバ・ジョホール・ヤング・アマ・ディホルマティ の称号を受ける[24]。
- 死去後、日本赤十字社から長年の功績があったとして金色有功章の追贈を受けた[20]。
付録
脚注
- ↑ 徳川 2006 84,87,101
- ↑ 2.0 2.1 2.2 徳川 2006 101
- ↑ 3.0 3.1 小田部 1988 22
- ↑ 徳川 2006 87
- ↑ 徳川 1973 60
- ↑ 徳川 2006 101-102
- ↑ 徳川 2006 102
- ↑ 徳川 2006 87,102
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 小田部 1988 22-24
- ↑ 徳川 2006 87-88
- ↑ 小田部 1988 119-121
- ↑ 粟屋 小田部 1984 291
- ↑ 粟屋 小田部 1984 293
- ↑ 小田部 1988 145-146,148-149
- ↑ 15.0 15.1 徳川 2006 88,102
- ↑ 16.0 16.1 16.2 徳川 2006 88,102-103
- ↑ 徳川 2006 102-103
- ↑ 徳川 2006 103
- ↑ 19.0 19.1 徳川 2006 88
- ↑ 20.0 20.1 徳川 2006 105
- ↑ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 21.6 21.7 徳川 2006 84
- ↑ 22.0 22.1 小田部 1988 23
- ↑ 徳川 2006 88-89
- ↑ 24.0 24.1 徳川 2006 89,104
参考文献
- 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- 粟屋 小田部 (1984) 粟屋憲太郞・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』vol.99 no.8 (1182)、1984年8月、pp.284-303、NDLJP 3365998/145
- 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
- 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083