「入浴」の版間の差分
2行目: | 2行目: | ||
''入浴施設の構造物に関しては[[風呂]]を参照。'' | ''入浴施設の構造物に関しては[[風呂]]を参照。'' | ||
+ | |||
+ | === 日本 === | ||
+ | もともと日本では、川や滝で行われた[[沐浴]]の一種と思われる[[禊]](みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。 | ||
+ | 紀元3世紀の[[中国]]の歴史書に日本人の徹底した潔癖性についての記録がある。 | ||
+ | |||
+ | [[仏教]]が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『[[仏説温室洗浴衆僧経]]』と呼ばれる[[経典]]も存在し、[[施浴]]によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に[[光明皇后]]が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる[[法華寺]]の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、[[薬草]]などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。またはこの蒸し風呂のことを風呂と呼んでいた。 | ||
+ | |||
+ | [[平安時代]]になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を、上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『[[枕草子]]』{{要出典|date=2019年1月|(どの版本のどの段か)}}などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。 | ||
+ | |||
+ | 浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う'''行水'''というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が、一般化したのは[[江戸時代]]に入ってからと考えられている。 | ||
+ | |||
+ | だが、[[漢方医]]の間では入浴の習慣が広まることに危機感を覚えるものもいた。いわゆる[[後世派]]と呼ばれる医師たちは、[[温泉]]療法以外による入浴は体内の気を乱して体に悪影響を与えると考えていた。[[貝原益軒]]の『[[養生訓]]』にも10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は却って毒となると書かれている。だが、[[古方派]]とされる医師たちは[[実証主義]]観点から適度な入浴は気の循環を良くして体内の毒物を外部に排出するのを助けると論じ、[[蘭方医]]も[[皮膚]]に[[垢]]が付着することの危険性を論じて、「入浴害毒論」を批判している。 | ||
+ | |||
+ | 現在、世界的に見ても日本人の入浴頻度はかなり高い。江戸時代は一般的に入浴頻度がそれほど高くなく、銭湯などの共同浴場での入浴が一般的だった一方で、地域や生活水準、あるいは季節によってまちまちであった。 | ||
+ | 毎日入浴する習慣が全国的になっていくのは、家庭内へガスによる瞬間[[湯沸器]]や水道水の普及が進んだ[[高度経済成長]]期以降のことである。近年は[[シャワー]]が普及し、少人数世帯の増加と、夏期は一日に複数回入浴するためにシャワーのみ浴びるという人が増えた。また「高温の入浴は健康(特に高血圧)に悪い」「身体を温めるにはややぬるい風呂に長く入る方が効果的」と考えて、ぬるめの入浴を好む日本人も増えるなど、入浴の仕方に変化が現れている。 | ||
+ | |||
+ | 温泉街では、地元住民が通う湯温が高い共同浴場と、観光客も入れるぬるめにした浴場が別に設けられている地区もある。 | ||
+ | |||
+ | == 日本の入浴習慣 == | ||
+ | 一般に日本人は入浴、特に高い温水での入浴を好むと言われ、多くの日本人が好む入浴温度は40~43度程度である。『[[徒然草]]』にも'''住まいは夏を旨とすべし'''とあるように、日本の住居は日本の多湿の気候を考慮して、風通しの良い構造が好まれていた。このため冬場の防寒のために熱い温度の入浴が好まれるようになったというものである。 | ||
+ | |||
+ | 日本人が風呂好きとなった原因として、冬は前述の理由から、夏は高温多湿の気候により汗をかきやすく、火山島のため土が粘土質であり埃が立ちやすいことなど、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土が挙げられる。また[[神道]]や[[仏教]]の影響を受け、入浴によって[[垢]]を落とすことは心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや、入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。 | ||
+ | |||
+ | これに対して、例えば[[中国]]では沐浴を5日に1回行うことが理想とされてきたが、基本的には蒸気浴・あるいは[[行水]]の類であったと考えられており、日本人の入浴が特殊であったことを物語っている。他の外国も行水、シャワーを使用する国が多い。 | ||
+ | |||
+ | 日本人は入浴に対し熱心かつ真剣であると言われる。「アメリカ人は体をきれいにするために風呂に入るが、日本人は体をきれいにしてから風呂にはいる」と言われるほど浴槽の衛生管理に気を使っている。日本では、浴槽に入る前に身体を洗うか、汚れを流し落とすことがマナーとされる。日本人と同じく入浴に熱心だったローマ人にとって、入浴はその後の活動の準備であり、そのために体をリフレッシュさせる手段であるため専ら日中に入浴した。一方、日本人は一日の疲れを癒やしぐっすり寝るために夜に入浴する{{sfn|クルーティエ |1996|pp=166-167}}。 | ||
+ | |||
+ | === 共同浴場(銭湯) === | ||
+ | {{See also|銭湯}} | ||
+ | 多数の他人と全裸で入浴をする共同浴場は、世界的に珍しい日本独特の入浴スタイルである。日本以外の温泉や公衆浴場では水着や前掛けを着用して入るのが一般的である。日本でも[[宝永]]年間以前までは、男は[[風呂褌]]、女は[[湯文字]]という専用の服装で入浴していた<ref>岩井宏實『日本の伝統を読み解く:暮らしの謎学』青春出版社、2003年、ISBN 4413040686、p.141.</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 公家が邸宅に入浴施設を取り入れ始めた平安時代頃から、集落の密集した都市には入浴をサービスとして提供する町湯が現れたといわれている。 | ||
+ | |||
+ | [[1591年]]に伊勢与市によって[[江戸]]に初めての[[銭湯]]が置かれて以来、急速に江戸市民の生活に溶け込んでいった。江戸時代に入ると、銭湯が大衆化した。初めは心身的な理由で入浴することが多かった人々の間でも、次第におしゃれや[[娯楽]]、社会的コミュニケーションの場として銭湯に行く者も増加するようになった。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを[[湯女]](ゆな)にしてもらう湯女風呂などが増加した。当時の[[川柳]]に「''銭湯へ行かぬで下女は毒づかれ''」と銭湯へ行かない者を揶揄するものが現れるのも、こうした時代背景がある。[[松平定信]]が江戸の銭湯での男女混浴を禁止する御法度を出すなど、風紀の厳しい取り締まりの対象にもなった(この取締りは日本の狭小な住宅事情もあり、銭湯側の対処が湯船に簡便な仕切りを施しただけの例が多かったため結果的に浴室が狭くなり、特に女性側から苦情が出た)。その一方で[[江戸幕府|幕府]]が低廉な価格維持([[山東京伝]]によれば[[享和]]年間における入湯料は大人10文・子供8文であったという)の代わりに銭湯業者の保護も行っていた。日に何度も銭湯へ通う客のために、月単位で通しで入れる木札を売っていたともいう。 | ||
+ | |||
+ | 『[[浮世風呂]]』([[式亭三馬]])のように文芸・絵画の題材にもなった。 | ||
+ | |||
+ | なお江戸時代の銭湯の浴室は蒸し風呂を兼ねていた。入り口が'''柘榴口'''と呼ばれる高さが低い鴨居で湯気が逃げないようにする構造になっており、そのため浴室内はかなり薄暗かった。そのため、浴室に入るときや出るときには先客に声をかける(例えば、入る時には「冷えものです」等)のが礼儀とされた。なお、柘榴口は明治初期に衛生上の問題を理由に政府の命令によって取り外された。 | ||
+ | |||
+ | 明治以前にも男女[[混浴]]は風紀を乱す元として禁止令が出されたこともあったが、効果は薄かった。明治に入ってから、男女別浴が徹底されるようになった。また、[[トルコ風呂 (性風俗)|トルコ風呂]](現在の[[ソープランド]])は日本独自の[[性風俗]]文化として花開いた。 | ||
=== 地域における入浴習慣 === | === 地域における入浴習慣 === |
2019年11月30日 (土) 11:12時点における版
入浴(にゅうよく)とは、主に人が身体の清潔を保つことを目的として、湯や水・水蒸気などに身体を浸すことを指す。
入浴施設の構造物に関しては風呂を参照。
日本
もともと日本では、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。 紀元3世紀の中国の歴史書に日本人の徹底した潔癖性についての記録がある。
仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。またはこの蒸し風呂のことを風呂と呼んでいた。
平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を、上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』要出典などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。
浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が、一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。
だが、漢方医の間では入浴の習慣が広まることに危機感を覚えるものもいた。いわゆる後世派と呼ばれる医師たちは、温泉療法以外による入浴は体内の気を乱して体に悪影響を与えると考えていた。貝原益軒の『養生訓』にも10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は却って毒となると書かれている。だが、古方派とされる医師たちは実証主義観点から適度な入浴は気の循環を良くして体内の毒物を外部に排出するのを助けると論じ、蘭方医も皮膚に垢が付着することの危険性を論じて、「入浴害毒論」を批判している。
現在、世界的に見ても日本人の入浴頻度はかなり高い。江戸時代は一般的に入浴頻度がそれほど高くなく、銭湯などの共同浴場での入浴が一般的だった一方で、地域や生活水準、あるいは季節によってまちまちであった。 毎日入浴する習慣が全国的になっていくのは、家庭内へガスによる瞬間湯沸器や水道水の普及が進んだ高度経済成長期以降のことである。近年はシャワーが普及し、少人数世帯の増加と、夏期は一日に複数回入浴するためにシャワーのみ浴びるという人が増えた。また「高温の入浴は健康(特に高血圧)に悪い」「身体を温めるにはややぬるい風呂に長く入る方が効果的」と考えて、ぬるめの入浴を好む日本人も増えるなど、入浴の仕方に変化が現れている。
温泉街では、地元住民が通う湯温が高い共同浴場と、観光客も入れるぬるめにした浴場が別に設けられている地区もある。
日本の入浴習慣
一般に日本人は入浴、特に高い温水での入浴を好むと言われ、多くの日本人が好む入浴温度は40~43度程度である。『徒然草』にも住まいは夏を旨とすべしとあるように、日本の住居は日本の多湿の気候を考慮して、風通しの良い構造が好まれていた。このため冬場の防寒のために熱い温度の入浴が好まれるようになったというものである。
日本人が風呂好きとなった原因として、冬は前述の理由から、夏は高温多湿の気候により汗をかきやすく、火山島のため土が粘土質であり埃が立ちやすいことなど、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土が挙げられる。また神道や仏教の影響を受け、入浴によって垢を落とすことは心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや、入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。
これに対して、例えば中国では沐浴を5日に1回行うことが理想とされてきたが、基本的には蒸気浴・あるいは行水の類であったと考えられており、日本人の入浴が特殊であったことを物語っている。他の外国も行水、シャワーを使用する国が多い。
日本人は入浴に対し熱心かつ真剣であると言われる。「アメリカ人は体をきれいにするために風呂に入るが、日本人は体をきれいにしてから風呂にはいる」と言われるほど浴槽の衛生管理に気を使っている。日本では、浴槽に入る前に身体を洗うか、汚れを流し落とすことがマナーとされる。日本人と同じく入浴に熱心だったローマ人にとって、入浴はその後の活動の準備であり、そのために体をリフレッシュさせる手段であるため専ら日中に入浴した。一方、日本人は一日の疲れを癒やしぐっすり寝るために夜に入浴する[1]。
共同浴場(銭湯)
銭湯 も参照 多数の他人と全裸で入浴をする共同浴場は、世界的に珍しい日本独特の入浴スタイルである。日本以外の温泉や公衆浴場では水着や前掛けを着用して入るのが一般的である。日本でも宝永年間以前までは、男は風呂褌、女は湯文字という専用の服装で入浴していた[2]。
公家が邸宅に入浴施設を取り入れ始めた平安時代頃から、集落の密集した都市には入浴をサービスとして提供する町湯が現れたといわれている。
1591年に伊勢与市によって江戸に初めての銭湯が置かれて以来、急速に江戸市民の生活に溶け込んでいった。江戸時代に入ると、銭湯が大衆化した。初めは心身的な理由で入浴することが多かった人々の間でも、次第におしゃれや娯楽、社会的コミュニケーションの場として銭湯に行く者も増加するようになった。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にしてもらう湯女風呂などが増加した。当時の川柳に「銭湯へ行かぬで下女は毒づかれ」と銭湯へ行かない者を揶揄するものが現れるのも、こうした時代背景がある。松平定信が江戸の銭湯での男女混浴を禁止する御法度を出すなど、風紀の厳しい取り締まりの対象にもなった(この取締りは日本の狭小な住宅事情もあり、銭湯側の対処が湯船に簡便な仕切りを施しただけの例が多かったため結果的に浴室が狭くなり、特に女性側から苦情が出た)。その一方で幕府が低廉な価格維持(山東京伝によれば享和年間における入湯料は大人10文・子供8文であったという)の代わりに銭湯業者の保護も行っていた。日に何度も銭湯へ通う客のために、月単位で通しで入れる木札を売っていたともいう。
『浮世風呂』(式亭三馬)のように文芸・絵画の題材にもなった。
なお江戸時代の銭湯の浴室は蒸し風呂を兼ねていた。入り口が柘榴口と呼ばれる高さが低い鴨居で湯気が逃げないようにする構造になっており、そのため浴室内はかなり薄暗かった。そのため、浴室に入るときや出るときには先客に声をかける(例えば、入る時には「冷えものです」等)のが礼儀とされた。なお、柘榴口は明治初期に衛生上の問題を理由に政府の命令によって取り外された。
明治以前にも男女混浴は風紀を乱す元として禁止令が出されたこともあったが、効果は薄かった。明治に入ってから、男女別浴が徹底されるようになった。また、トルコ風呂(現在のソープランド)は日本独自の性風俗文化として花開いた。
地域における入浴習慣
四国の一部では新築の家あるいは風呂のリフォームをした際、一番風呂を通り掛かりのホームレスや御遍路(四国八十八箇所巡りの巡礼者)、老人に使わせた上、応接間で馳走(あるいはうどん)を振舞うと云う風習がある所がある。
医学的知見
一般に適度な入浴は皮膚の清潔を保ち、心身のストレスを取り除く効果がある。長期間入浴せずシャワーも浴びなかった場合、衛生状態が保たれず皮膚炎や感染症を引き起こす可能性がある。
例えば中世頃にペストが大流行した時、入浴の習慣のないヨーロッパ人の間では流行したが、入浴の習慣を先祖から受け継いできたユダヤ人はなかなか感染しなかった。このことから「ユダヤ人が毒を盛った」と疑われ、各地でユダヤ人に対する虐殺が起きた[3]。
1960年代にヒッピー文化が流行した時には、現存の文化を否定する意味で入浴、歯磨きといった衛生概念をほとんど行わない習慣が流行した結果、感染症が広まった[4]。
入浴した時に熱くも感じず冷たくも感じない温度を不感温度といい、36~37度程度である。この不感温度での入浴した時に消費されるエネルギーが最も少ない。不感温度より高くても低くても入浴中に消費されるエネルギーは増加する。また42度以上の高温の入浴や洗いすぎは皮膚の角質層を破壊し、痒みや皮膚炎に繋がる。
不感温度よりも5度以上高い、熱い温度のお湯に入浴すると、入浴開始直後は血液の流れを皮膚表面から遠ざけようとする身体的現象が発生する。また水圧により血管が押しつぶされ、心臓に加わる負担が大きくなる。高血圧症や心臓に持病を持つ人が熱い湯に入浴することを避けるように言われるのはこのためである。また入浴時間が長くなるにつれて、体温の上昇が始まる。すると身体の放熱をするために血管の拡張がおこり、脳や内臓に回る血液の量が減少する。これは血圧の低い人が湯上りの立ちくらみを起こしやすい原因となっている。
入浴介助
入浴介助とは自力での入浴行為が著しく困難な者に対し、他者が介助を行うことである。高齢や障害などにより入浴介助を必要とする人は多い。身体を清潔にする他、精神的、肉体的な苦痛と緊張を緩和させる、排泄作用を促進させる、睡眠を助長するなどの効果があるが上述の他にも転倒、意識喪失などのリスクもあり福祉・介護における専門性が要求される重要なサービスのひとつである。
入浴介助にはほぼ自立できる人を対象とした見守り、片麻痺のある人を対象とした入浴介助、シャワー入浴介助、寝たきりや車いすに乗ったまま行える機械浴の介助などがある。
動物の「入浴」
ペットを飼い主が湯に入れて洗うことも「入浴」「風呂に入れる」と表現されることがある。また日本では、野生または飼育下で湯につかるニホンザルがおり、「温泉猿」として観光客らに注目されている。
脚注
- ↑ クルーティエ 1996 166-167
- ↑ 岩井宏實『日本の伝統を読み解く:暮らしの謎学』青春出版社、2003年、ISBN 4413040686、p.141.
- ↑ 『ユダヤの力(パワー)-ユダヤ人はなぜ頭がいいのか、なぜ成功するのか!』(知的生きかた文庫) 加瀬英明 著
- ↑ Zablocki, Benjamin. "Hippies."