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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
1924年(大正13年)3月27日、北海道[[函館市]]に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれた。4歳の時に母が結核で亡くなったため、父の妹・志げの養女となり東京に移り住んだ。1929年、[[野村芳亭]]監督の映画『母』の子役オーディションに飛び入り参加して合格し、出演した。「母」(1929年)はヒットし、一躍子役として認められる。
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1924年(大正13年)3月27日、北海道[[函館市]]に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれた。出生名は平山秀子。兄弟は兄3名と弟1名。1928年、4歳の時に母が結核で亡くなったため、父の妹・萩野志げと萩野市治夫妻にもらわれる。志げは市治とともに活動弁士の経験があった。萩野市治はこのころ、旅回り一座の興行ブローカーであった。1929年、養父萩野市治に連れられて松竹キネマ蒲田撮影所を見学したが、この日は [[野村芳亭]]監督の映画『母』の子役審査日であった。飛び入り参加して野村芳亭監督の目に留まり入社する<ref name=takamine1>河出書房新社編集部(2016)『高峰秀子 (KAWADE夢ムック 文藝別冊) 』河出書房新社</ref>。芸名は養母の活動弁士時代の名前であった。ヒロインの[[川田芳子]]の娘役として出演した。1929年映画「母」は大ヒットし、一躍子役として評価される。
10月1日、5歳の時に松竹蒲田撮影所に入社する。芸名の高峰秀子は、養母が活弁士として活躍していた時の名前である。[[小津安二郎]]監督『東京の合唱』天才子役として人気を得る。
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1937年(昭和12年)[[P.C.L.]]の引き抜きを受けて移籍した。1938年(昭和13年)には[[山本嘉次郎]]監督の『綴方教室』で主演を務め、同年9月にP.C.L.は[[東宝]]映画となり、この後も多くの作品に出演し、戦時中も活躍する。
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1931年、蒲田の小学校に転校するが、撮影のためほとんど通学できなかった。同年の[[小津安二郎]]監督『東京の合唱』で天才子役として人気を得た。
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1932年、新派公演『新補 松風村雨』などに出演する。1933年、島津保次郎監督『頬を寄須すれば』で初のトーキー出演した。
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1934年、『赤城の子守歌』が大ヒットした歌手・[[東海林太郎]]のステージに共演した縁で、東海林から養女に請われ、志げと一緒に大崎にあった東海林の新居に移った。
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1936年、蒲田撮影所が大船に移転する。大幹部の[[田中絹代]]にかわいがられ、田中邸にも泊まり込む間柄となる。破産して上京した祖父の一家9人を、60円余の月給と明治製菓などからの広告収入などで養うことになった。
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1937年(昭和12年)、[[藤本真澄]]の仲介で月給100円と撮影所近くの成城の家付き、女学校進学を条件に、引き抜きを受けて[[P.C.L.]]に13歳で移籍する。撮影所で、喜劇役者のブーちゃん([[岸井明]])から「デコ」の愛称を貰う。御茶ノ水の[[文化学院]](当時、千代田区神田駿河台2-5)に入学する。
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1938年(昭和13年)には学校に通えなくなり退学する。映画の演技の深さを感じるようになる。末の兄隆三が居候となる。[[山本嘉次郎]]監督の『綴方教室』で主演を務め、高く評価された。同年9月にP.C.L.は[[東宝]]映画となり、この後も多くの作品に出演し、戦時中も活躍する。
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1940年(昭和15年)、15歳、転居先に[[市川崑]]が下宿する。『秀子の応援団長』(千葉泰樹監督)で共演の灰田勝彦と唄った「きらめく星座」とともに映画がヒットする。このころ、『小島の春』で共演した杉村春子の演技に感銘を受け、演技と真剣に向き合う契機となる。
  
 
1950年からフリーとなり1951年(昭和26年)には日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演する。高峰秀子の代表作となった1952年の『稲妻』、1954年の『二十四の瞳』、1955年の『浮雲』など映画史に残る名画に出演した。
 
1950年からフリーとなり1951年(昭和26年)には日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演する。高峰秀子の代表作となった1952年の『稲妻』、1954年の『二十四の瞳』、1955年の『浮雲』など映画史に残る名画に出演した。
 
 
1955年(昭和30年)2月25日、『二十四の瞳』の撮影で出会った[[松山善三]]と婚約し、3月26日に結婚式が行われた。
 
1955年(昭和30年)2月25日、『二十四の瞳』の撮影で出会った[[松山善三]]と婚約し、3月26日に結婚式が行われた。
  
 
1979年(昭和54年)、木下監督の『衝動殺人 息子よ』を最後として引退宣言をして55歳で映画から離れ、エッセイストやテレビの司会として活躍した。
 
1979年(昭和54年)、木下監督の『衝動殺人 息子よ』を最後として引退宣言をして55歳で映画から離れ、エッセイストやテレビの司会として活躍した。
 
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2004年、[[梅原龍三郎]]、[[堂本印象]]、[[宮本三郎]]などが描いた高峰秀子の肖像11点を[[世田谷美術館]]に寄贈する。
2010年(平成22年)12月28日、肺がんにより東京都渋谷区の病院で死去した。
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2009年元週刊文春の記者・[[斎藤明美]]を夫婦の養女とする。
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2010年(平成22年)12月28日、肺がんにより東京都渋谷区の病院において、86歳で死去した。
  
 
== 人物 ==
 
== 人物 ==
*持ち前の明るい性格から「デコちゃん」の愛称でかわいがられ、戦時下でも明るい娯楽作品が多かった。
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*持ち前の明るい性格から「デコちゃん」の愛称でかわいがられ、戦時下でも明るい娯楽作品が多かった<ref name=takamine1></ref>。
 
*木下恵介監督と飲んでいた時、「ンまァ、この男ったら….」と肩をたたかれたことがある。
 
*木下恵介監督と飲んでいた時、「ンまァ、この男ったら….」と肩をたたかれたことがある。
 
*学校には行けなかったが、子供の頃から本を読むのは好きだった。
 
*学校には行けなかったが、子供の頃から本を読むのは好きだった。
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== 著書 ==
 
== 著書 ==
*『巴里ひとりある記』(新潮社)
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*『巴里ひとりある記』(新潮社,1953)
*『わたしの渡世日記 上・下』(新潮文庫)
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*『わたしの渡世日記 上・下』(新潮文庫,1998)
*『人情話 松太郎』(文春文庫)
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*『人情話 松太郎』(潮出版社,1985)
*『台所のオーケストラ』(新潮文庫)
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*『台所のオーケストラ』(新潮文庫,2012)
*『にんげんのおへそ』(新潮文庫)
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*『にんげんのおへそ』(新潮文庫,2011)
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*『私の梅原龍三郎』(潮出版社,1987)
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*『おいしい人間』(文藝春秋,2004)
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*『忍ばずの女』(中央公論新社,2012)
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*『いっぴきの虫』(KADOKAWA,1983)
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*『コットンが好き』(文藝春秋,2003)
  
 
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2018年9月13日 (木) 23:24時点における最新版

高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年3月27日 - 2010年12月28日)は日本の女優である。300本以上の映画に出演しており、昭和期を代表する女優である。文筆家としては随筆を数多く発表し、高い評価を受けている。

経歴[編集]

1924年(大正13年)3月27日、北海道函館市に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれた。出生名は平山秀子。兄弟は兄3名と弟1名。1928年、4歳の時に母が結核で亡くなったため、父の妹・萩野志げと萩野市治夫妻にもらわれる。志げは市治とともに活動弁士の経験があった。萩野市治はこのころ、旅回り一座の興行ブローカーであった。1929年、養父萩野市治に連れられて松竹キネマ蒲田撮影所を見学したが、この日は 野村芳亭監督の映画『母』の子役審査日であった。飛び入り参加して野村芳亭監督の目に留まり入社する[1]。芸名は養母の活動弁士時代の名前であった。ヒロインの川田芳子の娘役として出演した。1929年映画「母」は大ヒットし、一躍子役として評価される。

1931年、蒲田の小学校に転校するが、撮影のためほとんど通学できなかった。同年の小津安二郎監督『東京の合唱』で天才子役として人気を得た。 1932年、新派公演『新補 松風村雨』などに出演する。1933年、島津保次郎監督『頬を寄須すれば』で初のトーキー出演した。 1934年、『赤城の子守歌』が大ヒットした歌手・東海林太郎のステージに共演した縁で、東海林から養女に請われ、志げと一緒に大崎にあった東海林の新居に移った。

1936年、蒲田撮影所が大船に移転する。大幹部の田中絹代にかわいがられ、田中邸にも泊まり込む間柄となる。破産して上京した祖父の一家9人を、60円余の月給と明治製菓などからの広告収入などで養うことになった。 1937年(昭和12年)、藤本真澄の仲介で月給100円と撮影所近くの成城の家付き、女学校進学を条件に、引き抜きを受けてP.C.L.に13歳で移籍する。撮影所で、喜劇役者のブーちゃん(岸井明)から「デコ」の愛称を貰う。御茶ノ水の文化学院(当時、千代田区神田駿河台2-5)に入学する。 1938年(昭和13年)には学校に通えなくなり退学する。映画の演技の深さを感じるようになる。末の兄隆三が居候となる。山本嘉次郎監督の『綴方教室』で主演を務め、高く評価された。同年9月にP.C.L.は東宝映画となり、この後も多くの作品に出演し、戦時中も活躍する。 1940年(昭和15年)、15歳、転居先に市川崑が下宿する。『秀子の応援団長』(千葉泰樹監督)で共演の灰田勝彦と唄った「きらめく星座」とともに映画がヒットする。このころ、『小島の春』で共演した杉村春子の演技に感銘を受け、演技と真剣に向き合う契機となる。

1950年からフリーとなり1951年(昭和26年)には日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演する。高峰秀子の代表作となった1952年の『稲妻』、1954年の『二十四の瞳』、1955年の『浮雲』など映画史に残る名画に出演した。 1955年(昭和30年)2月25日、『二十四の瞳』の撮影で出会った松山善三と婚約し、3月26日に結婚式が行われた。

1979年(昭和54年)、木下監督の『衝動殺人 息子よ』を最後として引退宣言をして55歳で映画から離れ、エッセイストやテレビの司会として活躍した。 2004年、梅原龍三郎堂本印象宮本三郎などが描いた高峰秀子の肖像11点を世田谷美術館に寄贈する。 2009年元週刊文春の記者・斎藤明美を夫婦の養女とする。 2010年(平成22年)12月28日、肺がんにより東京都渋谷区の病院において、86歳で死去した。

人物[編集]

  • 持ち前の明るい性格から「デコちゃん」の愛称でかわいがられ、戦時下でも明るい娯楽作品が多かった[1]
  • 木下恵介監督と飲んでいた時、「ンまァ、この男ったら….」と肩をたたかれたことがある。
  • 学校には行けなかったが、子供の頃から本を読むのは好きだった。
  • 12歳の時に破産した祖父一家が高峰秀子さんを頼って上京し、売れっ子の高峰秀子は9人の生活を支えていた。
  • 骨董品集めが趣味で、鑑定士の中島誠之助は「姐さん」と呼んでいた[2]
  • 「人気は人が勝手に作ってくれる」と漫画家の近藤日出造に語った。

著書[編集]

  • 『巴里ひとりある記』(新潮社,1953)
  • 『わたしの渡世日記 上・下』(新潮文庫,1998)
  • 『人情話 松太郎』(潮出版社,1985)
  • 『台所のオーケストラ』(新潮文庫,2012)
  • 『にんげんのおへそ』(新潮文庫,2011)
  • 『私の梅原龍三郎』(潮出版社,1987)
  • 『おいしい人間』(文藝春秋,2004)
  • 『忍ばずの女』(中央公論新社,2012)
  • 『いっぴきの虫』(KADOKAWA,1983)
  • 『コットンが好き』(文藝春秋,2003)

ランキング[編集]

  • オールタイム・ベスト日本映画男優・女優100」(キネマ旬報社,2014)女優部門で第1位

受賞[編集]

  • 1956年 第3回東南アジア映画祭 最優秀女優賞『浮雲』
  • 1961年 第5回サンフランシスコ国際映画祭 主演女優賞『名もなく貧しく美しく』
  • 1965年 第17回ロカルノ国際映画祭 最優秀女優賞『乱れる』
  • 1975年 紺綬褒章
  • 1976年 第24回日本エッセイスト・クラブ賞『わたしの渡世日記』
  • 1980年 第3回 日本アカデミー賞(1980年)優秀主演女優賞『衝動殺人 息子よ』
  • 1994年 第4回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞

参考文献[編集]

  1. 1.0 1.1 河出書房新社編集部(2016)『高峰秀子 (KAWADE夢ムック 文藝別冊) 』河出書房新社
  2. 高峰秀子(2013)『にんげん蚤の市』文藝春秋