「東京裁判 (妄想)」の版間の差分

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(パール判事)
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'''東京裁判'''とは、戦勝国が戦後に設けた条例により敗戦国の人間をわざわざ「裁判」で裁くという、前代未聞の茶番劇。
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'''東京裁判'''とは、正式には、'''極東国際軍事裁判'''(きょくとうこくさいぐんじさいばん '''The International Military Tribunal for the Far East''')という。
 
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正式には、'''極東国際軍事裁判'''(きょくとうこくさいぐんじさいばん '''The International Military Tribunal for the Far East''')という。
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太平洋戦争/大東亜戦争で日本が無条件降伏したあと、米国を中心とする連合国が敗戦国日本の「戦争犯罪人」を裁判形式で断罪したもの。
 
太平洋戦争/大東亜戦争で日本が無条件降伏したあと、米国を中心とする連合国が敗戦国日本の「戦争犯罪人」を裁判形式で断罪したもの。
  

2008年8月7日 (木) 22:25時点における版

東京裁判とは、正式には、極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)という。 太平洋戦争/大東亜戦争で日本が無条件降伏したあと、米国を中心とする連合国が敗戦国日本の「戦争犯罪人」を裁判形式で断罪したもの。

「裁判」とはいうものの、裁かれるのは敗戦国側の人間だけ。原爆投下や無差別空襲による民間人虐殺などの戦勝国側の残虐行為は問われず、罪刑法定主義・法の不遡及も履行されなかった。 裁判費用は27億円、日本政府の負担である。

戦犯

「戦争犯罪人」にはランクがあり、それぞれ罪状により「A級」「B級」「C級」などランク付けされた。

彼らが収容された監獄の中では「巣鴨プリズン」が有名である。ここには「B級」「C級」戦犯とともに、東條英機など日本の中心的戦争指導者が「A級」戦犯として収容されていた。敗戦までは高い地位で威張っていたA級戦犯の面々も勲章や軍服を剥ぎ取られ囚人の地位に落とされた。

戦勝国の中には、昭和天皇をも東京裁判にかけようという意見も強かったが、最終的には連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の意向で、天皇は訴追もされず退位も行われなかった。これは、「天皇が裁判にかけられることになれば、日本人は猛反発、共産主義国の介入を招き占領統治も困難になる」という内外の進言をGHQ最高指令官ダグラス・マッカーサーが信じたためらしい。

裁判

判事は連合国(戦勝国)から出された。うちわけは、アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの11ヶ国。

  • 1945年8月14日、終戦の詔勅。
  • 1945年8月15日、玉音放送。
  • 1945年9月2日、降伏文書調印・正式受諾。
  • 1946年1月19日、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められる。
  • 1946年5月3日、審理開始。
  • 1948年11月4日 - 11月12日、判決と刑の宣告言い渡し
  • 1948年12月23日 - 死刑執行(絞首刑)

判決

  • 判決に賛成・・・米国・英国・ソ連・中華民国・カナダ・ニュージーランドの判事
  • 別個意見書+賛成・・・オーストラリアの判事(裁判長)、フィリピンの判事
  • 判決に部分的に反対する少数意見書提出・・・オランダ・フランスの判事
  • 判決に全面的に反対する少数意見書提出・・・インドのパール判事

パール判事

インドのラダ・ビノード・パール判事は、被告全員の無罪を主張。 1952年4月28日、パール判事の意見書を元にした『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』 が出版された。ただしこの「日本無罪論」は、“日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし”あるいは“連合国を裁かないなら日本も裁かれるべきでない”という、この裁判の不公平さをついたものであって、決して「日本には戦争責任が無い」という意見ではない。

参考資料