「小松宮彰仁親王」の版間の差分
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2018年2月22日 (木) 19:37時点における版
[[画像:Komatunomiya Akihito Shinnou.jpg|thumb|200px|幕末期。仁和寺宮嘉彰時代の写真(中央の人物)]] [[画像:Komatsumiya akihito1024.jpg|thumb|200px|小松宮彰仁親王像([[上野恩賜公園]])]] '''小松宮彰仁親王'''(こまつのみやあきひとしんのう、[[弘化]]3年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]([[1846年]][[2月11日]]) - [[明治]]36年([[1903年]])[[2月26日]])は日本の皇族。官位は[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]][[菊花章|大勲位]][[金鵄勲章|功二級]]。 [[伏見宮邦家親王]]第8王子である。妃は、旧[[久留米藩]]主[[有馬頼咸]]の長女[[彰仁親王妃頼子|頼子]]で、頼子妃の母(嫡母)は[[有栖川宮韶仁親王]]王女、[[有馬韶子]]。 == 経歴 == 安政5年([[1858年]])、[[仁孝天皇]]の[[猶子]]となり、[[親王宣下]]を受け純仁親王を号し、[[仁和寺]]第三十世の[[門跡]]に就任した。[[慶応]]3年([[1867年]])、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王と名乗る。[[明治維新]]にあっては、[[議定]]、軍事総裁に任じられた。[[戊辰戦争]]では、奥羽征討総督として[[官軍]]の指揮を執った。 明治3年([[1870年]])に宮号を[[東伏見宮]]に改める。[[1874年]](明治7年)に勃発した[[佐賀の乱]]においては征討総督として、また、[[1877年]](明治10年)の[[西南戦争]]にも[[旅団長]]として出征し乱の鎮定に当たった。[[1881年]](明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を[[世襲親王家]]に改められる。翌[[1882年]](明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで[[小松宮]]に改称した。 親王は、[[ヨーロッパ]]の[[君主国]]の例にならって、[[皇族]]が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。[[1890年]](明治23年)[[陸軍大将]]に昇進し、[[近衛師団長]]、[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]を歴任、[[日清戦争]]では征清大総督に任じられ[[旅順]]に出征した。[[1898年]](明治31年)に[[元帥 (日本)|元帥府]]に列せられ元帥の称号を賜る。 国際親善にも力を入れ、[[1886年]](明治19年)に[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[ロシア]]等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、[[1902年]](明治35年)、イギリス国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の[[戴冠式]]に[[明治天皇]]の名代として臨席した。 社会事業では、[[日本赤十字社]]、[[大日本水産会]]、[[大日本山林会]]、[[大日本武徳会]]、[[高野山興隆会]]などの各種団体の総裁を務め、[[皇族]]の公務の原型を作る一翼を担った。 == 年表 == * [[弘化]]3年(1846年):降誕 * [[安政]]5年([[1858年]]):[[親王宣下]]・嘉彰親王。入寺得度・純仁と号す * [[慶応]]3年([[1867年]]):[[王政復古_(日本)|王政復古]]・復飾を命じられる * [[明治]]元年([[1868年]]):軍事総裁、[[軍務官|海陸軍務総督]]、[[軍務官|軍防事務局督]]、[[軍務官]]知事、会津征討越後口総督 * 明治2年([[1869年]]):[[兵部省|兵部卿]]、辞職 * 明治3年([[1870年]]):東伏見宮、[[イギリス]]留学、[[議定]] * 明治6年([[1873年]])帰国、陸軍少尉 * 明治7年([[1874年]]):[[佐賀の乱]]。佐賀征討総督 * 明治9年([[1876年]]):[[陸軍戸山学校]]長、兼議定官 * 明治10年([[1877年]]):東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官 * 明治11年([[1878年]]):東部検閲使 * 明治13年([[1880年]]):[[陸軍中将]]・近衛都督 * 明治15年([[1882年]]):小松宮と改める。[[大勲位菊花大綬章]] * 明治19年([[1886年]]):欧州差遣 * 明治20年([[1887年]]):帰国・近衛都督 * 明治23年([[1890年]]):陸軍大将 * 明治24年([[1891年]]):近衛師団長 * 明治26年([[1893年]]):兼議定官 * 明治28年([[1895年]]):参謀総長、[[日清戦争]]征清大総督、[[大勲位菊花章頸飾]] * 明治31年([[1898年]]):元帥・日清戦争征清大総督辞職 * 明治35年([[1902年]]):英国国王戴冠式差遣 * 明治36年([[1903年]]):薨去、[[国葬]] == 小松宮家 == [[小松宮]]は一代で断絶したが、[[北白川宮能久親王]]第4王子の'''輝久王'''(てるひさおう)が[[1910年]](明治43年)[[7月20日]]に[[臣籍降下]]し、[[小松輝久]][[侯爵]]となって[[小松宮家]]の祭祀を継承した。 == 血縁 == * 父母:[[伏見宮邦家親王]] - 妃[[鷹司景子]] * 兄弟:[[山階宮晃親王|晃親王]] - [[聖護院宮嘉言親王|嘉言親王]] - [[曼殊院宮譲仁入道親王|譲仁親王]] - [[久邇宮朝彦親王|朝彦親王]] - 男子 - [[伏見宮貞教親王|貞教親王]] - 男子 - [[小松宮彰仁親王|彰仁親王]] - [[北白川宮能久親王|能久親王]] - 男子 - 男子 - [[華頂宮博経親王|博経親王]] - [[北白川宮智成親王|智成親王]] - [[伏見宮貞愛親王|貞愛親王]] - [[清棲家教]] - [[閑院宮載仁親王|載仁親王]] - [[東伏見宮依仁親王|依仁親王]](女子省略) * 妻:[[彰仁親王妃頼子|有馬頼子]] * 子:(養子)[[東伏見宮依仁親王|依仁親王]] == 関連項目 == * [[仁和寺]] * [[伏見宮家]] * [[征討大将軍]] * [[大日本武徳会]] * [[楽寿園]] == 外部リンク == *[http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/ssr/2s2/si441001.html 『親王・諸王略傳』彰[彰仁]] * 小松宮彰仁親王御夫妻の写真アルバムhttp://yushodo.co.jp/pinus/61/meijiphoto/photom2.html {{DEFAULTSORT:こまつのみやあきひとしんのう}} [[Category:日本の皇族]] [[Category:日本の陸軍軍人]] [[category:真言宗御室派]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:西南戦争の人物]] [[Category:日清戦争の人物]] [[Category:日本の赤十字の人物]] [[Category:大日本武徳会の幹部]] [[Category:大日本山林会の人物]] [[Category:大日本水産会の人物]] [[Category:東京地学協会の人物|陸軍こまつのみやあきひとしんのう]] [[Category:1846年生]] [[Category:1903年没]]