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2018年1月21日 (日) 23:23時点における最新版
菅原 恵慶(すがわら えけい、1897年頃-1982年)は、東京・浅草にあるなつめ寺(運行寺)の住職[1]。
戦前から、日本の浄土宗・浄土真宗の教えの源流となった中国浄土教とその確立者である曇鸞に傾倒し、日華親善曇鸞大師奉讃会を組織[2]。戦時中も含めて5度、中国浄土教の発祥地である中国山西省の玄中寺を訪問した[2]。
1950年春頃、花岡事件で死没した華人労務者の遺骨の発掘・収集活動に参加[1]。遺骨400余柱を花岡からなつめ寺へ移し、1953年に中国へ送還するまで保管した[3]。
1953年に創立された中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の事務局長となった[4]。
1957年に中国仏教協会の招待を受け、訪華親善使節団の副団長として玄中寺を訪問[2]。曇鸞大師奉讃会会長として東本願寺、西本願寺および知恩院に働きかけて制作した、曇鸞、道綽および善導の絵像を奉安した[2]。
1967年に日中友好仏教者懇談会を創立し、運行寺を事務局にして事務局長、会長を歴任し、交流活動に従事した[5]。
81歳のときに『玄中寺と曇鸞大師』を記した[2]。
1982年に死去、遺骨は玄中寺に分骨された[5]。
著書[編集]
- 菅原恵慶『玄中寺と曇鸞大師-念仏の発祥地中国玄中寺と私の曇鸞像』ピタカ、1978年、全国書誌番号:80026474
- 石川舜台(著)菅原恵慶(編)『教行信証玄義』顕真会、1918年、NDLJP:957937 (閉)
関連文献[編集]
- 『玄中一脈』菅原恵慶追悼号、18、日華親善曇鸞大師奉讃会、1983年[6]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6