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− | 大正期の囲碁界には、[[本因坊]]家と[[方円社]]が並立して対抗していた。[[方円社]] | + | 大正期の囲碁界には、[[本因坊]]家と[[方円社]]が並立して対抗していた。[[方円社]]は5代目社長[[広瀬平治郎]]の独断的な運営に[[方円社]]理事の[[鈴木為次郎]]、[[瀬越憲作]]が反発していた。[[広瀬平治郎]]は方円社の丸ビル移転計画を立て、募金計画を立てたが計画は挫折して病に倒れ、再起ができなくなった。棋界の離合集散は、感情の対立から起こる。方円社理事であった[[鈴木為次郎]]、[[瀬越憲作]]、[[高部道平]]、[[雁金準一]]、[[岩佐銈]]の5名の棋士が反旗をあげ、1922年(大正11年)11月に裨聖会を立ち上げた<ref>安永一『囲碁百年』,時事通信社,1970年</ref>。 |
− | + | 会の名称は犬養毅が考案したものである。裨は副の意味で、裨聖は聖所に次ぐ場所という意味である。[[岩佐銈]]は声明には名を連ねたが、最終的に裨聖会には参加しなかった。裨聖会の役員は次の人々であった。会長として侯爵[[細川護立]]、評議員として伯爵[[吉川寛治]]、[[各務鎌吉]]、[[高橋錬逸]]、[[大縄久雄]]が参加した。 | |
− | + | 裨聖会の声明に「棋界伝統の旧習を打破し、凡ての組織を新たにし、以て新時代の趨勢に順応せねばならぬ」と書かれている<ref name=yano>矢野由次郎『棋界秘話』梓書房,1929年</ref>。主意書に方円社の主力棋士である5名が発起したこと、将来棋界の第一人者を目指すこと、現代棋界の革新を図る目的であること、勝負によって最も優秀な成績を挙げたものを棋界の代表者として推薦すること、それを認めないものがあれば何時でも対等の資格で争碁を打つことを宣言した。今までの行きがかりはすべて捨てて全て互先で手合し、選手権競技制を採用した(大正11年11月)。 | |
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+ | 裨聖会自体は成功であったとは言えないが、これらの趣旨は現代で実現されており、歴史的意義は大きい。裨聖会は囲碁界に画期的な革命を起こした。すなわち伝統的な段位制度を捨て、[[総互先]]による選手権制度をもうけたことである。互先の白のハンディを解消するため「互先四目半コミだし」を定めた。また対局時間を一人16時間の持ち時間制とした。これらの方式は現代に引き継がれており、歴史的な意義は大きい。 | ||
+ | 大正11年11月、[[高部道平]]は棋界統一との関係を問われて、裨聖会を組織して堂々と棋界統一に乗り込み中核になるつもりであると答えている<ref name=yano></ref>(p,278)。 | ||
+ | 裨聖会は1924年(大正13年)までに経済的に行き詰まり、坊門と一緒になり、[[方円社]]と合同をもちかけ、1924年(大正13年)7月17日[[帝国ホテル]]で発起人会が開催され、[[日本棋院]]が設立され、同時に裨聖会は解散した。 | ||
裨聖会での対戦は計24局で、成績は次の通り<ref>『裨聖会棋譜』 (上)(下),報知新聞社出版部, 1925年</ref>。棋譜は『裨聖会棋譜』(報知新聞社)として刊行され、[[細川護立]]、[[犬養木堂]]の題辞が贈られている。 | 裨聖会での対戦は計24局で、成績は次の通り<ref>『裨聖会棋譜』 (上)(下),報知新聞社出版部, 1925年</ref>。棋譜は『裨聖会棋譜』(報知新聞社)として刊行され、[[細川護立]]、[[犬養木堂]]の題辞が贈られている。 | ||
− | [[雁金準一]] 8勝3敗1ジゴ | + | |
− | [[瀬越憲作]] 6勝5敗1ジゴ | + | |
− | [[鈴木為次郎]] 6勝6敗 | + | *[[雁金準一]] 8勝3敗1ジゴ |
− | [[高部道平]] 3勝9敗 | + | *[[瀬越憲作]] 6勝5敗1ジゴ |
+ | *[[鈴木為次郎]] 6勝6敗 | ||
+ | *[[高部道平]] 3勝9敗 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == |
2017年9月30日 (土) 12:42時点における最新版
裨聖会(ひせいかい)は日本の囲碁の専門家団体。1922年(大正11年)に方円社から分離独立し、1924年(大正13年)まで存続した。
歴史[編集]
大正期の囲碁界には、本因坊家と方円社が並立して対抗していた。方円社は5代目社長広瀬平治郎の独断的な運営に方円社理事の鈴木為次郎、瀬越憲作が反発していた。広瀬平治郎は方円社の丸ビル移転計画を立て、募金計画を立てたが計画は挫折して病に倒れ、再起ができなくなった。棋界の離合集散は、感情の対立から起こる。方円社理事であった鈴木為次郎、瀬越憲作、高部道平、雁金準一、岩佐銈の5名の棋士が反旗をあげ、1922年(大正11年)11月に裨聖会を立ち上げた[1]。 会の名称は犬養毅が考案したものである。裨は副の意味で、裨聖は聖所に次ぐ場所という意味である。岩佐銈は声明には名を連ねたが、最終的に裨聖会には参加しなかった。裨聖会の役員は次の人々であった。会長として侯爵細川護立、評議員として伯爵吉川寛治、各務鎌吉、高橋錬逸、大縄久雄が参加した。
裨聖会の声明に「棋界伝統の旧習を打破し、凡ての組織を新たにし、以て新時代の趨勢に順応せねばならぬ」と書かれている[2]。主意書に方円社の主力棋士である5名が発起したこと、将来棋界の第一人者を目指すこと、現代棋界の革新を図る目的であること、勝負によって最も優秀な成績を挙げたものを棋界の代表者として推薦すること、それを認めないものがあれば何時でも対等の資格で争碁を打つことを宣言した。今までの行きがかりはすべて捨てて全て互先で手合し、選手権競技制を採用した(大正11年11月)。
裨聖会自体は成功であったとは言えないが、これらの趣旨は現代で実現されており、歴史的意義は大きい。裨聖会は囲碁界に画期的な革命を起こした。すなわち伝統的な段位制度を捨て、総互先による選手権制度をもうけたことである。互先の白のハンディを解消するため「互先四目半コミだし」を定めた。また対局時間を一人16時間の持ち時間制とした。これらの方式は現代に引き継がれており、歴史的な意義は大きい。 大正11年11月、高部道平は棋界統一との関係を問われて、裨聖会を組織して堂々と棋界統一に乗り込み中核になるつもりであると答えている[2](p,278)。 裨聖会は1924年(大正13年)までに経済的に行き詰まり、坊門と一緒になり、方円社と合同をもちかけ、1924年(大正13年)7月17日帝国ホテルで発起人会が開催され、日本棋院が設立され、同時に裨聖会は解散した。
裨聖会での対戦は計24局で、成績は次の通り[3]。棋譜は『裨聖会棋譜』(報知新聞社)として刊行され、細川護立、犬養木堂の題辞が贈られている。